T-60軽戦車
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+概要
N.A.アストロフ主任技師が率いるモスクワの第37(自動車)工場設計局チームによって開発され、1940年にソ連軍に制式採用されたT-40水陸両用軽戦車は、当時としては優秀な偵察用軽戦車であったが、火力と装甲が貧弱で戦闘能力が限られていることが当初から運用者側に不評であった。
このためアストロフ技師のチームは、T-40水陸両用軽戦車の浮航性能を廃止して火力と装甲の強化を図ったT-30軽戦車を開発すると共に、T-40水陸両用軽戦車よりも構造が簡易で有効な防御力を備える、初めから浮航性能を切り捨てた軽戦車の開発に取り組んだ。
この軽戦車は、T-40水陸両用軽戦車のシャシーをベースに車内容積を絞ってコンパクトなデザインにまとめ、圧延鋼板による溶接・リベット止め併用組み立て方式を採用していた。
車内容積を絞ったおかげで、装甲厚を車体前面で20mmまで強化したにも関わらず、戦闘重量は5.8tとT-40水陸両用軽戦車並みの水準に抑えることができた。
エンジンは、T-40水陸両用軽戦車に搭載されたGAZ-11 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力85hp)よりも出力の小さい、GAZ-202
直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力70hp)が搭載されたが、路上最大速度45km/h、路上航続距離450kmと機動性能は良好であった。
基本的な車内レイアウトはT-40水陸両用軽戦車と同様なもので、車体右側の前部から中央部までに変速・操向機とエンジンを収め、車体左側に操縦手席および戦闘室(砲塔)、車体後部が燃料積載スペースに充てられた。
武装システムはT-30軽戦車のものをそのまま流用しており、8角形の1名用砲塔に20mm機関砲TNShと7.62mm機関銃DTを同軸装備していた。
本車は、1941年10月1日に「T-60軽戦車」(Legkiy Tank T-60)としてソ連軍に制式採用された。
時まさに、ドイツ軍がソ連の首都モスクワを占領すべくタイフーン作戦を発動したばかりの時期で、モスクワで生産活動を展開していた第37工場も東方への疎開が本格的に準備され始めていた。
しかし首都モスクワを巡る攻防戦は、熾烈なドイツ軍の攻勢を前に少しでも多くの兵力・兵器を必要としており、主生産工場の疎開を理由に前線で待たれていた戦車の供給を遅らせるわけにはいかなかった。
そこで、第37工場は疎開期日のギリギリまで生産開始のための準備を進めつつ、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)のゴーリキー自動車工場(GAZ)や第38工場、第264工場もT-60軽戦車の生産に参加することとなった。
日産70両を日標に量産が急がれたT-60軽戦車の最初の生産車がロールアウトしたのは1941年12月15日で、ちょうどモスクワ攻防戦の峠が過ぎてソ連側が反攻に転じた直後であった。
そして早くも翌42年1月には、ドイツ軍の報告書にT-60軽戦車の出現が記載されている。
ドイツ軍の評価ではT-60軽戦車は火力・装甲共に貧弱で、すでに旧式化していた3.7cm対戦車砲でも充分効果的に対処することができ、鹵獲しても戦力的価値はほとんど無くごく限定された運用しかできないとしており、仮にT-60軽戦車が大量に出現したとしても、ドイツ軍にとっては全く深刻な脅威とはならなかった。
T-60軽戦車の主武装である82.4口径20mm機関砲TNShの装甲貫徹力は、重量96gの20mm徹甲弾を用いて射距離100mで18mm、同50mで25mm(いずれも傾斜角30度)に過ぎず、ドイツ軍の主力戦車であるIII号戦車やIV号戦車には全く歯が立たず、II号戦車の前面装甲(厚さ30mm)を撃ち抜くことすら難しかった。
逆にII号戦車の主武装である55口径2cm機関砲KwK30は、射距離500mでT-60軽戦車の前面装甲を貫徹することができた。
またT-60軽戦車の唯一の取り柄である機動性能についても、平坦な地表や固く凍結した路面などでは、その機構的信頼性を含めて申し分ないものだったが、設計上の間題点(不足がちのグラウンド・クリアランス、幅の狭い履帯)のために、ロシア戦線でありがちだった深い積雪地や泥濘がちの戦場では全く発揮することができなかったのである。
しかし一方で、T-60軽戦車はパワープラントに既存のトラック用コンポーネントを多用しているために生産が容易で、生産コストも安く抑えることができるという大きな長所を持っていた。
このためT-60軽戦車は1942年秋までに6,045両もの大量生産が行われ、まだまだソ連軍にとって苦しい時期であった1942年の戦車兵力の大きな部分を支える主柱となったのである。
当時、多くの主要な戦車生産プラントは疎開の途上か疎開先のウラル地方で再建中で、ほとんど戦車生産を行っておらず、ソ連軍の期待の星だったT-34中戦車は、辛うじてスターリングラード・トラクター工場(STZ)のみで量産が継続されている状況であった。
