T-34中戦車
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+T-34中戦車の開発
1936年7月に勃発したスペイン内戦は、左派の人民戦線政府を支援するため義勇部隊を派遣したソ連に初めて本格的な戦車の実戦使用の機会を与えた。
そこで明らかになったのは充分な装甲防御力を持ち、堅陣を粉砕し得る搭載火砲の必要性であった。
ソ連戦車を含む当時の戦車はまだ本格的な対戦車戦闘を経験していなかったため、その装甲防御力は小口径弾の直撃や榴弾の破片程度に耐えることを考慮しており、通常の装甲厚は13〜15mm程度だった。
そのため、ナチス・ドイツが支援した右派の反乱軍が装備していたドイツ製の45口径3.7cm対戦車砲PaK36により、ソ連義勇部隊の装甲の薄いT-26軽戦車やBT-5快速戦車は容易に撃破されてしまった。
この経験は直ちにソ連軍装甲車両局(ABTU)に報告され、量産・配備中の戦車の装甲と火力を強化する策が採られた。
当時、A.O.フィルソフ主任技師の統括下でBT快速戦車シリーズの生産と改良に従事していたウクライナの第183ハリコフ機関車工場(KhPZ)では、BT-7快速戦車をベースに装甲防御力を強化したBT-SV-2快速戦車の開発に着手した。
BT-SV-2快速戦車は、重量の増加によって機動力を犠牲にすることを避けるために、車体と砲塔のデザインに徹底して避弾経始を導入することで、装甲厚を増やさずに装甲防御力を強化することを開発コンセプトにしていた。
BT-SV-2快速戦車の試作車は、車体と砲塔の全周囲に渡り装甲が鋭い角度で傾斜するように設計されており、装甲厚の増加を最小限にして装甲防御力を大幅に向上させることに成功していた。
このBT-SV-2快速戦車の開発成果を踏まえ、ABTUは1937年8月15日付でKhPZに対して新型快速戦車の要求仕様を提示し、1939年までに試作車を完成させることを要求した。
この際に提示された要求仕様は、以下のようなものであった。
・戦闘重量13〜14t
・第75ハリコフ・ディーゼル工場(KhDZ)で開発中の400hp以上の出力を持つディーゼル・エンジンを搭載
・全体を傾斜装甲とし車体装甲厚25mm、砲塔装甲厚20mm
・主砲は45mm戦車砲または76.2mm戦車砲
・副武装は7.62mm空冷機関銃DTを2挺
・乗員3名
・装軌状態での航続距離300km
この要求仕様に基づいてKhPZの第190設計局は「A-20」の開発番号で、45mm戦車砲を装備する新型快速戦車の開発プランを企画した。
しかし当時、ソ連国内では独裁者I.V.スターリン首相による粛清の嵐が吹き荒れており、A-20中戦車の開発に着手しようとしていたKhPZのフィルソフ主任技師も逮捕、処刑される事態となってしまった。
ちょうどこの時、KhPZからレニングラード(現サンクトペテルブルク)に出向してT-29中戦車の開発などに携わっていたM.I.コーシュキン技師が、T-29中戦車の開発中止のあおりでKhPZに戻ってくることになったため、彼がフィルソフの後を継いで第190設計局の主任技師に就任することになった。
コーシュキンはスペイン内戦の戦訓からA-20中戦車は能力的に不充分と判断し、76.2mm戦車砲を装備し車体装甲厚を30mmに強化したA-30中戦車を開発することを企画した。
また当時ソ連軍が装備していたBT快速戦車シリーズは、原型となったアメリカ製のクリスティー戦車と同じく、通常の装軌走行モードの他に履帯を外して装輪状態で路上を高速走行できることが特徴だったが、コーシュキンはT-29中戦車の開発経験から、重量の大きい車両では装輪走行モードはあまり効果が無いことを認識していた。
このため彼はA-30中戦車から装輪走行モードを廃止して、製造コストの低減を図ったA-32中戦車の開発も起案した。
コーシュキンがABTUに提案したA-20、A-30、A-32の3つの新型戦車プランはスターリン首相、K.E.ヴォロシーロフ元帥ら主要な閣僚が集まった1938年5月8日の国防閣僚会議で検討され、その結果KhPZでA-20、A-32の2つの新型戦車を並行して開発することが決定され、性能比較試験を行って優れている方をソ連軍の装備として制式採用することになった。
両者の設計作業は1938年暮れにようやく完了し、1939年1月には実物大モックアップと縮小模型が完成した。
これらの審査の結果同年2月27日付で試作車の製造が許可され、日本軍との間にハルハ川戦役(ノモンハン事件)が勃発した時期と重なる1939年5月末頃に、ようやくA-20中戦車とA-32中戦車の試作車が完成した。
A-20中戦車は全長5.76m、全幅2.65m、戦闘重量18tで、主砲にはBT-7快速戦車と同じ46口径45mm戦車砲20Kを装備していた。
BT快速戦車シリーズと同様に装輪/装軌の2つの走行モードを備えており、転輪数も同様に片側4個となっていた。
エンジンは、KhDZがフランスのイスパノ・スイザ社製の航空機用ガソリン・エンジンを基に開発したV-2 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力500hp)を搭載しており、装軌状態で路上最大速度74.7km/hの機動性能を発揮できた。
一方A-32中戦車は全長5.76m、全幅2.73m、戦闘重量19tで、主砲にはT-28中戦車の後期型にも装備された23.7口径76.2mm戦車砲L-10を採用していた。
装輪走行モードは廃止されており、不整地での履帯の路面追随性を良くするためにA-20中戦車より転輪の間隔を詰めて、転輪数を片側5個に増やしていた。
エンジンは、やはりV-2ディーゼル・エンジンを搭載していた。
なお、当初の計画ではA-32中戦車の最大装甲厚は30mmにする予定であったが、製作上の都合で試作車の最大装甲厚はA-20中戦車と同等の25mmに抑えられていた。
A-20中戦車の工場試験は1939年5月26日から、A-32中戦車の工場試験は6月中旬から開始され、7月中旬からはクビンカの装甲車・戦車科学技術研究所(NIIBT)に場所を移して運用試験が開始された。
この試験においてコーシュキンの予想通り、A-20中戦車の装輪モードでの走行性能がBT快速戦車シリーズに劣っていることが明らかになった。
