+概要
1943年9月、アメリカ陸軍兵器局はこれまでの戦車をはるかに凌駕する重装甲、重武装の突撃戦車の開発を決定した。
このような戦車の開発が決定された背景には、当時計画が進められつつあった連合軍のヨーロッパ大陸への反攻作戦があった。
当時ドイツ軍は着々と大陸領土の要塞化を進めており、ヨーロッパ西部の海岸に構築された2,685kmに及ぶ広範囲な海岸防衛線「大西洋の壁」や、ドイツ-フランス国境地帯を中心に構築された全長630kmの要塞線「ジークフリート・ライン」は連合軍側には難攻不落と考えられていた(実際には大西洋の壁は見せ掛けだけの砂上の楼閣であり、ドイツ軍の巧みな宣伝に連合軍が騙されたわけであるが)。
これに対してアメリカ陸軍は、M4A3中戦車の装甲強化型であるM4A3E2ジャンボ突撃戦車を開発していた。
しかし、ドイツ軍の鉄筋コンクリート製の対戦車防壁や対戦車火力の集中に対しては、やはり能力的に不充分だと考えられていた。
このためM4A3E2突撃戦車より重装甲で、要塞線に配備されているドイツ軍の重戦車・駆逐戦車群を撃破できる火力を備えた新型重戦車が開発されることになったのである。
当初の計画ではこの新型重戦車は、主砲として新型の105mm砲を搭載し前面装甲厚は8インチ(203.2mm)、機関系には通常のエンジンと電気モーターを組み合わせたハイブリッド機関を用いることになっていた。
主砲に採用された105mm砲は、沿岸防空部隊用の60口径105mm高射砲M1を戦車砲に改造した高初速の65口径105mm戦車砲T5E1で、コンクリート要塞などを破壊するのに最適であり、対戦車火力としても充分な能力を持つものであった。
まず3両の試作車を製作することが決まったものの、当時アメリカ陸軍兵器局は25種にも及ぶ新型戦車の開発を並行して進めていたため、着手したばかりに過ぎないこの新型重戦車の開発は先送りとなってしまった。
そして、1943年春に先んじて完成していたT23中戦車に採用されたハイブリッド機関が、信頼性などに難があることが判明したため、この新型重戦車は機械式変速・操向機に変更することが通達された。
1944年3月にはこの新型重戦車に対して「T28」の試作呼称が与えられ、ワシントン州レントンのPCF社(Pacific Car and Foundry:太平洋自動車製造・鋳造所)に試作車5両の製作が発注された。
T28重戦車はそれまでの戦訓を背景に極力低姿勢にまとめることが要求されたため、旋回式砲塔ではなく車体上部に完全密閉式の固定戦闘室を設けて、105mm戦車砲T5E1を限定旋回式に搭載することになった。
また前面装甲厚を12インチ(304.8mm)に強化することが求められたため、本車の戦闘重量は95tになることが試算された。
T28重戦車は「重戦車」といいながらもその実態は、ドイツ陸軍の突撃砲や駆逐戦車の発想と何ら変わるものではなく、戦車というよりも自走砲に近かった。
このため、1945年2月7日付で兵器局本部長から出された通達勧告において、T28重戦車の呼称を「T95 105mm自走加農砲」(105mm Gun
Motor Carriage T95)に改めるよう要求が出され、1945年3月8日に呼称の変更が行われた。
しかし、戦時の量産体制が採られている中でこのような大型車両の製作は難しく、しかも1944年6月6日に連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した結果、大西洋の壁が予想したような強固な要塞線ではなかったことが判明し、突撃戦車の必要性自体が薄れたことで計画はさらに遅延することになった。
その結果、T95対戦車自走砲の設計案がまとまったのは1945年5月に入ってからで、鋳造製の車体前部が完成したのが7月20日、車台が完成したのが8月のことであった。
そして、1945年8月15日に太平洋戦争が終結したことにより試作車の発注数は5両から2両に減らされ、試作第1号車(車体製造番号40226809)が試験のためにメリーランド州のアバディーン車両試験場に送られてきたのは1945年12月21日になってからで、1946年1月10日には試作第2号車(車体製造番号40226810)がこれに続いた。
アバディーンにおける試験には試作第1号車が用いられ、第2号車はアバディーンからケンタッキー州のフォート・ノックスに送られて試験を受けた後、アリゾナ州のユマで浮橋通行の試験に供されている。
T95対戦車自走砲は、アメリカ陸軍で唯一の突撃砲タイプ(旋回式砲塔を廃止して直接車体に主砲を取り付けたタイプ)の戦闘車両であった。
車体は鋳造・圧延鋼板の溶接接合方式の巨大な箱型で、全長が24フィート7インチ(7.493m)、全幅が14フィート5インチ(4.394m)(外側走行装置取り外し時は10フィート4インチ(3.15m))という巨大なものであった。
装甲厚は戦闘室前面が12インチ(304.8mm)、車体前面が5.25インチ(133.35mm)、主砲防盾が11.5インチ(292.1mm)、戦闘室側面が2.5インチ(63.5mm)、車体側/後面が2インチ(50.8mm)、車体上面が1.5インチ(38.1mm)、下面が1インチ(25.4mm)という分厚いもので、走行装置を保護するために4インチ(101.6mm)厚のサイドスカートも取り付けられており、戦闘重量は190,000ポンド(86.184t)にも及んだ。
