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T-54中戦車





●T-54中戦車の開発

ソ連軍は第2次世界大戦末期に、当時のMBT(主力戦車)であったT-34中戦車シリーズの後継となる新型中戦車T-44を実用化した。
T-44中戦車はT-34中戦車に比べて基本設計がシンプルで車体がコンパクトであったが、それでいて装甲防御力や機動力でT-34中戦車を上回る優れた戦車であった。

しかし、主砲に関してはT-34-85中戦車と同じ54.6口径85mm戦車砲ZIS-S-53を装備しており、すでに数万両が生産されているT-34-85中戦車に代えて実戦配備するほどの価値をソ連軍首脳部は感じなかった。
そこで、T-44中戦車により強力な100mm戦車砲を装備して火力の強化を図ることが計画され、この火力強化型には「T-44-100」の名称が与えられた。

T-44-100中戦車の開発は、T-44中戦車の開発を手掛けたニジニ・タギル所在の第183ウラル戦車工場の第520設計局(主任技師A.A.モロゾフ)が担当することになった。
T-44-100中戦車の開発はまず、砲塔設計の見直しから始められた。
第520設計局はT-44中戦車の主砲マウント部の拡張を図り、前部に向けて砲塔を大きくオーバーハングさせ、主砲防盾も幅を広げた。

併せて大戦末期の戦訓を採り入れて、対空・対地用として装填手用ハッチに12.7mm重機関銃DShKのマウントを設けると共に、対成形炸薬弾用に厚さ6mmの装甲スカートを履帯部外側にすっぽり側面部を覆う形で取り付けた。
重量の増大もほとんど無く(34t)、機動性能は良好だった。

一方、新しい主砲についてはすでにT-34中戦車をベースにしたSU-100駆逐戦車に搭載されて実績のある「D-10」と、第92砲兵工場付属の中央砲兵設計局が開発した「LB-1」という2種類の100mm戦車砲が候補に上がった。
前者は第9砲兵工場特別設計局で開発されたものだが、この2種は両方とも海軍艦艇用の56口径100mm加農砲B-34の砲身および閉鎖機構をベースに戦車砲に改造したもので、弾道性能に全く変わりが無いものだった。

T-44-100中戦車はLB-1搭載型とD-10T搭載型の2種の試作車が製作されたが、設計陣としては制式採用に自信があったようである。
しかし設計陣の自信にも関わらず、T-44-100中戦車は運用試験の中で操砲上、砲塔容積が狭過ぎることが指摘され、第520設計局は車体幅を超えるリング径を持つ新砲塔を開発することとした。

この新砲塔を搭載したタイプは当初「T-44V」と呼称されたが、すぐに「T-54」(開発番号:オブイェークト137)と呼称されるようになった。
1945年5月20日には基本設計が完了し、秋頃に試作車が完成したT-54中戦車は、リング径が1,825mmに拡張された鋳造新砲塔を持ち、機械的トラブルが克服しきれなかったT-34中戦車以来の変速・操向システムに代えて、遊星歯車式変速・操向システムを採用した。

しかし主砲については、この段階でD-10TにするかLB-1にするかの決着が付いておらず、それぞれを搭載する砲塔が試作された。
この両者の識別点は、D-10T搭載型が主砲防盾の中央部から砲塔上面にかけて盛り上がっていたのに対して、LB-1搭載型は平坦であった点である。

また武装面では、左右フェンダーの車体前部脇にそれぞれ7.62mm機関銃SGMTを固定装備した装甲ボックスを配置した。
こうした固定機関銃を装備するようになったのは、アメリカからレンドリース供与されたM3軽戦車やM3中戦車の影響もあったろうが、全体のコンパクト化のために前方機関銃手を廃止してなお、対歩兵用の制圧火力を確保するための代替措置としての意味合いがあったと思われる。

同様の装備はIS重戦車シリーズにも見られるし、戦後開発されたBMD空挺戦闘車シリーズにも採用されている。
また足周りについても、T-34中戦車以来のセンターガイドを通じて駆動を伝達させる履帯を止め、幅500mmのシングルドライピン式履帯と外側のガイドに噛み合わせる歯車式起動輪を採用した。
これでT-34中戦車系列の足周りからは大分イメージが変わったが、固定しないで車体側から差し込まれた履帯連結ピンが抜け落ちないように車体後部の誘導ガイドで打ち込むシステムは、引き続き採用している。