一方、装輪モードを廃止したA-32中戦車は転輪の間隔を詰めて転輪数を増やしたことが功を奏し、不整地ではA-20中戦車を上回る機動性能を発揮した。
また主砲の威力においてもA-32中戦車はA-20中戦車を上回っており、A-32中戦車の採用が濃厚になった。
ABTU局長D.G.パブロフ、ヴォロシーロフ元帥らが列席して1939年9月23日に実施された公開比較試験の結果、参加したほぼ全員がA-32中戦車の優位性を認め、報告を受けたスターリンは直ちにA-32中戦車の採用を決定している。
ただし、ハルハ川戦役やソ連軍の東部ポーランド侵攻における経験を踏まえ、A-32中戦車の装甲防御力を強化するよう要求が出された。
この要求の結果、KhPZではA-32中戦車の主要部装甲厚を45mmに強化したA-34中戦車を改めて製作した。
A-34中戦車は1940年2月までに2両が試作され、試験に供された。
装甲厚を強化したことでA-34中戦車の戦闘重量はA-32中戦車に比べて6.83t増加したが、機動性能は中戦車として充分に満足できる水準を維持できた。
また主砲も、A-32中戦車に装備された23.7口径76.2mm戦車砲L-10に代えて、より強力な30.5口径76.2mm戦車砲L-11が装備された。
折しも1939年11月30日にソ連がフィンランドとの開戦に踏み切ったため、新型戦車の早急な実戦化が求められ、A-34中戦車の試作車が完成する前の1939年12月19日付で、A-34中戦車を「T-34中戦車」(Sredniy
Tank T-34)の制式呼称でソ連軍に採用することが早くも決定した。
また同じ日に、KV重戦車とT-40水陸両用軽戦車のソ連軍への採用も決定されている。
T-34中戦車の2両の試作車は、1940年3月18日にモスクワのクレムリン宮殿でスターリンに供覧された後、第1号車はNIIBTで耐弾試験やドイツ軍のIII号戦車との比較試験に供され、第2号車は対フィンランド戦の前線に送られて対陣地射撃試験が行われた。
III号戦車との比較試験においてT-34中戦車は火力、防御力、機動力の全ての面でIII号戦車を凌駕する性能を示し、耐弾試験でもドイツ軍の3.7cm対戦車砲PaK36の近距離からの射撃にビクともしなかった。
この結果を受けて1940年3月31日にT-34中戦車をKhPZで急ぎ量産開始すると共に、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)のスターリングラード・トラクター工場(STZ)でも量産準備に入ることが決定された。
T-34中戦車の生産数は1940年こそ117両に留まったものの、1941年に3,014両、1942年に12,527両と次第に拡大していき、1943年には最大の15,833両が生産されている。
1944年には主砲を85mm戦車砲に換装した改良型のT-34-85中戦車に生産が切り替えられたため、76.2mm戦車砲装備のT-34中戦車の生産は3,976両で終了している。
T-34中戦車(76.2mm戦車砲搭載型)の生産数 |
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1940年 |
1941年 |
1942年 |
1943年 |
1944年 |
合 計 |
第183工場※ |
117 |
1,585 |
5,684 |
7,466 |
1,838 |
16,690 |
スターリングラード・トラクター工場 |
ブランク |
1,256 |
2,684 |
ブランク |
ブランク |
3,776 |
第112クラースノエ・ソルモヴォ工場 |
ブランク |
173 |
2,584 |
2,962 |
557 |
6,276 |
チェリャビンスク・キーロフ工場 |
ブランク |
ブランク |
1,055 |
3,594 |
445 |
5,094 |
ウラル重機械工場 |
ブランク |
ブランク |
267 |
464 |
ブランク |
731 |
第174オムスク・レーニン工場 |
ブランク |
ブランク |
417 |
1,347 |
1,136 |
2,900 |
合 計 |
117 |
3,014 |
12,527 |
15,833 |
3,976 |
35,467 |
※ハリコフ機関車工場(KhPZ)、ニジニ・タギル移転後はウラル戦車工場(UTZ)
T-34中戦車は1941年6月22日の独ソ戦開始時までに1,225両が完成しており、その内967両がソ連軍に引き渡されていたが、緒戦では戦車兵の練度不足や稚拙な戦車運用によって大半が各個に撃破されてしまった。
しかしその後集中運用が確立され戦車兵の練度が向上すると、敗色濃厚だった1941年秋のモスクワ攻防戦の戦局を挽回し、1945年のベルリン攻防戦に至るまでソ連軍の主力戦車として活躍した。
その活躍ぶりから兵士たちには絶大な信頼を寄せられ、「ロジーナ」(祖国)のニックネームを与えられている。
T-34中戦車は車体と砲塔のデザインに避弾経始を徹底して採り入れ、機動力を犠牲にせずに高い装甲防御力を実現している点、他国に先駆けて高性能ディーゼル・エンジンを搭載し優れた速度性能、航続力を実現している点など当時としては非常に先進的な設計の戦車であり、ドイツ軍のパンター戦車と並んで第2次世界大戦における最優秀中戦車の評価を受けている。
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+T-34中戦車 1940年型
76.2mm戦車砲搭載型のT-34中戦車は一般的に1940年型、1941年型、1942年型、1943年型の4種類に型式分類されることが多いが、これらの分類は戦後に軍事研究者やミリタリーモデラーが個人の主観で便宜的に行ったものであり、当のソ連軍ではT-34中戦車の型式分類を一切行っていないので、公式な分類と勘違いしないように注意が必要である。
T-34中戦車の最初の生産型で一般的に1940年型と呼ばれるタイプは、T-34中戦車の原型となったA-34中戦車を量産に適合した仕様に改修したもので、車体はT-34中戦車の特徴といえる傾斜した装甲板で囲まれたピラミッド状をしており、その車体の前方寄りに卵を押し潰したような形状の2名用全周旋回式砲塔が搭載されていた。
車体、砲塔共に圧延防弾鋼板を溶接して組み立てられており、車体は普通の平面板であったが砲塔の側面は曲げ加工されていた。
