+概要
アメリカ陸軍は、西方電撃戦や北アフリカ戦の戦訓により砲兵の自走化の必要性を強く認識し、1941年後半から戦車の車体をベースとした各種自走砲の開発に着手したが、満足のゆく設計が完成するには少なくとも1年を要することから、1941年10月にM3ハーフトラックの車体をベースとし、75mmおよび105mm榴弾砲を搭載する間に合わせの自走砲の開発要求が出された。
75mm榴弾砲を搭載する自走砲には「T30」の試作呼称が与えられ、オハイオ州クリーヴランドのホワイト自動車が開発を担当した。
T30 75mm自走榴弾砲は、M3ハーフトラックの操縦室の背後にシャシーフレーム直結の砲架を設け、ここに牽引型の16口径75mm榴弾砲M1A1の揺架から上を搭載しており、同じくM3ハーフトラックをベースとするM3
75mm対戦車自走砲と良く似た設計であった。
M3対戦車自走砲と同様、操砲スペースを確保するために燃料タンクは車体後部両隅へと移されていた。
T30自走榴弾砲の主砲に採用された75mm榴弾砲M1A1は、アメリカ独自の設計になる軽量、小型の山砲で、発射速度が6発/分と非常に早かった。
砲口初速380m/秒、最大射程8,780mで、本車に搭載した場合旋回角は左右各22.5度ずつ、俯仰角は−9〜+49.5度となっていた。
T30自走榴弾砲は1942年1月には量産の認可が下り、1942年2月には生産型第1号車がアメリカ陸軍に引き渡された。
しかし、本車は最初から一時しのぎの兵器として開発されたために、制式化は行われなかった。
T30自走榴弾砲の初期の生産車は防盾を備えていなかったが、1942年初めにフィリピンで日本軍との戦闘に投入されたM3対戦車自走砲の戦訓により、操砲要員を防護するための大型の防盾が装備されるようになった。
なお防盾の大きさに関してはけっこうな議論があり、数種類の試作品が作られた。
だが結局、榴弾砲を間接照準射撃に使う場合、大仰角を取るために背の高い防盾が選ばれた。
T30自走榴弾砲の初陣は、1942年11月の北アフリカ戦線(チュニジア)であった。
アメリカ第1機甲師団の機甲連隊は各12両のT30自走榴弾砲を受領し、各戦車大隊の本部小隊あてに3両、各連隊偵察大隊に3両が配備された。
第6および第41機甲歩兵連隊はそれぞれ9両のT30自走榴弾砲を受領し、各大隊の本部小隊に3両ずつ配備した。
在北アフリカの歩兵師団はT30自走榴弾砲6両と、同じくM3ハーフトラックをベースとするT19 105mm自走榴弾砲2両を装備する加農砲中隊1個を保有していた。
1942年11月にはM5軽戦車の車体をベースとし、75mm榴弾砲M1A1を装備するM8 75mm自走榴弾砲の配備が始まったため、これに伴ってT30自走榴弾砲は装備から外されるようになり、さらに1943年3月の師団改編でT30自走榴弾砲は火力不足を理由に歩兵師団の編制から外され、105mm牽引榴弾砲によって装備変換されることになった。
T30自走榴弾砲は1942年中にホワイト自動車で合計500両が生産されたが、完成兵器として部隊配備されたT30自走榴弾砲はその内312両だけである。
最終生産ロットの188両はM8自走榴弾砲の登場によって不要となったため、支給以前の1942年11月にM3ハーフトラックに再改造されている。
しかし、T30自走榴弾砲は1943年7月のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)と、1944年のイタリア戦にも使用され続けた。
また、T30自走榴弾砲は自由フランス軍にも少数が供与されたが、これらは1945〜54年にかけてフランスとヴェトナムが戦った第1次インドシナ戦争にも投入されている。
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