T-54中戦車は、モスクワ郊外にあるソ連軍装甲戦車科学技術研究所(NIIBT)で運用試験に供された。
1945年いっぱいまでかけて行われた、NIIBTでの試験結果は上々であった。
その結果、T-54中戦車はソ連軍に暫定採用されることとなり、1946年に量産発令、1947〜49年の間に限定的に生産されてベラルーシ軍管区の戦車師団に試験的に配備されることとなった(制式採用は1950年)。

ちなみにT-54中戦車の主砲には第9砲兵工場のD-10Tの方が採用され、第92砲兵工場のLB-1はお蔵入りとなった。
この原因は明らかにされていないが、「LB-1」の名称の元となった内務人民委員部長官ラブレンチー・ベリヤの政治的求心力の低下が背景にあったようである。

以上の経過は、ソ連軍当局が100mm戦車砲を搭載するMBTの戦力化を急いだことを如実に窺わせる。
戦後、ソ連が新たに対峙することとなった西側諸国の主柱であるイギリス、アメリカがそれぞれ大戦末期に登場させた強力な新型戦車(センチュリオンやM26/M46)の配備数を懸命に増やして、量的に優越しているソ連軍機甲部隊に対抗してきたことが要因である。

この後、1951年頃までかけてT-54中戦車は形態的に完成されていくことになるが、早くも1948年に「強力な中戦車の開発に成功した功績」で第520設計局の主任技師A.A.モロゾフと技師A.コレスニコフ、V.マチューヒン、P.ヴァシリェフ、N.クチェレンコがスターリン国家賞を受賞した。
T-54中戦車は、改良型のT-55中戦車と共に戦後最も世界中に普及したMBTである。

その生産数はT-54中戦車シリーズ(およびライセンス生産型)がソ連で35,000両、チェコスロヴァキアで2,500両、ポーランドで3,000両、中国で16,000両(59式戦車および改良型の69式戦車の1985年までの生産数)の計56,500両、T-55中戦車シリーズがソ連で27,500両、チェコスロヴァキアとポーランドで10,000両の計37,500両で、T-54/T-55中戦車シリーズ全体では94,000両にも上る。
この数字は、世界で戦後普及した戦車総数の約7割を占める。


●T-54-1中戦車の車体の構造

T-54中戦車は1951年までに2回のモデルチェンジがされ、その後に最初を含めそれぞれ「T-54-1」、「T-54-2」、「T-54-3」と便宜的に命名された。
また別に開発された年度に対応して「1946年型」、「1949年型」、「1951年型」とも呼称されるようになった。
開発番号については、一貫して「オブイェークト137」のままであった。

T-54-1中戦車の車体は圧延防弾鋼板を単純な船形の箱型に溶接組み立てしており、従来のT-34中戦車シリーズよりもはるかに大量生産に適していた。
これは、戦時中に開発された戦車工場の自動溶接システムによる組み立て工程に適合し易い、最も合理的なデザインといえた。

車体前面上部の装甲板は60度の傾斜が付けられており厚さは120mm、車体側面と後面は車内容積を無駄にしないため直立させたデザインだが、それぞれ80mm、45mmの厚さの圧延防弾鋼板が用いられていた。
車体前面下部の装甲厚は100mm、車体上面と下面は20mm、操縦手用ハッチは30mmの厚さが確保されていた。
この装甲厚は当時の重戦車にも劣らないものであるが、小型化を徹底したために全体重量を36tに抑えることができた。

しかし小型化のツケで、内部は隙間がほとんど無いくらい操縦装置、燃料タンク、弾薬、パワープラントが詰め込まれていた。
車体前部左側は操縦手席で、前部右側は主燃料タンクと20発入りの主砲弾薬ラックが配置されていた。
車体中央部は砲塔を搭載した戦闘室で、左右の側壁には主砲即用弾12発がラックで固定されていた。

全高が抑えられたことと、床面にサスペンションのトーションバー(捩り鋼棒)が配されるため、T-34中戦車のように戦闘室床下に弾薬箱を配置するようなことは行われなかった。
戦闘室の後部には、防火隔壁を隔てて機関室が配置されていた。
機関室内には燃料タンクを配置する余裕が無かったため、前述のように車体前部の主砲弾薬ラックの近くに主燃料タンクを同居させるという苦肉の策が採られていた。

このため後に航続力延伸が要求されるようになると、車外に予備燃料タンクを多数配置して配管を機関室に引き込むという、他国に無い異例の方式(すでにソ連ではIS-3重戦車の前例があった)を採用するに至った。
車体の左右には薄鋼板製のフェンダーが設けられ、前部左右に操縦手席から遠隔操作される7.62mm機関銃SGMTを各1挺固定装備した装甲ボックスが配置されていた。