このため、その生産には手間と時間が掛かった。
後の生産型との最大の相違点は主砲で、レニングラードの第100キーロフ工場(LKZ)で開発された30.5口径76.2mm戦車砲L-11を採用していた。
また主砲防盾の形状も後の生産型と異なっており、丸みを帯び上にコブ状の突起のある鋳造製のものとなっていた。
その他砲塔周りでは、砲塔前部左寄りに砲手用のPT-4-7ペリスコープ、砲塔ハッチ上に車長用のPTKペリスコープが装備されていた。
砲塔後面の主砲交換用のパネルは、4本のボルトで止められていた。
一方、車体の仕様で特徴的だったのは前面左側に設けられている操縦手用ハッチが平面板で、上部中央にペリスコープ1個が付いているだけのタイプであったことである。
また操縦手用ハッチの上の車体部に、左右斜めを見る小さいペリスコープが設けられていた。
この操縦手用ハッチは極初期には車体前面装甲板と面一であったが、途中からハッチとハッチの周囲双方に補強用の板が取り付けられるようになった。
その他車体前面周りでは前照灯が左右に設けられており、車体前端の接合には補強のためピンが差し込まれていた(極初期は一体型となっていた)。
また牽引具がピンを挟み込んだ形状のシャックル掛けになっており、フェンダーは後の生産型より前端の長さが短かった。
走行装置は後の生産型と同様に上部支持輪が無く、コイル・スプリング(螺旋ばね)で懸架した大直径の複列式転輪を片側5個配し、前部に誘導輪、後部に起動輪を配置していたが、転輪の形式はプレス製のディッシュ型で肉抜き穴は開けられておらず、周囲にゴムタイヤを装着していた。
このゴムタイヤは冷却のために側面に小穴が開けられており、外周には履帯とのグリップ力を高めるための横溝が彫られていたが、後に横溝が廃止されたタイプのタイヤに変更されている。
そして、転輪の中心には補強板が溶接されていた。
誘導輪にも周囲にゴムタイヤが装着されていたが、冷却用の小穴は開けられていなかった。
この他のT-34中戦車1940年型の細かい特徴は、機関室の前寄りの上面および左右に設けられている4カ所の吸気グリルが、細かく縦に桟が入ったタイプとなっていた点、車体後面装甲板に設けられている点検用ハッチが四角形になっていた点、そして車体後面下端が丸く曲げ加工されていた点などがある。
T-34中戦車の最初の4両の生産車は1940年6月終わりにKhPZをロールアウトし、ソ連軍の手による引き渡し試験を受けた。
前述のように、T-34中戦車の生産は当初KhPZとSTZで行われることになっていたが、STZでの生産は1940年内に開始できず1940年中はKhPZのみで生産された。
T-34中戦車1940年型は1940年中に117両が完成し、1941年前半までに合計で453両が生産された。
なお1940年型は全てKhPZでのみ生産されており、STZで生産された車両は存在しないといわれる。
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+T-34中戦車 1941年型
T-34中戦車1940年型の主砲である30.5口径76.2mm戦車砲L-11は性能不良で、また生産性にも問題を抱えていたため生産に遅延を来たし、当時工場では主砲未搭載の状態のT-34中戦車が並んでいたという。
このため1939年12月にはL-11に代わって、KV-1重戦車の主砲である39口径76.2mm戦車砲F-32をT-34中戦車に搭載することが命令された。
しかしF-32もまた生産性に問題を抱えており、ただでさえKV-1重戦車向けの需要も満たせない同砲をT-34中戦車に振り向ける余裕は無かった。
結局1940年6月、T-34中戦車へは新たに開発された41.5口径76.2mm戦車砲F-34が搭載されることになり、L-11を搭載した1940年型の生産数は453両に留まった。
新たにT-34中戦車の主砲に採用されたF-34は、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の第92スターリン砲兵工場にある中央砲兵設計局(TsAKB)の、P.F.ムラヴィエフ技師をリーダーとするチームが開発したもので、L-11に比べて大幅に火力の強化が図られていた。
F-34はBR-350A APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾)を使用した場合、射距離1,000mで63mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能で、ドイツ軍のIII号戦車やIV号戦車を遠距離から撃破することができた。
なおF-34はL-11に比べて砲身長が延伸された以外に、L-11で砲身の上部にあった駐退機がF-34では砲身下部に移されたため、主砲基部の駐退機カバーの形状も大きく変化している。
F-34を装備したT-34中戦車の試験は1940年11月に行われ、1941年3月半ばからKhPZでF-34搭載型T-34中戦車の生産が開始された。
なお、主砲をL-11からF-34に換装した最初のタイプのT-34中戦車は、一般的に1941年型として分類される。
当初、T-34中戦車の砲塔は圧延鋼板の複雑な曲げ加工と溶接で組み立てられていたが、より生産性を向上させるために、ウクライナのマリウポリ冶金工場に2分割式の鋳造製砲塔の生産が1940年10月に発注され、同年中には供給が開始された。
しかし、これ以後もしばらくの間従来の溶接製砲塔の生産も継続されたため、T-34中戦車1941年型には溶接製砲塔と鋳造製砲塔の2種類の車両が存在した。
また、1940年型の後期生産車でも鋳造製砲塔の車両が見られる。
新しく導入された鋳造製砲塔は、従来の溶接製砲塔のような複雑な加工が必要無かったため生産性は向上したが、当時のソ連はまだ鋳造技術が未成熟だったため当初は不良品が多く、歩留まりが悪かったようである。
なおこの鋳造製砲塔は、その形状がロシアやウクライナでよく食べられるピロシキに似ていたため、「ピロシキ砲塔」と呼ばれていたらしい。
また1941年春頃から砲塔前部のPT-4-7ペリスコープが左側だけでなく、右側にも装備されるようになった。
その代わり砲塔ハッチ上のPTKペリスコープは廃止され、最初は開口部に蓋をして塞いでいたが、後に開口部自体が廃止された。