車内レイアウトは車体前部が操縦室/戦闘室、車体後部が機関室となっており、主砲の105mm戦車砲T5E1は戦闘室の前面にT40砲架を介して限定旋回式に装備されていた。
砲の旋回角は左右各10度ずつ、俯仰角は−5〜+19.5度となっていた。
乗員は車長、操縦手、砲手、装填手の4名で、主砲を挟む形で戦闘室の左前方に操縦手、右前方に砲手が配され、戦闘室の左後方に装填手、右後方に車長がそれぞれ位置した。
車長用キューポラには対空機関銃用のリングマウントが装着され、砲手席の直上にはM10E3照準ペリスコープが、主砲の右側にはT139直接照準機がそれぞれ装備されていた。
主砲の105mm戦車砲T5E1はT32徹甲弾を使用した場合、砲口初速3,000フィート(914m)/秒、射距離1,000ヤード(914m)で135mm、2,000ヤードで119mmの均質圧延装甲板(傾斜角30度)を貫徹することが可能であった。
主砲弾薬は分離薬莢式で、戦闘室内の主砲弾薬庫に合計62発が搭載された。
副武装としては、車長用キューポラ上のリングマウントに対空・対地兼用の12.7mm重機関銃M2が装備されており、12.7mm機関銃弾の搭載数は660発となっていた。
12.7mm重機関銃M2はユタ州オグデンのブラウニング火器製作所が1933年に開発したもので、現在に至るまでアメリカ陸軍の戦闘車両の副武装として広く採用されている。
T95対戦車自走砲の最大の特徴といえるのがそのユニークな走行装置で、サスペンション自体はM4中戦車シリーズの後期型に採用されたHVSS(Horizontal
Volute Spring Suspension:水平渦巻スプリング・サスペンション)であったが、90t近い戦闘重量を支えるために接地圧の低減を図って、走行装置と履帯が内側と外側の複列式になっていた。
このうち外側の走行装置はサイドスカートごと着脱が可能で、鉄道輸送時および充分な強度のある道路上の場合は外側走行装置を取り外して走行するようになっていた。
左右の内側走行装置の前部フェンダーと機関室上面の左右には、外側走行装置の取り外しに用いる着脱式クレーンを取り付けられるようになっており、通常T95対戦車自走砲には2基のクレーンが搭載され、取り外す側の前後に取り付けて使用するようになっていた。
取り外した左右の外側走行装置は、サイドスカートが内側に来るように組み合わせることで「ダム」(Dumb:おし)と呼ばれる1つのユニットとなり、車体後方に牽引するようになっていた。
ドイツ陸軍の重戦車では鉄道輸送時には最外部の転輪と側面フェンダーを取り外して、通常の履帯の代わりに幅の狭い鉄道輸送用履帯を装着するようになっていたが、それに比べるとT95対戦車自走砲の方式はむしろ合理的ともいえた。
外側走行装置の着脱機構についてアバディーンで実験したところ、4名の乗員が野戦の条件下で最初の取り外し作業で要した時間は4時間であったが、3回目の試験では慣れてコツが掴めたらしく2時間半に短縮することができたという。
再取り付け作業についても、ほぼ同じ時間でできた。
T95対戦車自走砲のエンジンは、M26パーシング重戦車と同じミシガン州ディアボーンのフォード自動車製のGAF V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力500hp)が搭載されたが、90t近い戦闘重量に対してあまりにもアンダーパワーであったため機動性は格段に悪かった。
要求された路上最大速度は8マイル(12.87km)/hであったが、試験では7マイル(11.27km)/hが限度であった。
当時イギリス陸軍も、T95対戦車自走砲と似たようなA39トータス重突撃戦車を開発していたが、こちらの方は一回り小柄で複列式走行装置等は採用していなかった。
エンジンも出力600hpのミーティア V型12気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載していたので、路上最大速度は12マイル(19.31km)/hと機動性ではまだ上であった。
しかし当時のアメリカには使用可能な大出力エンジンが他に無かったため、問題を承知で搭載するしか途は無かった。
変速・操向機もM26重戦車と同じ、インディアナ州インディアナポリスのアリソン社製の900F2トルクマティック式変速・操向機(前進3段/後進1段)が用いられたが、大重量に対応するためにギア比が変更されていた。
なお本車は1946年6月に、T95 105mm自走加農砲からT28重戦車に再び呼称が戻されたが、これは本車が従来の自走砲とは火力と装甲が比べ物にならないほど強力で、旋回式砲塔こそ備えないものの内容的には戦車と同等という判断から下されたものであった。
T28重戦車のアバディーンでの試験は1947年末まで続けられ、走行距離は整地で128マイル(206km)、不整地で413マイル(665km)を記録した。
しかし本車は機動性が劣悪な上、主砲が限定旋回式であることや大きく重い車体のために運用上の制約が大きく、1947年末に計画は放棄された。
T28重戦車の2両の試作車の内1両はスクラップとなったが、残る1両はフォート・ノックスのパットン戦車博物館の展示車両として余生を送っている。
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