歩兵用重機関銃の転用であるSGMT機関銃は、それまで標準的な戦車用機関銃だったDTおよびDTM機関銃のような弾倉式ではなくベルト給弾式なので、必要に応じて長くベルトを連結できるため(大体、最長で250発程度)、こうした遠隔操作式に用いるのに便利であった。
なお、左右フェンダーの後端にはそれぞれ煙幕展開システムMDShを取り付けられるようになっていた。

MDShは、大戦末期に実用化された小型燃料ドラム缶を用いる電気発火式白煙発生装置で、T-34-85中戦車から装備されるようになったものである。
西側の古い資料ではこのMDShを、小型の予備燃料タンクとする間違った解説をされることが多かった。
T-54中戦車は後にエンジン排気マフラー内に燃料を噴射するBDSh煙幕展開システムが実用化されるまで、このMDShを標準装備としていた。

なお理由は不明であるが、BDSh導入後も一部のT-54中戦車は1960年代いっぱいまでMDShを装備していた。
左右フェンダー上の固定機関銃ボックスの後ろには、主砲クリーニングキット等の工具箱や予備履帯、さらにその後ろには右側に円筒形の予備燃料タンク、左側には排気管マフラーと予備オイルタンクが配置されていた。
こうしたフェンダー上の各種装備の配置は、1960年代のオーバーホール時に後述する標準的なT-54/T-55中戦車仕様に完全に変更されている。

T-54中戦車の転輪はT-34中戦車シリーズやT-44中戦車と同様のゴムタイア付き大直径転輪で、完成当初から1950年代半ばまでは鋼製鋳造の補強リブ付きで、肉抜き穴がリブ間に大小12個ずつ開けられたタイプが用いられていた。
この転輪も1960年代のオーバーホール時に、後述する「スターフィッシュ」(ヒトデ)型と西側で称されるものに交換されていった。

最前部と最後部の転輪アームには油気圧式ダンパーが接続されて、悪路面からの過度のショックを緩衝するようになっていた。
転輪の上下可動範囲は、135〜149mmであった。
T-54中戦車の履帯は高マンガン鋼の精密鋳造によるシングルドライピン式のもので幅は500mmであったが、これは後に幅580mmの新型履帯に換えられた。

履板の構成数は片側90枚、履帯の運用寿命は概ね走行3,000kmであった。
接地圧は、0.93kg/cm2とやや高めであった。
車体後部の機関室内には前方よりV-54ディーゼル・エンジン、変速・操向機、排気装置およびオイルタンクの順に配置されていた。

エンジンはT-44中戦車と同様に横置きで、左側壁面に沿って駆動伝達装置関係、気化機、始動モーターが詰め込まれており、パワープラントの大規模整備の際には機関室天板全体を外すことで作業が容易に行えるようになっていた。
前述したようにT-54中戦車は車内容積が狭いため、主燃料タンクを車体前面装甲板の後ろに主砲弾薬ラックと併設していたが、その結果、戦闘室内から機関室にかけて長い燃料配管を行わなければならなかった。

これは、ガソリン機関を採用していた大戦中のドイツ軍戦車ほどの危険性は無かったが、被弾時に各所から燃料漏れと発火を起こす原因となった。
戦後も長らくガソリン機関を採用し続けたアメリカ軍やイギリス軍戦車の場合、配管継ぎ手等からのわずかな燃料漏れが気化して発火し、致命的な結果を招いた。

T-54中戦車の心臓というべきエンジンは、1930年代にソ連軍がフランスのイスパノ・スイザ社製の航空機用ガソリン・エンジンをベースに開発したアルミ合金製のV-2ディーゼル・エンジンの流れを受け継ぐ、V-54 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力520hp)を搭載していた。

V-2系列の液冷ディーゼル・エンジンはBT-7M快速戦車からT-34中戦車シリーズ、T-44中戦車と引き継がれてきたもので、KVやIS等の一連の重戦車シリーズにも用いられた他、T-62中戦車、T-72戦車まで発展型が使われてきたソヴィエト・ロシアを代表する戦車用エンジンである。
T-54中戦車の変速・操向システムは従来と同じ機械式であったが、T-34中戦車やT-44中戦車のものを発展させ信頼性の向上を図ったものであった。

