+概要
N.A.アストロフ技師が率いるモスクワの第37(自動車)工場設計局チームによって開発され、1940年にソ連軍に制式採用されたT-40水陸両用軽戦車は、ソ連が1931年にイギリスのヴィッカーズ・アームストロング社から参考品として購入したA4水陸両用軽戦車のスタイルを踏襲していた、従来のT-37およびT-38水陸両用軽戦車シリーズとは全く一線を画したスマートなデザインで、機構・性能の面でも当時としては優れた内容を持つものであった。
しかし、ハルハ川戦役(ノモンハン事件)等での運用経験から火力の強化が求められ、開発当初は各種機関砲の搭載が検討されたものの、小型な車体に留めながら安定した浮航性能を優先するために、最終的に12.7mm重機関銃DShKT搭載で妥協した点は当初から運用者側に不評であった。
そして早くも量産開始から間もない1940年中に、歩兵用対戦車・対空用機関砲として試作開発中だった23mm機関砲PT-23TBをT-40水陸両用軽戦車に搭載することが企図された。
23mm機関砲PT-23TBは、第16特別設計局(SKB-16)のタウビン、バブーリン両技師が1939年12月より設計に着手したもので、重量130gの23mm徹甲弾を砲口初速830m/秒、発射速度300発/分で撃ち出すものだった。
しかし、思いの他装甲貫徹力が高いものとならない上に(射距離500mでの装甲貫徹力は傾斜角0度で15mm程度)、小型軽戦車への搭載がままならず本機関砲の搭載は見送られた。
結局、T-40水陸両用軽戦車の武装強化プランの具体化は翌年の独ソ戦開戦後となり、ドイツ軍装甲車両に対してあまりに非力な12.7mm重機関銃DShKTに代えて、航空機用の20mm機関砲ShVAKを搭載することが決定されたのは、1941年7月5日付の国防人民委員命令によってであった。
同命令は、第15特別設計局(SKB-15)に対して20mm機関砲ShVAKを戦車搭載用に改修して、T-40水陸両用軽戦車に装備することを命じていた。
戦時下で急ピッチに進められた作業により、早くも1941年8月初旬には20mm機関砲ShVAKを車載用に改修した20mm機関砲TNShが完成され、同年9月に制式採用された。
この20mm機関砲TNShは元々が航空機搭載用であったため比較的軽量で、砲本体重量は45kgに過ぎなかった。
給弾はベルト式で、重量96gの20mm徹甲弾を砲口初速817m/秒、発射速度200発/分で撃ち出すことができ、装甲貫徹力は射距離100mで18mm、同50mで25mmであった(いずれも傾斜角30度)。
20mm機関砲TNShの完成後、本機関砲と7.62mm機関銃DTを同軸に装備し、直接望遠照準機TMFP-1を組み合わせた防盾付砲架が製作され、すぐに第37工場においてT-40水陸両用軽戦車に搭載する作業が開始された。
しかし武装を20mm機関砲に強化したことに伴って重量が増加し、従前の浮航性能を良好に維持することができなくなったため、思い切って水上推進機能は廃止された。
その結果、全体的に装甲厚が増した(車体と砲塔の前面で15mm)にも関わらず、戦闘重量はオリジナルのT-40水陸両用軽戦車と同等の5.5tに収まった。
同じくT-40水陸両用軽戦車から水上推進機能を廃止し、追加装甲によって防御力を強化したT-40S軽戦車では、車体後面の形状はT-40水陸両用軽戦車と同じ段付きのままであったが、本型では一枚板のフラットなものに改められスッキリした形状になった。
砲塔についてはT-40水陸両用軽戦車のものがそのまま引き継がれたが、20mm機関砲を搭載するには少々窮屈であった。
本型はT-30軽戦車(オブイェークト030)と命名され、1941年に第37工場で41両が生産されて、戦況が悪化していたモスクワ前面の防衛戦闘に投入された。
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