+概要
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動しソ連領内への侵攻を開始したが、この時ソ連軍には量産中の自走砲が存在しなかった。
1930年代以来、6輪トラックの車台を用いたSU-12自走榴弾砲やYaG-10自走高射砲が制式採用され、また幾つかの戦車や装軌式車両ベースの自走砲が試作開発されたが、いずれも大量生産はされずに推移してきたのである。
しかし、航空支援と一体化して迅速に侵攻するドイツ軍機甲部隊を阻止する上で、牽引式対戦車砲や野砲では対応しきれず、戦線の砲兵指揮官から「充分な機動力を発揮できる対戦車自走砲や、対空自走砲が必要」との要望がソ連軍砲兵局(GAU)に寄せられていた。
これを受けて1941年7月1日に軍需工業人民委員部(NKV)は、2種類の自走高射砲(37mm対空機関砲、85mm高射砲搭載)と、57mm対戦車砲を搭載する対戦車自走砲の開発を発令した。
戦況が思わしくないことから、NKVはこれらの設計について7月15日までに完了し、直ちに試作車の製作とその後の量産化が図られるように開発者たちに求めた。
このうち対戦車自走砲の開発については、73口径という長砲身の57mm対戦車砲ZIS-2を開発・量産していたゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の第92スターリン砲兵工場に発注されることになった。
この57mm対戦車砲ZIS-2は、主任設計技師V.G.グラービンのイニシアチブにより、1940年5月に「F-31」の呼称で開発が開始されたもので、1941年初めにソ連軍に制式採用され同年7月1日より生産が開始されたが、製造コストが非常に高かったために同年12月1日で量産が一時停止された。
ZIS-2は、1941年に実用化された対戦車砲としては極めて強力な対装甲威力を持っていたが、この生産停止までに完成したのはわずか371門であった。
NKVの発注を受けた第92工場では主任設計技師P.F.ムラーエフの統括下、57mm対戦車砲ZIS-2を搭載する2種類の自走砲を企画設計した。
1つはモスクワの第37工場が生産していた46口径45mm対戦車砲53K、または16.5口径76.2mm連隊砲KT(M1927)用の軽装軌式装甲牽引車T-20「コムソモーレツ」(共産主義青年同盟員)の車台を用いたZIS-30対戦車自走砲、もう1つは装甲キャビンを付けたGAZ-AAA
6輪トラックの車台を用いたZIS-31対戦車自走砲であった。
ZIS-30とZIS-31の試作車はそれぞれ1941年7月下旬までに完成し、それから8月いっぱいまで実用試験が実施された。
そして、発射反動の強い57mm対戦車砲ZIS-2搭載のプラットフォームとしては、6輪トラックの車台を用いたZIS-31対戦車自走砲の方が安定性が良かったが、野外での運用面・機動性能は装軌式の足周りを持つZIS-30対戦車自走砲の方に分があり、結局後者が採用されて同年9月21日から量産に入ることになった。
しかし戦況の悪化は、この臨時開発の自走砲に深刻な影響を与えることとなった。
肝心のベースとなるT-20装甲牽引車を生産していた第37工場が、緒戦の大敗北で失われたソ連軍戦車兵力の穴埋めのためにその製造車両を全てT-60軽戦車に切り換えてしまい、ZIS-30対戦車自走砲のためにT-20装甲牽引車の新規車体を供給することができなくなってしまったのである。
結局、前線部隊に残っていたT-20装甲牽引車を引き揚げて、第92工場でZIS-30対戦車自走砲への改修作業を行うこととなったが、これもすでにかなりの数がドイツ軍との戦闘で失われており、また過酷な状況下での使用のために車体のコンディションが悪いものが多数で、自走砲用に適合するものがなかなか無かった。
それでも、試作車を含めて1941年10月15日までの間に102両のZIS-30対戦車自走砲が製作され、ソ連軍に引き渡された(このうち試作車1両のみが45mm対戦車砲53Kを搭載していたが、1942年1月に搭載砲を39.3口径76.2mm対戦車砲ZIS-3Shに換装している)。