しかし、同時代のアメリカ軍が重量のある車両の変速・操向システムに流体トルク変換機を軸にした自動変速機構を実用化したのに比べると(大戦時のM24軽戦車、そしてT-54中戦車のライバルたるM26/M46中戦車以降のMBTに採用)、技術的に一歩遅れていたのは否定できない。

基本的に旧ソ連軍の装軌式車両の変速・操向システムは今日までほぼ同様で、アメリカ軍に例えるなら大戦時のM4中戦車レベルのものから進歩が止まっているといってよく、1950年代以降の西側MBTに比べれば操縦手の疲労度が高い。
とはいえ、T-54中戦車は基本的な機動性能はT-34中戦車シリーズ以来の高レベルを保っており、通常路面で最大速度48km/hを発揮した。


●T-54-1中戦車の砲塔の構造

T-54-1中戦車の砲塔はソ連が大戦中に標準化させた製造方式である鋳造製で、上部および砲塔基部に分割されて鋳造されていた。
砲塔前面にはT-44中戦車のものを発展させた幅の広い主砲防盾を持ち、砲塔前面部と主砲防盾の装甲最厚部は200mmに達した。

砲塔前部と主砲防盾の中央前部は、搭載する100mm戦車砲D-10Tの2本の駐退復座機を収めるために上部に向けて膨れ上がった形状をしていた(試作車でこの部分が平らなものは、100mm戦車砲LB-1を搭載したもの)。
砲塔部には主砲の56口径100mm戦車砲D-10T、対空・対地用の12.7mm重機関銃DShK、主砲同軸の7.62mm機関銃SGMTが装備された。

D-10T戦車砲の砲身長は5.61mで重量は1,948kg、俯仰角は−5〜+18度で、全高を抑えたために西側のMBTよりも俯仰角が小さかった。
主砲防盾左側には直接照準機TSh-20が装備されていたが、T-54-1中戦車には他に砲手用照準システムは備えられていなかった。

これら砲架システムにより100mm戦車砲D-10Tは徹甲弾で概ね1,000m、高性能榴弾で1,100mの有効射程を発揮したとされている(高さ2mの標的に対する確実命中域)。
高性能榴弾の最大射程は、14,600mであった。
T-54-1中戦車の戦闘室内および砲塔内側壁のラックには100mm砲弾14発を搭載でき、操縦手席右側の主砲弾薬ラックと合計すれば36発の100mm砲弾を搭載していたことになる。

装填手用ハッチ部にはIS-3重戦車のものと同じ可動リンク式マウントに12.7mm重機関銃DShKを装備でき、砲塔内および戦闘室後部には50発ずつベルトリンクに繋がれた12.7mm機関銃弾入り弾薬箱を4個搭載した。
DShK機関銃は対空・対地掃射両用で、俯仰角は−4.5〜+82度となっていた。
主砲同軸の7.62mm機関銃SGMT用の弾薬は、車内に4,000発(フェンダー上の固定機関銃用と合計すれば4,500発)を搭載できた。

T-54-1中戦車の車外視察装置としては、装填手と砲手にそれぞれ旋回・上下可動するMk.4ペリスコープが各1基ずつ砲塔上面に装備されていた他、車長用キューポラにはハッチ部と前部に計5基のプリズム式視察ブロック、前面中央部に測距目盛りの入ったTPK-1測遠機が装備されていた。
T-54-1中戦車の車長用キューポラは、大戦中にレンドリース供与を受けたアメリカ製のM4A2中戦車後期型のものを参考にデザインされたもので、全周旋回が可能であった。

無線機は大戦中に使用していた戦車用通信機の改良型である10-RT-26を車長席脇に備え、車内通話装置としてTPU-47を装備していた。
T-54-1中戦車は後の型に比べて砲塔内部が狭かったので、長大で薬莢を含めた重量が30kgもある100mm砲弾を装填する作業も楽でなく(実質的な発射速度は4〜5発/分)、居住性はT-34-85中戦車に比べて大変に悪いものだった。


●T-54-2中戦車

1947年から生産されたT-54-1中戦車の試験運用で、やはり砲塔内部の狭さやその他の改善要望点が指摘されたため、第520設計局は1948年より砲塔形状の変更その他の設計改良措置を実施した。
この改良型は「T-54-2」(1949年型)と呼称され、1949〜51年にかけて量産された。

