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T-10重戦車





1948年末、ソ連軍機甲総局(GBTU)はIS-3、IS-4の後継となる新型重戦車についての指針を発令した。
その第一の要請は、戦闘重量が50tを超過しないことであった。
この要請を受けたチェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)は1949年2月からZh.Ya.コーチン技師の主導の下、新たな重戦車プラン「IS-5」(開発番号オブイェークト730)の企画の進行を開始した。

しかし今回のプランの具現化にあたってはコーチンは大胆な新機軸の採用を試みることは無く、登場時に「理想の重戦車」と将星たちから称賛されたIS-3重戦車をベースに、その間の試作戦車などで採用を図った新機構のエッセンスを少しずつ採り入れるような設計を行った。
まず機動性能面の改善についてはIS-4重戦車の経験を活かし、V-12 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)の改良型を搭載することとし、そのために車体長を同様に延長して片側7個の転輪が配置された。

一方、ラジエイターへの冷却送風機構としてエンジン排気のエネルギーを駆動させるブースターを新機軸として採用し、エンジン出力の費消と重量の増大を防いだ。
これが機構面で意外な成功を収め、良好な機動性能(最初の試作車で路上最大速度43km/h)を得ることができた。

車体の基本デザインは避弾経始の極致として世界を驚かせたIS-3重戦車のものをほぼそのまま踏襲し、足周りは履帯、転輪や起動輪などを含め全体をIS-4重戦車から継承した。
また武装も122mm戦車砲と12.7mm重機関銃の組み合わせで、これもIS-4重戦車のスタイルを踏襲したものであったが122mm戦車砲はやや改良したタイプ(D-25TA)で、装甲貫徹力が従来のBR-471B APCBC(風帽付被帽徹甲弾)よりも高いBR-472 APCBCを採用していた。

チェリャビンスク・キーロフ工場では1949年中にIS-5重戦車の増加試作車を10両製作し、1950年5月にはクビンカの装甲・戦車技術開発研究所(NIIBT)の試験場において国家試験が実施され、これを経てIS-5重戦車の量産入りが決定された。
しかし、実際の量産開始はそれからさらにずれ込むこととなった。

というのは本車に搭載される予定のV-12-5 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンについて、実用上も生産設備の整備上も問題があると指摘され(本エンジンの生産と供給は他の戦車生産との兼ね合いからトルクメン共和国のマールィ市に建設された工場が担当することになっていたが、技術基盤の面で困難に直面したようである)、エンジンの安定供給の目処がなかなか立たなかったのである。

この状況は1952年12月まで続き、その間コーチン技師らは作業停滞の責任を被らされるのを避けるためIS-9、IS-10などの新たな重戦車プランの策定を行っていたようである。
また「IS-5」という名称を与えられた戦車がすでに2種類存在したことから、これらとの混同を避けるために番号の整理が行われ、オブイェークト730には新たに「IS-8」という名称が与えられることになった。

そうした間に、全ての事情を激変させる状況の変化が生じた。
1953年3月5日、ロシアの歴史上稀代の独裁者であったI.V.スターリン共産党書記長が死去したのである。
スターリンの死後、ソ連共産党・政府指導部内では急速に非スターリン化の流れが広まり、スターリンの寵児であったG.M.マレンコフからわずか9日で共産党書記長の座を奪取した改革者N.S.フルシチョフが、1956年のソ連共産党第20回党大会で歴史的なスターリン批判報告を行うに至った。

このような非スターリン化の流れを受けて、スターリン重戦車の最新型「IS-8重戦車」として制式化される予定であったオブイェークト730は、1953年11月28日に「T-10重戦車」としてソ連軍に制式採用されることが決まった。
T-10重戦車の生産は、チェリャビンスク・キーロフ工場で1953年末には開始された。
T-10重戦車シリーズの最初の生産型であるT-10重戦車は、1953〜56年にかけて生産が行われた。

