特二式内火艇 カミ
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+開発
水陸両用戦車の着想は戦車が登場した直後からあり、戦車発祥の地イギリス、そしてアメリカでは第1次世界大戦後すでに水陸両用戦車の開発を行っていた。
日本では1926年に、陸軍が水陸両用の小型装甲車を試作したのが最初であった。
これはタイヤと履帯を組み合わせた半装軌式の車両で、その後1933年には三菱重工業で「SR イ号車」、「SR ロ号車」と呼ばれる水陸両用戦車が作られた。
また石川島自動車では、より完成度の高い「SR-II」、「SR-III」といった水陸両用戦車が試作されている。
これらの車両は実用的なレベルであったが、陸軍は積極的に整備しようとはしなかった。
水陸両用戦車に強い関心を示したのは、海軍である。
太平洋戦争が始まる直前の1941年、水陸両用戦車の開発経験が豊富であった陸軍技術本部に海軍は水陸両用戦車の開発を依頼した。
南洋群島の航空基地化を目指していた海軍は、陸軍の手を煩わせずに潜水艦から自力航行で島嶼の守備隊へ届けることのできる有力な兵器として水陸両用戦車の開発、生産が急務と感じたためである。
陸軍技術本部第四研究所の先任者であった上西甚蔵技師はこの車両を、九五式軽戦車(ハ号車)とできるだけ共通のコンポーネントを使って短期間で開発することに努めた。
この車両には「カミ車」の秘匿呼称が付けられたが、これは開発に尽力した上西技師の名字に由来している。
カミ車の試作は三菱重工業で行われ、1941年10月下旬には浜名湖の北岸から南岸まで運行試験を成功裡に終えている。
試作車が最終的に完成したのは翌42年で武山での試験にも合格し、直ちに「特二式内火艇」として制式化された(翌43年ともいわれる)。
なお海軍ではこの種の戦車を「特型内火艇」と呼び、艦籍名簿にも登記した。
従って分類上は戦車ではなく、艦船の一種ということになる。
特二式内火艇の形状の特徴は車体が前部フロート部、戦車本体、後部フロート部の3つのブロックと、水上航行時に砲塔頂部に取り付ける砲塔展望塔から成っていたことである。
この形式は海上から南方の島に対する逆上陸を目的とした戦術構想を基本として考えられたものであり、海上を浮航するため陸上戦車に一時的に必要に応じてフロートを装着し、水上航行と自力上陸を可能とした戦車としてはある意味では必然ともいえる形態だったといえる。
元来戦車は装甲、武装を強化し、機動性を高めることが望ましい。
しかし、水上を浮航するためにはその重量はできるだけ軽いことが第一条件で、これは前の要求とは相反することになり、これらの条件を全て満たそうとすれば勢いこの中間的なものとなるか、または別に浮力を与える装置を取り付けることになる。
こうした考えの下、基本車体の前後に舟型のフロートを付けて水上航行に適した形状とし、上陸後は直ちにこのフロートを切り離すことによって、通常の軽戦車と全く変わらない機動力が発揮できるというものが考え出されることとなった。
従って、特二式内火艇の場合従来の水陸両用戦車とは少し違った意味合いを持ち、いつでも自由に水上航行、陸上走行が可能というわけにはいかない。
上陸後一度フロートを切り離してしまえば、海上に出るためのフロートの再装着は簡単にはできなかった。
しかし特二式内火艇の場合はあくまでも海上からの逆上陸作戦を行うもので、一度フロートを外せば通常の戦車として陸戦活動ができることを主眼としており、戦闘中のフロートの再装着はあまり考えられていなかったようである。
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+生産と部隊配備
特二式内火艇の生産は1942年に開始され、1945年まで続けられた。
総生産数は184両で、特型内火艇の中では最も多い。
完成した特二式内火艇は、海軍陸戦隊に装備された。
広島県呉市には、「Q基地」という本車専門の訓練場も設けられた。
特二式内火艇が最初に実戦に使われたのは、1944年6月のサイパン島であった。
ここには陸軍から戦車第九連隊の内の3個中隊が配備されていたが、海軍の第五根拠地隊にも約10両の特二式内火艇があった。
同島での戦車第九連隊の逆襲は有名だが、特二式内火艇がどのように活躍したかは不明である。
次いでフィリピンのルソン島でも戦闘を交えたが、ここでもその戦闘状況は分からない。
硫黄島でも使われたというが、詳細は不明である。
海軍根拠地だったパラオ島内には現在も、後部デッキに九六式二十五粍連装機銃を搭載した奇妙な特二式内火艇が1両朽ち果てている。
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+攻撃力
特二式内火艇は主砲として、二式軽戦車と同じく全周旋回式砲塔に一式三十七粍戦車砲を搭載していた。
そのため火力においては、九五式軽戦車や九八式軽戦車より強力であった。