T-54-2中戦車は事実上T-54中戦車シリーズ最初の量産型といえ、ニジニ・タギルの第183ウラル貨車工場(UVZ、1945年にハリコフ機関車工場と分離)の他、1945年にハリコフで再建された第75ハリコフ・ディーゼル工場(KhDZ、元ハリコフ機関車工場)、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)のウラル重機械工場(UZTM)でも生産が行われた。
しかしながらまだ制式採用ではなく、実験的な型という位置付けは変わりがなかった。

T-54-2中戦車で一番目立つ改善点は、砲塔デザインの根本的変更である。
前面にショットトラップを形成していた幅広の主砲防盾を持つデザインを廃止し、非常に小型の「豚の鼻」型(この呼び方は西側で使われてきたもの)の主砲防盾を採用した。
砲塔前半部は後のT-54/T-55中戦車シリーズの標準的な型式と同様の形状になったが、砲塔後部には切れ込みが残されていた。

その他に小型ドラム缶式予備燃料タンクに代えて、直接機関室内に送油可能な角型車外燃料タンク2個を右側フェンダーに配置し、機関室後部には200リットル容量の燃料ドラム缶2個を装着できるラックが設けられた。
フェンダー前部左右にあった固定機関銃ボックスは廃止され、代わりに前面装甲板に開けられた孔から発射する7.62mm機関銃SGMTが操縦手席右横に固定配置された。
この機関銃も、従来と同様に操縦手の遠隔操作により発射された。

機関銃ボックスの無くなったフェンダー上には、角型の工具・雑具ボックスが配置された。
これらの措置で3挺だった7.62mm機関銃が2挺に減ったのに伴い、7.62mm機関銃弾の搭載数も3,500発に減らされた。
また路外機動性能の向上を目指して接地圧を低減させるため、履帯幅を80mm増した580mm幅の高マンガン鋳造履帯が採用された。

これで接地圧はT-54-1中戦車の0.93kg/cm2に対して、0.81kg/cm2に下がった。
この新型履帯は、T-72戦車と共用のウェットピン式RMSh履帯が登場した1960年代後半以降も今日まで長く使用されている。
T-54-1中戦車とT-54-2中戦車を合計すると、約3,500両が作られたという。


●T-54-3中戦車

1951年になると、さらに砲塔デザインを洗練して砲塔後部の切れ込みも無くしたT-54-3中戦車が登場した。
この段階で、T-54中戦車はソ連閣僚会議決定によりソ連軍への制式採用がなされた。
T-54-3中戦車は、砲塔形状が卵を半分に切ったようなその後のT-54/T-55中戦車シリーズの標準的なスタイルのものになり、ここに至ってT-54中戦車の最終的な形状が完成したものといえる。

その他の変更点は主砲の直接照準機を倍率ズーム(3.5〜7倍)が可能なTSh-2-20に換えたこと、左右フェンダーの後端にT-34-85中戦車にも採用されていた小ドラムタンク式の煙幕発生装置BDSh-5を標準装備したこと等である。
T-54-3中戦車の量産は1952〜54年にかけて行われたが、その後のモデルチェンジは全てこの型をベースにして行われていった。

また、1956年にハンガリーで起きた反社会主義蜂起「ハンガリー動乱」(ハンガリーでは「1956年革命」と呼ばれる)で初めて実戦投入され、西側の軍事関係者はT-54中戦車の斬新なスタイルと強力な武装を目の当たりにして大いにショックを受けることになった。


●T-54M中戦車

1948年、イギリス軍が強力な66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲を備えたセンチュリオンMk.3中戦車を登場させ、1950年から始まった朝鮮戦争に投入した。
ソ連軍当局は、20ポンド戦車砲が装甲貫徹力の面でT-54中戦車シリーズの主砲である100mm戦車砲D-10Tよりも強力であることを把握し、T-54中戦車シリーズの火力強化を図ることを決定した。

ちなみにD-10Tと20ポンド戦車砲の対装甲威力を比較すると、前者が砲口初速887m/秒のBR-412D APCBC(風帽付被帽徹甲弾)を用いた場合、射距離2,000mにおいて155mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹可能なのに対して、後者は砲口初速1,020m/秒のAPDS(装弾筒付徹甲弾)を用いて、同条件で250mm厚のRHAを貫徹可能であった(どちらも弾着角90度)。

T-54中戦車の火力強化については、UVZで本車の量産体制を統括していたL.N.カルツェフ技師がプラン策定とその実施の責任者に任命された。
作業は主砲を自動的に目標に指向させる安定化装置の導入と、より強力な新型戦車砲の開発・搭載の2つの方向が探求された。