砲塔ハッチ上面の膨らみの形状も生産時期によって変化があり、砲塔後面の主砲交換用パネルは固定用ボルトの本数が従来の4本から6本に増やされた。
これはこの部分が防御上の弱点となっていたため、固定用ボルトの本数を増やすことで強度の向上を図ったのだが、1942年3月からはさらなる強度の向上と生産効率の向上を図るため、主砲交換用パネルの開口部が廃止された。
このため砲塔後面からの主砲交換は行えなくなったが、その代わり砲塔後方を斜めに持ち上げて、それでできた砲塔リングとの隙間から主砲の交換を行うように改められた。
これは、T-72戦車などの現用のロシア軍戦車でも用いられている主砲交換方式である。
T-34中戦車1941年型は主砲をF-34に変更し、鋳造製砲塔を搭載したタイプが最も一般的であるが、生産時期によって車体にも変化が見られる。
最も目立つのが車体前面左側の操縦手用ハッチで、1941年夏頃から従来の圧延鋼板製のハッチに代えて分厚い鋳造製のハッチが用いられるようになり、ハッチの上部左右にはペリスコープが並んで装備された。
もう1つ目立つのが牽引具の形状の変化であり、1941年秋以降の生産車では従来のシャックル掛け式から、ハンマーヘッド型の牽引フックに変更されている。
その他車体でおおよそ1941年秋以降に変更された点は、車体前面左右に設けられていた前照灯が左側のみになる、フェンダーが前方に延長される、機関室の吸気グリルが格子状になる、車体後面装甲板上の点検用ハッチが丸形になる、車体後面下端が上下が角張ったまま突き合わされた形状となる等である。
一方足周り関係では、1941年秋頃から外側のリングの形状が変更された新型起動輪が導入されている。
続いて1942年1月から、外側のゴム縁を廃止した鋼製誘導輪が導入されるようになった。
生産開始が遅れていたSTZでも1941年からT-34中戦車の生産を開始したが、当初は生産能力の不足から、KhPZから送られてきたパーツを組み立てて完成させるノックダウン生産の形を採っていた。
このため、STZで生産された初期のT-34中戦車はKhPZの生産車と同じ特徴を有していたが、次第にSTZ特有の特徴を増していくことになった。
その最大の特徴は鋼製転輪の採用で、これはSTZの地理的な問題でゴム工場から遠く離れていたため、ゴム資材が不足したことに起因する。
これを解決すべく、STZでは外側にゴム縁を持たない鋳造製の鋼製転輪が開発されたが、この鋼製転輪はゴム縁を廃止した代わりに内側にゴムを挟み込んでおり、ゴム縁付き転輪と遜色無い緩衝性能を発揮することが可能であった。
LKZが開発したKV重戦車シリーズにも鋼製転輪が採用されていたが、こちらのケースはゴムの節約が目的というよりも、大重量のKV重戦車シリーズには強度で勝る鋼製転輪の方が適していたということらしい。
なお鋼製転輪は、緩衝性能自体はゴム縁付き転輪と遜色無いが、外周の鋼製リムが直接履帯と接触するため、走行時の騒音がやや大きくなる欠点があったようである。
STZ製のT-34中戦車に鋼製転輪が装着されるようになったのは1941年10月末くらいからで、全ての転輪に対して使用された。
また同時期より起動輪、誘導輪もSTZ独自の仕様のものが用いられるようになった。
もう1つSTZ製のT-34中戦車の大きな特徴となったのが、砲塔のデザインである。
STZでは溶接製砲塔と鋳造製砲塔の両方のタイプのT-34中戦車が生産されたが、両者に共通して採り入れられたのが駐退機カバーのデザインの変更である。
STZ製T-34中戦車の駐退機カバーは下側が付き出して、尖った形状になっていたのである。
通常のT-34中戦車の駐退機カバーは前面がほぼ垂直であったため、装甲板が傾斜している他の部分に比べて防御上の弱点となっていたといわれている。
熟練したドイツ軍戦車の砲手は意図的にこの部分を狙って射撃してくるため、その対策として駐退機カバー前面に増加装甲板を装着したT-34中戦車も存在した。
おそらく、STZではこの弱点を改善するために駐退機カバー前面を傾斜装甲にしたものと推測されるが、この新型駐退機カバーの導入時期は1942年5月頃であり、1941年型でもかなり後期の車両のみの特徴である。
また前述のように、T-34中戦車の砲塔には後面に主砲交換用のパネルがボルト止めされていたが、STZで生産された溶接製砲塔では途中から後面装甲板を丸ごと1枚板とし、8本のボルトで固定するように変更された。
これは後面装甲板にパネルの開口部を設ける手間を省くためだったと思われ、STZで1941年終わりから1942年初めに生産された溶接製砲塔に見られる特徴である。
その後、1942年6月頃からは後面装甲板は完全に溶接されるようになり、砲塔後面からの主砲交換は行えなくなった。
またSTZ製の溶接製砲塔は前端のデザインにも特徴があり、1942年5月頃から砲塔前端の左右が平面に切り落とされるようになった。
STZ製のT-34中戦車は、車体についても独自の改良が採り入れられていた。
それは、車体の装甲板の接合部の形状変更である。
それまでのT-34中戦車の車体装甲板の接合は、ほぞと場所によってはピンで補強した丁寧なものであった。
それは逆にいえば時間と手間の掛かるものであり、その工程を簡略化しようというのである。
STZで採用された方法はドイツ戦車でおなじみの噛み合わせ式の接合であり、これは1941年11月より採り入れられている。
一方1941年8月からは、ゴーリキーの第112クラースノエ・ソルモヴォ造船工場もT-34中戦車の生産に参加することになったが、地理的な条件でV-2ディーゼル・エンジンが入手困難だったため代わりに、BT-7快速戦車にも使用された航空機用エンジンベースのM-17T
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力450hp)と、BT-7快速戦車用の前進3段/後進1段の変速・操向機を搭載したT-34中戦車を1941年中に173両生産している。
第112工場も当初は生産能力が不足していたためSTZと同様に、KhPZから送られてきたT-34中戦車のパーツを組み立てて完成させるノックダウン生産の形を採ったため、生産初期のT-34中戦車はエンジンと変速・操向機が異なる以外はKhPZの生産車と同じ特徴を有していたが、次第に第112工場独自の特徴を備えるようになった。