本車は基本的にはIS-3重戦車の近代化型というべきものだったが、西側の主力MBTになりつつあったアメリカのM46、M47パットン中戦車(50口径90mm戦車砲装備)や、イギリスのセンチュリオン中戦車(66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲装備)に対して火力でも装甲防御力でも凌駕し得るもので、機動性能も遜色の無いものであった。

一方、当時ソ連では56口径100mm戦車砲を装備するT-54中戦車が、戦後第1世代の主力MBTとして大量生産に入っていた。
T-54中戦車は火力、防御力、機動力のバランスが取れた優秀な戦車であり、それに比べると重くて機動力に劣るT-10重戦車はやや時代遅れの存在にも思えたが、ソ連軍首脳部はT-10重戦車の優れた火力と装甲防御力を活かして、機甲部隊の先陣を切って戦線に突破口を開く役目を担わせることを構想し、その量産を続行した。

1955年になると、新たに主砲の垂直方向安定化装置PUOT-1「ウラガーン」(烈風)や排煙機を追加したT-10A重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp1、生産型はオブイェークト731)、および主砲用垂直・水平方向安定化装置PUST-2「グロム」(雷鳴)を搭載したT-10B重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp2、生産型はオブイェークト733)が登場し、それぞれ少数が生産されている。

具体的な生産数についてはT-10A重戦車が1956年に30両、1957年に20両、T-10B重戦車が1957年に110両で、両型の生産数が少なかったのは直後にさらなる改良型であるT-10M重戦車が登場したためである。
この内T-10A重戦車は、1957年11月7日の革命40周年記念パレードでT-10重戦車シリーズとして初めて一般公開され、西側に「スーパー・スターリン重戦車の登場」と警戒された。
そして1957年には、シリーズ最終型でソ連軍重戦車の真の決定版であるT-10M重戦車が登場した。

本車はペルミ市の第172火砲工場が開発した122mm戦車砲M-62T2(2A17)を新設計の砲塔に搭載したもので、副武装も2挺の14.5mm重機関銃KPVTに強化されていた(主砲同軸および対空用)。
そして搭載エンジンもV-12-6 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力750hp)に強化され、路上最大速度はソ連軍の制式重戦車として初めて50km/hを超えた。

主砲の46口径122mm戦車砲M-62T2はIS-2〜IS-4重戦車に搭載された43口径122mm戦車砲D-25Tの発展型で、それまでの二重作動式砲口制退機に代えて多孔式砲口制退機を装着していたのが外観上の大きな特徴であった。
M-62T2は弾頭重量25kgのAPCBCを砲口初速950m/秒で発射し、射距離1,000mで厚さ185mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた(D-25Tの場合、同距離での装甲貫徹力は160mm)。

BR-460A HEAT(対戦車榴弾)を用いた場合の装甲穿孔力は、射距離に関わらず約300mmであった。
またM-62T2は操作上の改善点として砲尾部に装填補助トレイを設けており、装填手はここに弾頭と薬莢を載せラマーで砲尾に押し込むようになっていた。
これにより弾頭と薬莢のそれぞれを装填する場合に比べて少なくとも1動作は節約され、重量物を移動させる方向が一定にされたことで装填手の疲労度がやや軽減されることになった。

また主砲と同軸の14.5mm重機関銃KPVTは、軽装甲車両や土嚢や瓦礫で作られた防御陣地に対して有効な威力を持つと共に、主砲の照準・測距のための標定銃としても使用できた。
これはイギリスのセンチュリオン中戦車が12.7mm標定銃L21A1を用いて逸早く採用した照準システムであったが、弾道直進性が高く有効射程が2,000m以上に達する14.5mm重機関銃にもこうした用途が向いていた。