主砲安定化装置については、1951年に第173技術研究所が開発着手した100mm戦車砲D-10T用の垂直方向制御型安定化装置STP-1「ゴリゾーント」(Gorizont:水平線)が、後述するT-54A中戦車から導入されることになった。
新型戦車砲については、1952年9月12日付のソ連閣僚会議決定第4169-1631号で開発が発令された高初速100mm戦車砲D-54Tが1954年に完成し、同年中にT-54中戦車に搭載された。

このD-54Tを搭載した試作中戦車は、「T-54M」(オブイェークト139)と呼称された。
D-54Tは全長110cmの一体型弾薬(薬莢と弾頭が結合されている)を用い、重量16.1kgのAPDSを砲口初速1,015m/秒で発射した。
また、第173技術研究所が開発した本砲用の垂直方向制御型安定化装置「ラドガ」(Ladoga:ロシア北西端にあるヨーロッパ最大の湖)も付属装置として用いられた。

主砲弾薬の搭載数も増加させられ、T-54中戦車シリーズの34発に対して50発となった。
また本車には、後述するT-54B中戦車以降のシリーズで標準装備されるようになった暗視照準機TPN-1も装備されていた。
T-54M中戦車ではエンジン出力の強化も図られ、580hpにパワーアップしたV-54-6 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンが搭載された。

また対空機関銃については従来の12.7mm重機関銃DShKに代えて、T-10重戦車シリーズと同様に14.5mm重機関銃KPVTを装備した。
T-54M中戦車の運用試験は1954年12月より1955年いっぱいまで継続されたが、主砲安定化装置の不調等を理由にして制式採用には繋がらなかった。

100mm戦車砲D-54Tについては、この後も1960年代初期にかけて開発された試作中戦車(オブイェークト140やT-64戦車の試作型等)に搭載されたが、結局制式採用された戦車には搭載されずに終わった。
これは恐らく、D-54Tのようなライフル砲よりも滑腔砲の方が高威力を発揮できる見通しが出てきたためと思われる。

実際、D-54TはT-62中戦車に搭載された115mm滑腔砲U-5TSの開発ベースとされた。
結局のところ量産化されなかったとはいうものの、T-54M中戦車はT-55中戦車やT-62中戦車を開発する上での技術的基礎を築いた点で意義があったといえよう。

なお、1977年から一部のT-54B中戦車にレーザー測遠・照準機KTD-1を装着した改修型にも「T-54M」(オブイェークト137M)の呼称が与えられているので、混同しないように注意が必要である。
こちらはごく少数の改修に留まった上、1994年にはロシア軍の装備から外されてしまったのでほとんど知られないまま終わっている。


●T-54A中戦車

T-54M中戦車が不採用に終わる一方で、垂直方向制御型安定化装置STP-1「ゴリゾーント」を主砲に付属させたT-54A中戦車(オブイェークト137G)が1955年にソ連軍に制式採用された。
本車はT-54-3中戦車とほとんど外見上の差異は無かったが、STP-1「ゴリゾーント」の導入に伴って、砲身先端部にカウンター・ウェイトを兼ねた排煙機を取り付けた100mm戦車砲D-10TGを搭載していたことが最大の特徴である。

なお、T-54-2中戦車やT-54-3中戦車も1960年代以降のオーバーホール時にSTP-1を導入するに伴い、100mm戦車砲の先端部にカウンター・ウェイトを後から取り付けるようになった。
これは、排煙機よりは小ぶりですぐに見分けが付く(基本的にこの改修を受ける際は、後述するT-54B中戦車の仕様に準じた改修が全体に渡って施された)。
垂直方向制御型安定化装置STP-1の役割は、ごく限定されたものであった。

砲弾を装填後に目標にロックすると、機動中もその射角を基本的に維持するように砲身を揺動させるようになっていたが、左右方向については調整されないこと、基本的に停止して射撃するようになっていたことから、射撃のための停止時に発砲までのタイムラグを少しでも減らすくらいの意義しかない。
むしろ、巨大な100mm戦車砲の砲尾部が走行中に揺動することは、その後方に位置する装填手はもちろんのこと、場合によっては車長をも危険に晒すことになった。

実際にSTP-1の導入以後、死傷事故が多発していたようである。
その他に、T-54A中戦車では操縦手用の暗視システムTVN-1が標準装備された。
TVN-1は1951年より採用されたもので、操縦手用ハッチの前に位置する2基のペリスコープのうち左側のものと交換して取り付けられた。