ちなみに、T-60軽戦車の量産に携わった各工場別の生産数は次の通りである。
T-60軽戦車の生産数 |
工場名 |
生産数 |
第37工場 |
1,239 |
第38工場 |
537 |
第264工場 |
1,186 |
GAZ |
3,083 |
合 計 |
6,045 |
T-60軽戦車は1942年よりドイツ軍と対峙していた戦線の各所に姿を現し、その貧弱な性能に見合った損失を出しながらも敢闘を続けた。
1942年秋に生産が終了した後もスターリングラード攻防戦の瓦礫の中の市街戦で活躍し、1944年に至るまで主要な戦場に姿が見られた。
少なくとも疎開先でT-34中戦車などの主力戦車量産拠点が再建されるまでは、他に代わるものが無かったのである。
なお、T-60軽戦車は生産中に順次改良が加えられていった。
初期の生産車ではスポーク式の転輪を装着していたが、中期以降はディスク式の転輪に変更され、さらに後期にはゴムを節約するためにゴム内蔵式の鋼製転輪が用いられた。
砲塔防盾基部は初期の生産車では上部が傾斜面でリファインされていたが、中期以降の生産車ではT-40水陸両用軽戦車と同様の形状に変更されている。
また後期の生産車では、砲塔や車体に10〜15mm厚の増加装甲を追加して防御力の強化が図られた。
これによって戦闘重量は従来の5.8tから6.4tに増加したが、機動性能にはそれほど影響が無かった。
これで装甲厚は車体前面で35mmとなったが、ドイツ軍の対戦車火器や戦車砲に有効な防御力を発揮することはできなかった。
また後期の生産車では、断熱材を巻いた排気管を車体上面から後部まで伸ばしてマフラーが設置されたが、これは車体上面に跨乗する歩兵が火傷をしたり、排気ガスで苦しめられないようにするための措置だと思われる。
これらの改修は、修理などで工場に戻った既存のT-60軽戦車に対しても行われた。
T-60軽戦車の派生型としては砲塔を撤去し、代わりに旋回式マウントに36連装の82mmロケット弾発射機を搭載したBM-8-36自走多連装ロケット・システム、砲塔を改造して12.7mm重機関銃DShKを連装で装備した試作対空自走砲、T-60軽戦車のシャシーをベースとし、オープントップ式の戦闘室を設けて前部に39.3口径76.2mm対戦車砲ZIS-3Shを搭載したOSU-76対戦車自走砲、同様のコンセプトで68.6口径45mm対戦車砲M1942を搭載した試作対戦車自走砲などが開発されている。
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<T-60軽戦車 初期型>
全長: 4.10m
全幅: 2.392m
全高: 1.75m
全備重量: 5.8t
乗員: 2名
エンジン: GAZ-202 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 70hp/2,800rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 450km
武装: 82.4口径20mm機関砲TNSh×1 (780発)
7.62mm機関銃DT×1 (945発)
装甲厚: 10〜20mm
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<T-60軽戦車 後期型>
全長: 4.10m
全幅: 2.392m
全高: 1.75m
全備重量: 6.4t
乗員: 2名
エンジン: GAZ-202 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 70hp/2,800rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 450km
武装: 82.4口径20mm機関砲TNSh×1 (780発)
7.62mm機関銃DT×1 (945発)
装甲厚: 10〜35mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「グランドパワー2020年2月号 赤の広場のソ連戦闘車輌写真集(2)」 山本敬一 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2007年10月号 ソ連軍自走砲 SU-76」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2021年7月号 ソ連軍軽自走砲(2)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2001年9月号 ソ連軍軽戦車(1)」 古是三春 著 デルタ出版
・「パンツァー2005年10月号 第二次大戦のソ連軍偵察戦車」 柘植優介 著 アルゴノート社
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「図解・ソ連戦車軍団」 齋木伸生 著 並木書房
・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著 学研
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