+概要
T19 105mm自走榴弾砲は、T30 75mm自走榴弾砲と同じくアメリカ陸軍機甲本部が1941年10月に、戦車の車体をベースとする自走砲が実用化されるまでの繋ぎとして、M3ハーフトラックの車体をベースとする暫定的な自走砲の開発要求を出したことにより誕生したものである。
本車は22.5口径105mm牽引榴弾砲M2A1を、M3ハーフトラックの車体に搭載する自走砲として計画され、「T19」の試作呼称が与えられて、イリノイ州シカゴのダイアモンドT自動車で開発が進められた。
105mm榴弾砲M2A1は、限定生産とされた105mm榴弾砲M2の砲身を新型に変更したのに加え、脚を改良型に換えるなどの改良を施して1940年3月に制式化されたもので、アメリカ陸軍の標準中口径野砲として多用された。
第2次世界大戦終了までに8,536門が生産され、大戦終了後も長らく生産が続き、1953年までにさらに10,202門が完成して西側各国にも供与されている。
牽引砲の俯仰角は−5〜+66度で最大射程は12,200m、毎時間100発のペースで撃ち続けることが可能であった。
T19自走榴弾砲への搭載にあたっては、操縦室の背後にシャシーフレーム直結の砲架を設け、ここに105mm榴弾砲M2A1の揺架から上を搭載した。
T19自走榴弾砲に搭載した場合、砲の旋回角は左右各20度ずつ、俯仰角は−5〜+35度となっていた。
しかし、105mm榴弾砲M2A1は行軍重量が2,258kgもあったため、M3ハーフトラックの車体に搭載するのは負担が重過ぎるのではないかと懸念する声もあった。
このためT19自走榴弾砲が失敗した場合の保険として、車載用に軽量化を図った105mm榴弾砲T7をM3ハーフトラックの車体に搭載するT38自走榴弾砲も試作されることになった。
だが、105mm榴弾砲M2A1を搭載したT19自走榴弾砲の試験結果は良好であり、1942年3月25日には装備化の認可が下りた。
それでもM3中戦車の車体をベースとし、同じく105mm榴弾砲M2A1を搭載するM7 105mm自走榴弾砲の量産が開始されたことで、T19自走榴弾砲の生産は1942年4月までのわずか324両に留まり、この内の90両はM3A1ハーフトラックに再改造されている。
T19自走榴弾砲は、主にアメリカ陸軍の歩兵師団の加農砲中隊と、機甲師団の砲兵大隊で使用された。
本車はT30自走榴弾砲と共に1942〜43年の北アフリカ戦に投入されたが、1943年7月のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)時には、すでに多くの機甲部隊ではM7自走榴弾砲による装備変換が進んでいた。
T19自走榴弾砲は、敵のトーチカや市街区の防御拠点を直接照準射撃で破壊することを目的として開発された兵器であったが、加農砲中隊ではその機動力を買われて戦車と同様に部隊の先陣を切って突進し、戦線に突破口を開くより攻撃的な任務も担うようになった。
第16歩兵連隊の加農砲中隊を巡るブライス・デンノ大佐による、1942年11月のオラン近郊でのヴィシー・フランス軍との交戦に関する回想は、その猛烈ぶりを如実に物語っている。
「第2大隊の突撃小銃中隊群の攻撃が開始されると同時に、我が加農砲中隊の自走砲はその前方へと戦車のように展開し、敵の防御拠点に猛射を浴びせかけた。敵陣地へと自走砲で躍り込みながら砲兵たちはカービン銃やトミーガン、機関銃を撃ちまくり手榴弾を投げ付けた。大混乱の接近戦の最中に砲班長と砲兵の1人が撃たれ、車両は炎上した。それでも残った砲班員は砲側に留まり、消火作業を続けながら敵と撃ち合ったのだ。」
アメリカ第1歩兵師団の第16および第18歩兵連隊から派出された2個加農砲中隊は、エル・ゲタール近くでドイツ第10機甲師団の猛攻を、第601戦車駆逐大隊のM3
75mm対戦車自走砲と共に防ぎこれを撃退した。
さらに1943年7月に、シチリア島のゲラで機甲師団ヘルマン・ゲーリングの突進を阻止した功績を讃えて、第16歩兵連隊の加農砲中隊にはフランクリン・ルーズベルト大統領より部隊感状が授与された。
中隊は6両のドイツ軍戦車を破壊し、攻勢を頓挫させたのである。
本車は対戦車戦闘を意図して開発された訳では無かったが、少なくとも1両のT19自走榴弾砲がゲラ近くでドイツ軍のティーガーI重戦車と正面から撃ち合って撃破されている。
1944年を通じて、少数のT19自走榴弾砲がイタリア戦線で戦い続けた。
なおT19自走榴弾砲はアメリカ軍のみで使用され、レンドリース供与は行われなかった模様である。
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