夜間は赤外線照射用フィルターをヘッドライトに取り付け、これで概ね60m前方までの夜間視界を得ることが可能になった。
これは順次T-54-3中戦車等にも導入されていったので、1960年代以降は全ての型にほぼ完全に装備化されていた。

一方車体面では、機関室後部に200リットル容量の燃料用ドラム缶2個を搭載できるラックが本型より標準的に装着されるようになった。
このラックの下部には泥濘地脱出用の丸太や、後の改修時に追加された潜水渡渉装置OPVTの砲塔装着スノーケル等も装着されるようになる。

また無線送受信機が新型のR-113に変更された他、車内通話装置もR-120になった。
T-54A中戦車は1955〜57年にかけて量産され、中国、ポーランド、チェコスロヴァキア等に輸出され、後にこれらの諸国でライセンス生産されるに至った。
中国では「59式担克」(59式戦車)の名称で、改良型を含め1980年代まで生産が継続されたのである。


●T-54B中戦車

T-54A中戦車に続き、より本格的な能力向上型であるT-54B中戦車(オブイェークト137G2)が1956年に開発され、同年9月11日付のソ連国防省命令によってソ連軍への制式採用が決定された。
T-54B中戦車の基本的な特徴は、垂直方向に加えて左右方向にも主砲を自動的に目標指向させる安定化装置STP-2「ツィクローン」(Tsiklon:暴風雨)の装備、夜間戦闘用のアクティブ暗視・照準装置の導入、潜水渡渉装置OPVTの標準装備化等である。

STP-2「ツィクローン」は、STP-1「ゴリゾーント」と同様に第173技術研究所が開発したもので、その作動速度は垂直方向で0.07〜15度/秒、水平方向で0.07〜4.5度/秒であった。
水平方向の安定化によって砲尾部の水平揺動が行われれば当然、装填手の安全が脅かされかねない。
そこで本型から戦闘室底部に砲塔旋回に追随するターンテーブルが設けられたが、この機構は、大戦中にイギリスから試験用に提供されたクロムウェル巡航戦車のものをコピーしたものである。

STP-2が付属した新しい100mm戦車砲は、「D-10T2S」と称された。
T-54B中戦車は主砲の垂直・水平の2軸が安定化されたことで、いかにも走行間射撃も可能になったかのような印象を受けるかも知れないが、実際の射撃は停止して行わないと命中精度が著しく低下した。
併せて、その狭い砲塔・戦闘室内では長大かつ重量のある100mm砲弾の再装填に際しては、主砲に仰角をかけて砲尾部を斜めに落とすことが必要であった。

結局STP-2にしても機動中に装填済みの100mm戦車砲を目標方向に向け、停止後の照準修正量を最小限に留める程度の意味しかないものといえる。
T-54B中戦車から導入された夜間戦闘用の暗視システムは、T-62中戦車に至るまで用いられたソ連軍戦車の標準装備になった、TPN-1(あるいはTPN-1-22-11)赤外線暗視・照準装置と赤外線照射ライト「ルナー(Luna:月)2」を組み合わせたものである。

本システムの戦闘暗視距離は雨や霧、砂嵐等の無い通常の天候時の夜間で800mであった。
併せて車長用の暗視システムとして、TKN-1赤外線暗視(昼夜兼用)・測遠機と小型の赤外線照射ライトOU-3がキューポラに装備された。
こちらの暗視距離は、250〜300mであった。
操縦手用の暗視システムも、改良されたTVN-2が導入されていた。

これらの装備も以後、T-55中戦車やT-62中戦車に用いられていった。
またT-54B中戦車より、ソ連軍戦車で後まで広く用いられるようになる潜水渡渉装置OPVTが標準装備されるようになった。
これは、装填手側の砲塔上面にあるMk.4ペリスコープ基部に伸縮式のスノーケルを取り付け、水深5mまでの河川を潜水して渡河することを可能にするシステムである。

機関室上面は水密シールを施したハッチで開口部を塞ぎ、エンジン等に必要な吸気はスノーケルから戦闘室隔壁を経て供給された。
機関室左後部のフェンダー部に配置されたエンジン排気口には、水が逆流するのを防止する自動開閉弁付きのカバーを装着した。

開発時の1953年にドニェプル川で実施された試験では、700mの距離を潜水渡渉できたという。
1955年に制式採用が決まったOPVTはT-54A中戦車以前の型にも追加装備された他、ポーランドでライセンス生産されたT-34-85中戦車にも導入された。
ちなみに、OPVTを装着しない場合のT-54/T-55中戦車シリーズの渡渉水深は1.4mである。

