+概要
T-80軽戦車は、N.A.アストロフ主任技師が率いる第37(自動車)工場設計局チームが、T-70軽戦車シリーズの後継としてT-70M軽戦車をベースに開発したもので、第2次世界大戦におけるソ連軍最後の制式軽戦車でもある。
独ソ戦最大の機甲戦となったクールスク大会戦が勃発した1943年の中期には、ソ連の戦車工業は独ソ戦初期の痛手と疎開による生産力の停滞を乗り越え、その生産能力はむしろ戦前期の水準をも超えるほど大きく伸長していた。
主力戦車であるT-34中戦車の生産も軌道に乗り、むしろ1942年後半より姿を見せ始め、戦場で遭遇することが多くなりつつあったドイツ軍の新型重戦車ティーガーIに対抗するため、より強力な火力を持つ中戦車・重戦車の開発が焦眉の課題となりつつあった。
東部戦線の機甲戦闘は独ソ双方とも火力、装甲の強力な戦車を投入した熾烈なぶつかり合いの様相を呈しており、主戦闘における軽戦車の活躍の舞台はますます狭まりつつあった。
しかし1943年秋になっても第37工場設計局のアストロフ技師らは、軽戦車の戦闘性能の向上を目指して新型軽戦車の開発を続け、T-70M軽戦車をベースに改良を加えたT-80軽戦車を生み出すに至った。
T-80軽戦車は、車体はT-70M軽戦車のものをほぼそのまま引き継いでおり全体形状も似通っていたが、最大の特徴はT-70M軽戦車の1名用砲塔に代えて、主砲の最大仰角が+60度まで取れる新型の2名用砲塔を搭載したことである。
大仰角が取れるようにしたのは主砲による対空射撃や、市街戦における建物の高所に対する射撃を可能にすることを狙ったもので、T-70M軽戦車と同じく砲塔防盾に46口径45mm戦車砲20Km、7.62mm空冷機関銃DT、TMF直接照準機が同軸に装備された他、砲塔上面に新たに可動式潜望鏡型照準機が取り付けられた。
また従来の軽戦車では1名のみだった砲塔要員を2名に増やし、火器の装填・照準/発射から乗車指揮までの作業を分担するようにしたことで、戦闘動作の効率が確実に向上した。
一方T-80軽戦車の開発と並行して、68.6口径という長砲身の45mm対戦車砲M1942をベースとした新型の45mm戦車砲BT-42/43を、T-80軽戦車およびT-70軽戦車シリーズに搭載する計画も進められ、試作も行われた。
この45mm戦車砲BT-42/43は、弾頭重量1.425kgの被帽徹甲弾を使用した場合砲口初速950m/秒、射距離500mで59mm、1,000mで54mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた。
しかしこうした開発陣の努力にも関わらず、ソ連軍機甲総局(GBTU)および軍指導部はこの時機に、新たな軽戦車を大量生産に移す意義は失われたものと判断しつつあった。
それは威力偵察その他に限ったとしても、同質の任務を果たし得る英米からの供与戦車(ヴァレンタインMk.III歩兵戦車、M3A1軽戦車)が大量に調達できる状況にあり、戦線でも将兵から高い信頼性で好評を博していた。
また併せて新たに軽戦車を生産するよりも、これまでに開発した軽戦車のシャシーを流用した自走砲(SU-76対戦車自走砲等)を生産する方が、戦線の必要を満たす上でより有用であるとの判断が勝ちを占めつつあったのである。
結局こうした事情を背景として、T-80軽戦車は1943年秋にわずか120両が生産されただけで終わった。
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