第112工場ではT-34中戦車の生産簡略化のため、鋳造製砲塔の後面にある主砲交換用パネルの開口部を廃止した。
前述のように、1942年3月から全てのT-34生産工場で鋳造製砲塔の後面パネルが廃止されているが、このアイディアを発案し最初に実施したのは第112工場である。
これにより砲塔後面から主砲の交換が行えなくなったが、第112工場ではその代替案として砲塔後方を斜めに持ち上げて、それでできた砲塔リングとの隙間から主砲の交換を行う方法を考案した。
ただし、この作業の際には気を付けないと砲塔が前方に滑り落ちてしまう恐れがあるため、それを防ぐために車体前面装甲板の上端に庇を設けて、これを砲塔滑落防止の引っ掛かりとすることが考案された。
第112工場の生産車にのみ存在するこの庇は、砲塔リングを防御する跳弾板としても役立ったので一石二鳥であり、第112工場では1942年5月頃から車体側面上端にも庇を取り付けるようになった。
一昔前は、「車体装甲板上端に砲塔リング防御用の跳弾板を取り付けているのが第112工場製T-34中戦車の大きな特徴である」と解説されることが多かったが、この庇は跳弾板よりも主砲交換時の砲塔滑落防止用の治具としての役割の方がメインであることが、近年の研究により明らかになった事実である。
また面白いのは、第112工場でもSTZと同様に車体装甲板の接合方法の簡略化に思い至ったらしく、やはり噛み合わせ式の接合方法が1941年11月頃から採り入れられた。
これは別に両工場で示し合わせて始めたわけではなく、全く偶然同時期に同じアイディアを思い付いたということである。
その他の第112工場製T-34中戦車の特徴としては、1942年冬頃から砲塔上のペリスコープカバーがキノコ型のものに変更されている。
T-34中戦車は1941年6月22日の独ソ戦(大祖国戦争)勃発までに、1940年型と1941年型合わせて1,225両が完成していた。
緒戦に投入されたT-34中戦車は、当時のドイツ軍機甲部隊の主力だったIII号戦車やIV号戦車短砲身型を凌駕する性能を備えていたものの、戦車兵の練度不足や稚拙な戦車運用によって大半が各個に撃破されてしまった。
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+T-34中戦車 1942年型
独ソ戦の緒戦でソ連軍は敗北を重ね、ドイツ軍はソ連領内深くに侵攻した。
このためソ連は、西部にあった戦車工場のウラル山脈以東への疎開を進めた。
第183ハリコフ機関車工場も1941年10月にウラル地方のニジニ・タギルに疎開し、同地にあったウラル貨車工場(UVZ)と統合されて、ハリコフ機関車工場(KhPZ)からウラル戦車工場(UTZ)に改称された。
UTZでは1941年12月からT-34中戦車の生産を再開したが、ソ連軍当局は不足する戦車戦力を一刻も早く整備するために、UTZに対してT-34中戦車の生産性の向上に重点を置いた改良を図ることを命じた。
これに応じてUTZで開発されたのが一般的にT-34中戦車1942年型と呼ばれるタイプで、生産性を向上させるために各部の省略と簡素化が図られていた。
1942年型の最大の特徴は、生産性と乗員の作業効率の向上を目的として、より単純な形状で大柄な新型砲塔が採用された点である。
従来のT-34中戦車の砲塔は小柄過ぎて乗員の戦闘動作がやり難い上、砲塔上面に設けられていたハッチが大型の1枚開き式で、外部を視察するのに不便なことも戦車兵たちに不評であった。
1942年型では、UTZの第520設計局が開発した大柄で背の高い新型砲塔が導入され、砲塔内スペースの増加により乗員の作業効率が向上した。
砲塔上面のハッチも、車長用と砲手用にそれぞれ独立した小型円形ハッチが設けられ、外部視察がやり易くなった。
この新型砲塔は周囲が傾斜面で構成された鋳造製で、生産性の向上のために砲耳が前方に外付けされていた。
なおこの砲塔は上から見ると六角形の形状をしていたため、「六角型砲塔」または「ナット砲塔」などと呼ばれた。
第520設計局では六角型砲塔の設計を1942年春にまとめ、ソ連軍当局は同年5月に全てのT-34生産工場に対して、7月までに六角型砲塔に生産を切り替えるよう指示を出したが、実際には各工場で切り替え時期にばらつきが生じ、それ以降も従来のピロシキ砲塔を搭載したT-34中戦車の生産を続けた工場もあった。
六角型砲塔の開発元であるUTZでは逸早く六角型砲塔への生産切り替えを進め、1942年春から六角型砲塔T-34中戦車の生産を開始した。
ただしUTZでは当初、六角型砲塔を砂型による鋳造で生産したため生産数が少なく、UTZが本格的に六角型砲塔T-34の生産を行うようになったのは、金属鋳型を使用した生産が開始された夏以降となった。
UTZ製T-34中戦車の六角型砲塔は、いわゆる「ハードエッジ砲塔」と呼ばれる砲塔前端下部が鋭く尖ったタイプが主であった。
一方、KhPZが疎開した後にT-34中戦車の主力生産工場となったスターリングラードのSTZでは、ドイツ軍のソ連侵攻開始後の1941年8月頃から工場をフル稼働させてT-34中戦車1941年型の生産を行い、1941年中に1,256両、1942年中に2,684両の1941年型を完成させた。
1942年6月にはスターリングラード攻防戦が開始されたため、STZでは六角型砲塔の1942年型への生産切り替えは行われず、1941年型の生産を続行した。
そして、同年10月のドイツ軍によるSTZへの総攻撃で工場施設が破壊し尽くされたため、STZにおけるT-34中戦車の生産は途絶えることになった。
また、疎開したKhPZに代わる形でT-34中戦車の生産に加わることになったゴーリキーの第112工場は、前述のように1941年8月からT-34中戦車1941年型の生産を開始したが、1942年5月に六角型砲塔の1942年型への生産切り替えが通達された後も延々と1941年型の生産を続けた。
第112工場で六角型砲塔を備えるT-34中戦車の生産が開始されたのは1943年の後半になってからであり、すでに新型車長用キューポラを備えたT-34中戦車1943年型が登場した時期であった。
このため第112工場では1942年型の生産は行われず、1941年型からいきなり1943年型に生産が切り換えられたのではないかという説も存在する。
ただし六角型砲塔の導入こそ大幅に遅れたものの、第112工場で生産されたT-34中戦車にはそれ以外の1942年型の改修点は採り入れられていた。