その他にT-54B中戦車以後に標準化されたものとして、左右フェンダー上に取り付けられる装備の種類と配置がある。
特に右フェンダー上前部は、従来の工具箱に代えてプレス成形の95リットル入り車外燃料タンクが追加され、搭載燃料の増量が図られた。

この改修は、T-54A中戦車の後期生産型から実施されていった(T-54-2〜T-54Aの生産当初のオリジナル仕様では、車外燃料タンクは右フェンダー上に2個のみであった)。
以上のように、T-54B中戦車は一応シリーズの完成型といってよい仕様が盛り込まれていた。
以後、本型で導入されたSTP-2主砲安定化装置を除き、これ以前に生産されたT-54-2やT-54-3、それにT-54A等もオーバーホール時にT-54Bで導入された各種装置を追加していった。

T-54中戦車シリーズのオーバーホールは、各地に設けられた再整備工場で走行距離7,000kmまたはエンジン稼働500時間、あるいは10年おきに行われることになっていたため、およそ1960年代いっぱい掛かって廃車処分されたり戦車学校に配置されたものを除き、ほぼ全てのT-54中戦車シリーズがT-54B中戦車に準ずる仕様に改修されたことになる。

また1970年代後期にごく一部のT-54B中戦車にレーザー測遠機が追加され、「T-54M」(オブイェークト137M)と称されたことは前述したが、同仕様の改修は主にT-55中戦車シリーズに対して実施されたので目立った存在とはならなかった。
T-54中戦車シリーズは初期生産型が1970年代まで、それ以外のタイプは近代化改修を繰り返しながら1994年頃までロシア軍で運用された。


<T-54-1中戦車>

全長:    9.00m
車体長:   6.27m
全幅:    3.27m
全高:    2.40m
全備重量: 36.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-54 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 520hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 330km
武装:    56口径100mmライフル砲D-10T×1 (34発)
        12.7mm重機関銃DShK×1 (200発)
        7.62mm機関銃SGMT×3 (4,500発)
装甲厚:   20〜200mm


<T-54-3中戦車>

全長:    9.00m
車体長:   6.04m
全幅:    3.27m
全高:    2.40m
全備重量: 35.5〜36.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-54 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 520hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 360〜400km
武装:    56口径100mmライフル砲D-10T×1 (34発)
        12.7mm重機関銃DShK×1 (200発)
        7.62mm機関銃SGMT×2 (3,500発)
装甲厚:   20〜200mm


<T-54A中戦車>

全長:    9.00m
車体長:   6.04m
全幅:    3.27m
全高:    2.40m
全備重量: 36.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-54 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 520hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 440km
武装:    56口径100mmライフル砲D-10TG×1 (34発)
        12.7mm重機関銃DShKM×1 (200発)
        7.62mm機関銃SGMT×2 (3,500発)
装甲厚:   20〜200mm


<T-54B中戦車>

全長:    9.00m
車体長:   6.04m
全幅:    3.27m
全高:    2.40m
全備重量: 36.5t
乗員:    4名
エンジン:  V-54B 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 520hp/2,000rpm
最大速度: 48〜50km/h
航続距離: 360〜400km
武装:    56口径100mmライフル砲D-10T2S×1 (34発)
        12.7mm重機関銃DShKM×1 (200発)
        7.62mm機関銃SGMT×2 (3,500発)
装甲厚:   20〜200mm


<参考文献>

・「パンツァー2013年1月号 20世紀のベストセラー戦車 T-54/55」 平田辰 著  アルゴノート社
・「ロシア軍車輌写真集」 古是三春/真出好一 共著  アルゴノート社
・「世界のAFV 2018〜2019」  アルゴノート社
・「グランドパワー2003年3月号 ソ連戦車 T-54/55 (1)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年4月号 ソ連戦車 T-54/55 (2)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2022年6月号 ソ連軍 T-55中戦車」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2019年4月号 ソ連軍主力戦車(1)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「世界の戦闘車輌 2006〜2007」  ガリレオ出版
・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」  デルタ出版
・「ソビエト・ロシア 戦車王国の系譜」 古是三春 著  酣燈社
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著  グランプリ出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」  洋泉社
・「戦車名鑑 1946〜2002 現用編」  コーエー
・「世界の戦車 完全網羅カタログ」  宝島社
・「新・世界の主力戦車カタログ」  三修社

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