だがアメリカ軍の調査報告書によれば、特二式内火艇には一式三十七粍戦車砲の他に九四式三十七粍戦車砲も使用されていたとする記述があり、開発された当初は砲身の短い九四式または九八式三十七粍戦車砲が搭載されていたのではないかと推測される。
ただこれらの火砲もあまり多くなく、一般的な装備としては一式三十七粍戦車砲であったと思われる。
砲の俯仰角は、−11.5〜+5.5度となっていた。
副武装としては九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を2挺搭載し、それぞれ戦闘室前面左側と主砲防盾同軸に装備された。
37mm砲弾の搭載数は132発、7.7mm機関銃弾の搭載数は3,500〜3,900発といわれる。
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+防御力と構造
特二式内火艇の砲塔は九五式軽戦車のものよりやや大きな直径1,350mmの円筒形で、頂部には車長用ハッチがありキューポラは無かった。
装甲厚は全周12mmで、砲塔上面と車長用ハッチは6mmであった。
防盾部は鋳鋼製だったが、他の全ての日本軍AFVも主砲と同軸機関銃のマウントには鋳鋼を使っていた。
砲塔装甲板は、ボルトまたはリベットで接合されていた。
主砲と同軸機関銃の左右には約10cmの円筒状前方視察口が1個ずつ設けられており、これには弾片防護用のキャップが付いていた。
砲塔には通信用のアンテナ・ポールと後部に機関銃架が装備されていたが、これは航空機などの攻撃に対し車載機関銃を取り付けて応戦するようになっていた。
また砲塔の右後方には、乗員用の手摺が設けられていた。
海上航行時にはこの砲塔上に砲塔展望塔(カニングタワー)を取り付けたが、これは上陸時の目標視察や敵の監視にも有効だった。
この砲塔展望塔には、中央に防弾ガラスを取り付けた視察窓が前方・左右に計6個装備された。
また砲塔展望塔は上陸時には取り外して放棄し、直ちに戦闘行動に移ることとされていた。
車体は防弾鋼板の溶接構造で、装甲厚は前面が12mm、側/後面が10mm、上/下面が6mmであった。
海軍が硬い鋼板を要求したので三菱重工業もそれに応じたが、結果的には割れ易いものとなった。
特二式内火艇の製作で最も留意されたのは装甲板の水密性で、これには非常に苦心したことが伝えられている。
また三菱には潜水艦に積載する必要もあって、車体の耐圧性も強く要求されていたという。
水上航行時の浮力を確保するために車幅を目一杯広げ側面を垂直面で囲んだので、内部は九五式軽戦車とは比べ物にならないほど余裕があった。
車内には隔壁は無く、機関室と戦闘室は分離されていなかった。
エンジンの周囲には、機関手が動けるだけのスペースが確保されていた。
砲塔リングの高さまでの全ての開口部は、ゴムシールを用いた水密構造とされていた。
特二式内火艇の乗員は6名となっていたが車長、砲手、操縦手、機関および弾薬手(通信手も兼ねていたと思われる)で、通常は4〜5名くらいではなかったかと考えられる。
車長を除いた乗員の乗降は砲塔の両脇の車体上面にある長方形のハッチより行ったが、このハッチは二重の開閉構造を持っており、乗員の乗降用と共にエンジンの冷却空気の取り入れ口としても用いられ、上のハッチを開くと隙間のあるグリルが現れ空気が取り入れられるようになっていた。
また空気取り入れ時には上のハッチはわずかしか開ける必要が無く、戦闘時や水上航行時はそのハッチを閉め内部から4個のロックピンで閉じていた。
車体前部には左右にディファレンシャルの点検口、中央にボルトで閉められた変速・操向機の交換口があり、その後方右側に操縦手、左側に前方銃手が位置した。
操縦手の前方視察ハッチには戦闘時用の視察スリットが横に切り込まれており、車体各部にも計5個の視察スリットがあったが、これは飛び込んでくる弾の破片の防御や水密のため裏側に防弾ガラスを取り付けていた。
「海軍伊東戦車隊の記録」によれば防弾ガラスを予備として相当数搭載していたことが記録されており、これは海上航行などに必要欠くべからざるものであったと推測される。
さらに車体左右両端の斜めに切られた部分の中央にもガンポートがあり、これにも弾片防護と防水のため内部に蓋が付いていた。
他に、上面左手入口付近に付いていたL字型のパイプは車内に流れ込んだ海水の排出ポンプの管と見られ、車体側面下に付いていた左右2個ずつの突起は潜水艦搭載時の係留具で、輸送船上にデリックで吊り上げる時にも使われた。
車体の前後に装着する浮航用のフロートは3mm厚の軟鋼板製で、内部は前部フロートが6区画、後部フロートが5区画に仕切られていて、万一の被弾の時にすぐに浮力を失わないようになっていた。
車体の前部と後部の形状はフロートの取り付け面と一致するようになっており、前上面に1個、下面に2個、後方に2個のカニ鋏のような留め具が付いていた(ただし後期型は前面2個のものに変更)。
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+機動力