一方、西シベリアの第174オムスク・レーニン工場(OLZ)も、1942年からT-34中戦車の生産に参加することになった。
OLZは元々、レニングラードでT-26軽戦車シリーズの生産を行っていた第174K.E.ヴォロシーロフ工場を母体としている。
第174工場は侵攻してくるドイツ軍から逃れるため、1941年に一旦チカロフ(現オレンブルク)に疎開したが、1942年により東方のオムスクに再疎開し、工場名を「オムスク・レーニン工場」に改めた。
OLZでは1942年8月から六角型砲塔を持つT-34中戦車1942年型の生産に移行したが、OLZ製T-34中戦車に搭載された六角型砲塔の多くは、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)のウラル重機械工場(UZTM)で製造された、いわゆる「ソフトエッジ砲塔」と呼ばれる砲塔前端下部が丸まったタイプであった。
またチェリャビンスク・キーロフ工場(ChKZ)も、1942年8月からT-34中戦車の生産に参加することになった。
ChKZは元々、レニングラードでKV-1、KV-2重戦車の開発・生産に携わっていた第100キーロフ工場(LKZ)を母体としており、疎開後もKV-1重戦車の生産を続行していたが、ソ連軍当局は主力戦車であるT-34中戦車の生産を最優先に考えていたため、ChKZも無理やりT-34中戦車の生産に参加させられたのである。
ChKZはT-34中戦車の生産参入時期が遅かったため、同工場では最初から六角型砲塔を備える1942年型の生産を行った。
ChKZで生産されたT-34中戦車1942年型に搭載された六角型砲塔は、前述のソフトエッジ砲塔が中心であったが、UZTMで製造されたプレス製砲塔を搭載した車両も多く存在した。
UZTMでは以前から砲塔などT-34中戦車のコンポーネントの生産を行っていたが、1942年9月からはT-34中戦車自体の生産も担当することになった。
しかし鋳造製砲塔の生産余力は無かったため、目を付けたのが同工場で使い道も無く遊んでいた10,000tの巨大プレス機であった。
この巨大プレス機を用いて圧延防弾鋼板の一枚板を押し出し加工して砲塔を生産すれば、鋳造製砲塔よりもさらに生産性を高めることができた。
また圧延装甲は鋳造装甲に比べて靭性が高く防御力に優れるため、生産性の高さ以外にもプレス製砲塔はメリットがあった。
UZTMでは1942年10月からプレス製砲塔の生産を開始し、前述のようにChKZ製のT-34中戦車にもUZTMのプレス製砲塔が搭載された。
というか、UZTM製のT-34中戦車よりもChKZ製のT-34中戦車の方が、プレス製砲塔を搭載した車両が多かったといわれる。
またT-34中戦車1942年型は砲塔だけでなく、車体にも各種の変更点が盛り込まれている。
ソ連戦車といえば車体、砲塔にしがみ付いて随伴する歩兵(タンクデサント)が有名だが、そのための手摺りがT-34中戦車の車体、砲塔の周囲に装備されるようになったのは1942年秋頃からである。
手摺りの取り付け位置や形状には生産工場や生産時期によって差異が見られ、繋がった柵型になっている手摺りと独立したU字型になっている手摺りの2種類が存在した。
また、T-34中戦車は車体前方機関銃のマウント部が防御上の弱点となっていたため、1942年秋以降からさらに外側に被せるような外装式防盾が装備されるようになった。
同様に1942年秋頃から、車体前面左側の操縦手用ハッチの開口部のすぐ下に跳弾板が取り付けられるようになった。
従来は基部がリベット止めされていた車体前面のハンマーヘッド型の牽引フックは、1942年夏頃から溶接されるようになった。
なお、T-34中戦車はそれまで車体前面左側に前照灯が装備されていたが、1942年春頃から前照灯の位置が左側面前方に変更されている。
その時期から考えて、前照灯の位置を変更したタイプの1941年型も相当数生産されたはずである。
また1942年秋頃より、T-34中戦車の車体後部左右に角形の増加燃料タンクが装備されるようになり、航続距離の延伸が図られている。
一方走行装置関係では、生産工場や生産時期によって転輪の形状にバリエーションが見られるようになった。
従来と同じくゴム縁付きプレス製のディッシュ型転輪の使用が続けられるが、中心部の補強板が省略されるようになった。
また並行してディッシュ型でなく放射状に6本のリブが走った、いわゆる「蜘蛛の巣型」と呼ばれるゴム縁付き鋳造製転輪も用いられるようになった。
この蜘蛛の巣型転輪にもバリエーションがあり、途中から12個の肉抜き穴が開けられるようになり、リブの形状も変化した。
そして、かつてSTZ製のT-34中戦車に装着されていたのと同様の、ゴムを内蔵した鋼製転輪も再び用いられるようになるが、STZ製のものとは形状が異なっている。
ゴム縁付き転輪と鋼製転輪は混成して使用されることも多く、その場合前後の2個がゴム縁付きで、真ん中3個が鋼製転輪というパターンが多い。
これは、前述のように鋼製転輪の方がゴム縁付き転輪より強度が高いため、より重量負担の大きい車体中央部を鋼製転輪で支えようという意図からである。
なおゴム供給状況の改善ということか、戦争後半に向かうに従いT-34中戦車の鋼製転輪使用は減っていった。
一方、KV重戦車シリーズやIS重戦車シリーズは一貫して鋼製転輪を使用し続けたが、これは重戦車には強度の高い鋼製転輪の方が適していたためである。
T-34中戦車1942年型は、主砲の76.2mm戦車砲F-34も生産性の向上を図って第92砲兵工場の手で改設計が行われており、従来は861個必要であったパーツを614個で構成できるようになった。
前述のように1942年に入ってOLZ、ChKZ、UZTMなど多くの戦車工場がT-34中戦車の生産に新規参入し、T-34中戦車自体も改設計によって生産性が大きく向上したため生産数が飛躍的に増加した。
この結果、1942年のT-34中戦車の総生産数は前年の4倍以上の12,527両に達している。
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+T-34中戦車 1943年型
前述のように、T-34中戦車の1940年型、1941年型の砲塔は小柄過ぎて乗員の戦闘動作がやり難い上、砲塔上面に設けられていたハッチが大型の1枚開き式で、外部を視察するのに不便なことも戦車兵たちに不評であった。
