+概要
第1次世界大戦に敗れたドイツは、1919年6月に締結されたヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁止されてしまった。
このためドイツの戦車技術者たちは、スウェーデンに避難して戦車の研究を行うことになった。
スウェーデンは当時まだ工業基盤発達の遅れた国であり独自の戦車開発は不可能に近かったが、ドイツの技術者たちの協力で戦車の開発を開始することになった。
最初にスウェーデンに戦車を教えることになったのは、ヨーゼフ・フォルマー技師であった。
フォルマーはドイツ最初の戦車となったA7V突撃戦車や、Kヴァーゲン超重戦車などを設計した一流の戦車技術者であった。
ドイツ軍当局の重戦車への指向に対してフォルマー自身は軽戦車により興味を示しており、敗戦直前の1918年にLK.IおよびLK.II軽戦車を開発していた。
LK.I/LK.II軽戦車はドイツの敗戦により量産には至らなかったが、フォルマーはこの戦車の設計をそのままスウェーデン軍に提供したのである。
スウェーデン軍は、LK.II軽戦車に改良を加えたものをスウェーデン最初の戦車「Strv.m/21」(Stridsvagn modell 21:21式戦車)として制式化し、1922年に10両生産した。
Strv.m/21軽戦車は当時としては充分近代的な戦車であり、スウェーデン軍に戦車というものを教える先生としての役割を果たし1930年代まで現役にあった。
これに続いて、スウェーデンでは戦車の国産化が進められた。
その中心となったのが、スウェーデン南端部のランツクルーナに所在するランツヴェルク社であった。
ランツヴェルク社の起源は1872年に同地に設立されたペテルソン&オールセン社であるが、同社が1920年代後半に経営危機に陥った際にドイツ資本が多額の出資をして経営権を掌握し、1928年には社名をランツヴェルク社に変更した。
ドイツはこのランツヴェルク社をスウェーデンにおける戦車研究の中心拠点として利用し、その見返りとしてスウェーデンの戦車国産化に協力した。
ランツヴェルク社は戦車の専門家をドイツから招き、一方スウェーデンから技術者をドイツに派遣し戦車設計の情報交換を行なった。
ドイツはこれによって、連合国の監視の目を逃れて戦車設計と製造技術のアップデートを行なうことができたのである。
実際1931年秋にI号戦車の設計が開始された時には、ランツヴェルク社での経験が役立ったことが伝えられている。
ともかくランツヴェルク社は1929年に装輪/装軌兼用のL-5軽戦車(未完成)、1930〜31年に装軌式のL-10軽戦車、装輪/装軌兼用のL-30軽戦車等を開発した。
この内L-10軽戦車はスウェーデン軍の審査を受け「Strv.m/31」(Stridsvagn modell 31:31式戦車)として制式化され、1934年に少数が生産された。
Strv.m/31軽戦車は全長5.2m、全幅2.15m、全高2.2m、戦闘重量11.5t、装甲厚8〜24mm、武装にボフォース社製の45口径37mm戦車砲m/34 1門と、カールグスタフ社製の6.5mm機関銃Ksp.m/14-29 2挺を備えていた。
車体と砲塔は、共に圧延防弾鋼板の溶接構造となっていた。
サスペンションはリーフ・スプリングとコイル・スプリングの組み合わせで、エンジンはドイツのビューシンクNAG社製のV型6気筒空冷ガソリン・エンジン(出力150hp)を搭載し、路上最大速度42km/hの機動性能を発揮することができた。
またStrv.m/31軽戦車には戦車指揮に欠かせない無線機が搭載されており、優れた照準装置と視察装置も装備されていた。
乗員は4名で車体内に操縦手と無線手、砲塔内に車長と砲手が位置した。
この内容は、1931年という設計年次を考えると非常に先進的な戦車であった。
Strv.m/31軽戦車はまだ粗削りなところが残っていたものの、後のL-60軽戦車の原型というべきまとまった車両で、スウェーデンの戦車製作の習作として大きな役割を果たしたといえる。
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