特二式内火艇のエンジンは、九五式軽戦車と同じ三菱重工業製のA6120VDe 直列6気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力115hp)で、変速・操向機も九五式軽戦車と変わらないが、最大の特徴はパワートレインを車体前方の起動輪または、車体後面に設けられたスクリューに切り替える分配機を備えていた点である。
水上航行時には履帯への動力を絶ち、この分配機からエンジンの両側を通る2軸により2個のスクリューを回転させた。
また分配機は、車内への漏水を排出するビルジポンプの役割も果たした。
上陸後は、フロートと共にスクリューも切り離すようになっていた。
エンジンの吸排気は機関室上面から行うようになっており、水上航行時には換気筒を起てて吸気を確保するようになっていた。
水上での方向の変更は、車体後部に装着されたフロートに装備された2枚の舵をケーブルを用いて操作することで行った。
特二式内火艇は潜水艦による輸送を計画していたが、実際には潜水艦による輸送は止めて二等輸送艦(SB)に積んで南方の島に送られた。
しかし、当初の計画で開発が進められたため特二式内火艇の機関室と戦闘室の間には隔壁が無く、走行中乗員はエンジンの熱気を背に作業をしなければならなかった。
しかし一方では、エンジンの少しばかりの故障の修理や点検も車内からできるという利点もあった。
車体後面には機関室点検用のハッチが設けられていたが、当初の計画から前・後のハッチは手前に開き、中央のハッチが左側に開いて大きなスペースを作り、エンジンを楽に出し入れできるようになっていた。
またこの中央ハッチには、エンジン冷却用のグリルも設けられていた。
特二式内火艇のサスペンション方式は九五式軽戦車と同じシーソー式を用いていたが、水密性と防弾効果を考えて、水平コイル・スプリングとリンクアームから成るサスペンション機構は車体の内部に収容されていた。
なお九五式軽戦車に比べて重量が増加したのに対応して、誘導輪は九七式軽装甲車(テケ車)に準じた接地式のものを使用しており、接地圧の低減を図っていた。
片側2個の上部支持輪は九七式中戦車(チハ車)と同型式のもので、九五式軽戦車に比べるとかなり前方に取り付けてあった。
履帯は、九五式軽戦車のものを改良して装着していた。
これは、耐摩耗性に優れるマンガン鋼の精密鋳造の履帯であった。
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<特二式内火艇>
全長: 4.80m(フロート無し)、7.50m(フロート付き)
全幅: 2.80m
全高: 2.30m
全備重量: 9.15t(フロート無し)、12.5t(フロート付き)
乗員: 6名
エンジン: 三菱A6120VDe 4ストローク直列6気筒空冷ディーゼル
最大出力: 115hp/1,800rpm
最大速度: 37km/h(浮航 9.5km/h)
航続距離: 320km(浮航 140km)
武装: 一式46口径37mm戦車砲×1 (132発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (3,500〜3,900発)
装甲厚: 6〜12mm
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<参考文献>
・「パンツァー2013年9月号 プラモデル・ガイド 特二式内火艇(1) 実車の開発経緯と特徴」 久米幸雄 著 アル
ゴノート社
・「パンツァー2006年9月号 日本海軍の水陸両用戦車 特二式内火艇の全貌」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年10月号 特二式内火艇の戦いを辿る」 松井史衛 著 アルゴノート社
・「パンツァー2006年9月号 特二式内火艇のメカニズム」 三田悠児 著 アルゴノート社
・「パンツァー2005年12月号 日本海軍 特二式内火艇」 中川未央 著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「グランドパワー2011年10月号 日本海軍 特二式内火艇のディティールと構造」 岡田臣 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2017年9月号 日本軍 水陸両用戦車」 小高正稔/鮎川置太郎 共著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「日本陸軍兵器 将兵と行動をともにした陸戦火器のすべて」 新人物往来社
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
・「戦車名鑑
1939〜45」 コーエー
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