このことはソ連軍当局も分かっていたため、すぐにその改善が図られようとしていた。
それは、車長用キューポラを装備する3名用の新型砲塔を搭載した改良型T-34中戦車の開発である。
実は戦前の、独ソが友好関係にあった時期にソ連はドイツからIII号戦車のサンプル車両を入手しており、これを用いて徹底的な調査が行われた。
そしてIII号戦車が装備する3名用砲塔の視界の良さや、トーションバー式サスペンションの先進性にショックを受けたソ連軍当局は、T-34中戦車にこれらの改良点を盛り込んだT-34M中戦車(”M”はロシア語で「改良」を意味する「Modifikatsiya」の頭文字)の開発をKhPZに命じた。
KhPZでは、1940年9月に過労による肺炎悪化で死去したM.I.コーシュキンに代わって、第190設計局の主任技師の座に就いたA.A.モロゾフが中心となってT-34M中戦車の開発を進め、1941年終わりには生産を開始することが予定されたが、前述のように1941年6月に独ソ戦が勃発したためT-34M中戦車は開発が中止されることになり、同年4月に縮小模型が作られたのみで試作車の製作には至らずに終わった。
そして性能的に不満はあるものの止む無く、T-34中戦車は原型のまま生産が続行されることになったが、それでも前述のように漸次改良が加えられていき、1942年型に至って大柄で車長と砲手用に独立したハッチを備える六角型砲塔が採用された。
実はこの六角型砲塔は、T-34M中戦車用に開発された新型3名用砲塔を設計ベースとしており、形状が類似していた。
ただしこの時は、車長用キューポラは採用されなかった。
T-34中戦車の砲塔に車長用キューポラを装備しようという試みは幾つかあったが、基本的にそれは3名用砲塔の製作とセットであった。
しかし、それは結局砲塔の大型化無しでは不可能だった。
そこで止む無く考え出されたのが、それまでの2名用砲塔のまま車長用キューポラだけを追加する方法であった。
T-34中戦車に車長用キューポラが装備されるようになったのは1943年夏頃からで、これまでの六角型砲塔の上面左側の円形の車長用ハッチに、そのまま被せるような形でキューポラが装備された。
車長用キューポラは周囲に全周の視察用スリットが装備されており、上面には前後に分割して開く乗降用ハッチが設けられていた。
ハッチの前方部分には、イギリスからレンドリース供与された戦車に装備されていたものを、ソ連国内でコピー生産したMk.IVペリスコープが装備されていた。
なお、この車長用キューポラを装備したタイプのT-34中戦車は一般的に1943年型として分類される。
車長用キューポラがT-34中戦車に導入された時期は生産工場によって異なっており、概ね1943年夏頃からだが、第112工場は六角型砲塔への生産切り替え時期が非常に遅かったため、秋以降であったようである。
車長用キューポラは形状にもバリエーションがあったようで、通常は下から上にかけてテイパーが付いていたが、OLZ製のT-34中戦車の一部にはテイパーが付いていない寸胴型の車長用キューポラが装着された。
またT-34中戦車1943年型は、砲塔への車長用キューポラの装着以外に車体にも様々な変更点が盛り込まれている。
まず1943年秋頃から、車体前端の形状が変更されるようになった。
従来は、車体前面上下の装甲板の間に曲げ加工された半円状の装甲板を挟んで成型されていたが、ドイツ戦車のように前面上下の装甲板を尖った状態で突き合わせる方式に変更されたのである。
また、ドイツ戦車などは増加装甲を兼ねて車体のあちこちに予備履帯を装着していたが、ソ連戦車にはあまり見られなかった。
それが、T-34中戦車は1944年春頃から車体前面左右の牽引具の間に5枚の予備履帯を装着できるように改修された。
ただし、76.2mm戦車砲搭載型のT-34中戦車は1944年春に生産を終了しているので、車体前面に予備履帯を装着したのは最後期の生産車のみである。
一方後継のT-34-85中戦車では、多くの車両が車体前面に予備履帯を装着していた。
また1943年秋頃から、T-34中戦車の車体左右側面後部に円筒形の増加燃料タンクが装備されるようになったが、一部の生産工場では1942年末から導入していたようである。
一方走行装置関係では、1943年秋頃からT-34中戦車への鋼製転輪の使用は完全に止められたようである。
そしてこれまで通り、ゴム縁付きのディッシュ型転輪と蜘蛛の巣型転輪の使用が続けられたが、蜘蛛の巣型転輪は主にUTZ製のT-34中戦車、ディッシュ型転輪はその他の工場製のT-34中戦車に多く用いられたようである。
前述のように、1942年6月に開始されたスターリングラード攻防戦において、STZの設備は市街戦で徹底的に破壊されてしまい、STZでのT-34中戦車の生産は1943年以降途絶してしまった。
しかし他の工場における生産数が大幅に増加したために、1943年のT-34中戦車の生産数は最大の15,833両まで拡大した。
1944年に入ると、主砲を85mm戦車砲に換装した改良型のT-34-85中戦車に生産が切り替えられたため、76.2mm戦車砲装備のT-34中戦車の生産は3,976両で打ち切られている。
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<BT-SV-2快速戦車>
全長: 5.80m
全幅: 2.29m
全高: 2.29m
全備重量: 15.6t
乗員: 3名
エンジン: V-2 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 64.3km/h
航続距離:
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (132発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 16〜30mm
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<A-20中戦車>
全長: 5.76m
全幅: 2.65m
全高: 2.43m
全備重量: 18.0t
乗員: 4名