こうした火力性能面での改善を得たT-10M重戦車であったが、実は細部の違う2タイプが2カ所の工場(レニングラード・キーロフ工場とチェリャビンスク・トラクター工場)で生産されていた。
レニングラードで1957〜66年にかけて生産されたタイプは開発番号ではオブイェークト272と呼ばれ、V-12-6Bディーゼル・エンジンを搭載して路上最大速度53km/hを発揮した他、T-54/T-55中戦車シリーズに標準装備されていた潜水渡渉キット(OPVT)を装着して5mの水深を渡渉できた。

一方、チェリャビンスクで1962年まで生産されたタイプは開発番号がオブイェークト734でV-12-6ディーゼル・エンジンを搭載し、路上最大速度はやや前者に劣る51km/hを発揮し潜水渡渉キットを持っていなかった。
なぜ2タイプの車両が生産されたのか理由ははっきりしないが、T-10M重戦車は強力な戦車である反面製造コストが非常に高かったため、後者は必要定数を満たすための低コスト型として生産されたとも考えられる。

こうして1953〜66年にかけて生産されたT-10重戦車シリーズは総生産数が約8,000両を数え、史上最後に量産されかつ最も大量生産された重戦車となった。
なおT-10重戦車シリーズは同盟国への輸出はされておらず、全てソ連軍のみで使用された。
これらは1950年代から1個当たり100両で編制される独立重戦車連隊に装備されたり、3個だけ編制された重戦車師団の主力装備となった。

この3個師団の内第13および第25親衛重戦車師団は旧東ドイツに駐留し、T-10重戦車シリーズの唯一の実戦参加となった1968年のワルシャワ条約機構5カ国軍によるチェコスロヴァキア進攻に投入されている。
この時は他の中戦車に劣らぬ機動性能と稼働率を発揮し、作戦成功に貢献して西側軍事筋を驚かせた。
T-10重戦車シリーズは1970年代までは第一線装備として現役部隊に留まっていたが1980年代より退役が始まり、予備装備としても1993年までに全車両が除籍され廃棄処分に付された。


<T-10重戦車>

全長:    9.715m
車体長:   7.25m
全幅:    3.38m
全高:    2.46m
全備重量: 50.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-12-5 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 700hp/2,000rpm
最大速度: 42km/h
航続距離: 250km
武装:    43口径122mmライフル砲D-25TA×1 (30発)
        12.7mm重機関銃DShK×2 (1,000発)
装甲厚:   16〜200mm


<T-10M重戦車>

全長:    10.56m
車体長:   7.25m
全幅:    3.38m
全高:    2.585m
全備重量: 51.5t
乗員:    4名
エンジン:  V-12-6 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 750hp/2,100rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 250km
武装:    46口径122mmライフル砲M-62T2×1 (30発)
        14.5mm重機関銃KPVT×2 (744発)
装甲厚:   16〜250mm


兵器諸元(T-10重戦車)
兵器諸元(T-10M重戦車)



<参考文献>

・「世界の戦車イラストレイテッド2 IS-2スターリン重戦車 1944〜1973」 スティーヴン・ザロガ 著  大日本絵画
・「パンツァー2016年6月号 誌上対決シリーズ コンカラー vs T-10重戦車」 加賀屋太郎 著  アルゴノート社
・「パンツァー2010年11月号 ソ連生まれの最後の怪物 T-10」 小野山康弘 著  アルゴノート社
・「パンツァー2019年3月号 IS-3と第二次大戦後のソ連重戦車」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2007年3月号 甦った”汎用戦車” IS-8 (1)」 佐藤慎ノ亮 著  アルゴノート社
・「パンツァー2007年4月号 甦った”汎用戦車” IS-8 (2)」 佐藤慎ノ亮 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2020年3月号 赤の広場のソ連戦闘車輌写真集(3)」 山本敬一 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年12月号 ソ連軍重戦車 T-10」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(下)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2000年10月号 ソ連軍重戦車(3)」 古是三春 著  デルタ出版
・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」  デルタ出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」  洋泉社


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