ZIS-30対戦車自走砲は、ソ連軍部隊の将兵からは単純に「ZIS-2 57mm対戦車砲」と呼ばれた(そもそも牽引式のZIS-2自体も数が少なく、前線では目にされることがほとんど無かった)。
ZIS-30対戦車自走砲の車台として用いられたT-20「コムソモーレツ」装甲牽引車は、イギリス軍のブレンガン・キャリアとほぼ同サイズの装軌式牽引車両で、車体前部が装甲ボディになっており前部右側に7.62mm機関銃DTをボールマウント式に装備していた。
ZIS-30対戦車自走砲への改修にあたっては、車体後部の兵員搭乗部分に砲座を設けて57mm対戦車砲ZIS-2を取り付けているが、通常の自走砲のように装甲板で囲んだ戦闘室は設けられておらず、乗員の防御は主砲防盾だけであった。
ZIS-30対戦車自走砲の生産が行われていた最中の1941年10月2日、ドイツ軍はソ連の首都モスクワを陥落させるべくタイフーン作戦を発動させた。
すでに8月23日に開始されたキエフ包囲戦において、ソ連南西方面軍の大軍がキエフ周辺でドイツ軍に包囲・殲滅されており(627,000名の内585,598名が戦死・負傷・捕虜に)、モスクワ前面の防衛ラインが築かれていたヴャジマでも約60万の兵力が壊滅してしまい、モスクワは風前の灯のような状況だった。
この時、ZIS-30対戦車自走砲は9月末より小編制の独立対戦車砲中隊に配備されたり、モスクワ周辺にかき集められた編制定数の満たない(中には戦車数両しかない)戦車旅団(20個旅団)を増強するために数両ずつが配備された。
実戦におけるZIS-30対戦車自走砲の評価は、概して高かった。
本自走砲が搭載する高初速の57mm対戦車砲ZIS-2は、弾頭重量3.14kgのBR-271 APCBC(風帽付被帽徹甲弾)を使用した場合、射距離500mで100mm、1,000mで90mm、1,500mで75mm、2,000mで65mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能で、さらに弾頭重量1.79kgのBR-271P
APCR(硬芯徹甲弾)を使用すれば、射距離500mで145mm、1,000mで105mmのRHAを貫徹することが可能であった。
ドイツ軍機甲部隊の攻勢局面に対応して、伏撃配置で防御戦闘に投入されることの多かったZIS-30対戦車自走砲は、1,500m以上の射程でも最大装甲厚が50〜60mm程度のドイツ軍戦車(38(t)戦車やIII号、IV号戦車)を難なく撃破でき、ソ連軍将兵たちを喜ばせた。
しかし、小柄なT-20装甲牽引車をベースにしたことによる運用上の難点も、数多く指摘されるところとなった。
具体的には以下の点が問題とされ、報告された。
1.57mm対戦車砲ZIS-2の強い発射反動を制御するには車体が小さ過ぎる上、デザイン上もトップヘビーである
ため正確な連続射撃が困難である。
2.T-20装甲牽引車の車体に砲架に加えて弾薬その他を搭載した上、操砲要員が搭乗することは機動面で過負
荷になってしまい、当初目的とした迅速な陣地転換などに支障があり、自走砲としての特性を充分に発揮でき
ない。
3.上記に関連し、搭載できる弾薬数が限定的である(20発)。
4.操縦手、副操縦手(機関銃手)以外要員を防護できない。
5.無線送受信機が無いため、機動的な運用に限界がある。
臨時・即製的対戦車自走砲であったZIS-30には、このような限界があった。
しかしながら首都モスクワが最大の危機に瀕した時、わずか100両余りとはいえ強力な対戦車自走砲だったZIS-30は貴重な戦力であり、ソ連が史上最大の危機を乗り切る上で力となった知られざる兵器の1つであったといえよう。
モスクワ攻防戦を生き残ったZIS-30対戦車自走砲はその後、1942年夏までに戦闘による損傷あるいは車体寿命によって全て失われたと記録されている。
なお、ZIS-30対戦車自走砲の主砲を76.2mm対戦車砲ZIS-3Shに変更したタイプを1942年から生産することも計画されたが、車台となるT-20装甲牽引車の数量が揃わないために中止されている。
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