エンジン: V-2 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 74.4km/h(装輪 74.4km/h)
航続距離: 400km(装輪 900km)
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (152発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,079発)
装甲厚: 16〜25mm
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<A-32中戦車>
全長: 5.76m
全幅: 2.73m
全高: 2.43m
全備重量: 19.0t
乗員: 4名
エンジン: V-2 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 74.4km/h
航続距離: 440km
武装: 23.7口径76.2mm戦車砲L-10×1 (72発)
7.62mm機関銃DT×2 (1,638発)
装甲厚: 16〜30mm
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<T-34中戦車 1940年型>
全長: 5.92m
全幅: 3.00m
全高: 2.41m
全備重量: 26.0t
乗員: 4名
エンジン: V-2-34 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 300km
武装: 30.5口径76.2mm戦車砲L-11×1 (77発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,898発)
装甲厚: 16〜45mm
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<T-34中戦車 1941年型>
全長: 6.68m
車体長: 5.92m
全幅: 3.00m
全高: 2.45m
全備重量: 26.5t
乗員: 4名
エンジン: V-2-34 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 300km
武装: 41.5口径76.2mm戦車砲F-34×1 (77発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,898発)
装甲厚: 16〜52mm
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<T-34中戦車 1942年型>
全長: 6.75m
車体長: 5.92m
全幅: 3.00m
全高: 2.60m
全備重量: 28.5t
乗員: 4名
エンジン: V-2-34 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 350km
武装: 41.5口径76.2mm戦車砲F-34×1 (100発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 16〜65mm
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<T-34中戦車 1943年型>
全長: 6.75m
車体長: 5.92m
全幅: 3.00m
全高: 2.60m
全備重量: 30.9t
乗員: 4名
エンジン: V-2-34 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 350km
武装: 41.5口径76.2mm戦車砲F-34×1 (100発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 16〜65mm
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兵器諸元(T-34中戦車 1940年型)
兵器諸元(T-34中戦車 1941年型)
兵器諸元(T-34中戦車 1942年型)
兵器諸元(T-34中戦車 1943年型)
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<参考文献>
・「グランドパワー2004年10月号 ソ連軍中戦車 T-34 (1)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2004年11月号 ソ連軍中戦車 T-34 (2)」 古是三春/青木伸也 共著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2004年12月号 ソ連軍中戦車 T-34 (3)」 古是三春/青木伸也/一戸崇雄 共著 ガリレオ
出版
・「グランドパワー2017年4月号 ソ連軍 T34戦車(1)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2017年11月号 ソ連軍 T34戦車(3)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年11月号 ソ連軍 T34戦車(5)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2022年3月号 T34 工場別車体」 齋木伸生 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ソビエト軍戦車 Vol.1 軽戦車/中戦車」 高田裕久 著 ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車イラストレイテッド7 T-34/76中戦車 1941〜1945」 スティーヴン・ザロガ 著 大日本絵画
・「パンツァー2000年4月号 T-34中戦車 その開発と構造(1)」 古是三春 著 アルゴノート社
・「パンツァー2000年5月号 T-34中戦車 その開発と構造(2)」 古是三春 著 アルゴノート社
・「大祖国戦争のソ連戦車」 古是三春 著 カマド
・「戦車名鑑
1939〜45」 コーエー
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