Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の開発
第1次世界大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約により新兵器の開発が禁じられたドイツであったが、水面下で密かに再軍備に向けて新しい陸軍構想が具体化しつつあった。 それはハインツ・グデーリアンやオズヴァルト・ルッツの提唱した、戦車部隊を中心とした自動車化師団というものであった。 これは1935年に政権を握ったアドルフ・ヒトラーが、ヴェルサイユ条約を破棄してから一層拍車が掛かった。 しかし、当時のドイツ陸軍の現状は自動車化には程遠く、部隊装備の移動はほとんど全て馬に頼っていた。 そこでドイツ陸軍は戦車の開発と同時に、砲兵部隊や歩兵部隊のために戦車部隊の移動速度に付いてこれる車両を用意してやる必要があった。 すなわち砲兵部隊には野砲の牽引のためのハーフトラックを、歩兵部隊等には大量のトラックが必要とされたのである。 そこでドイツ陸軍では1t~18tの各種ハーフトラックと、軍用の6×4型トラックを開発することとなった。 しかしこれらの車両は、当時のドイツの経済状況からして充分な数を揃えることができず、その多くは民間から徴用するトラックで補うこととされた。 ところが、当時の民間トラックはほとんどが4×2型で、舗装されていない道路での走破能力が極端に劣っており、また耐久性も無かったためにすぐに故障してしまう代物であった。 そのため、これらのトラックは前線での使用には不向きであり、重要な部署には配備できなかった。 軍用トラックにしても、戦車部隊と行動を共にする歩兵(擲弾兵)を輸送するのには余りにも無防備で、せめて小銃弾に耐えられる装甲ボディが必要であろうと考えられた。 そこで、戦車に随伴できる歩兵用の新型車両が開発されることとなった。 新型といっても、全く新規に開発する余裕は経済的にも時間的にも無かった。 そのため、既成車両の流用が必然的に考えられた。 使用車体は、まずハーフトラックとされた。 これは戦車部隊に随伴するため、舗装道路以外での走行性能が必要とされたからで、本来なら全装軌式が理想であったが、それはコストが掛かり過ぎるため却下せざるを得なかった。 また補足的要因としては、小型の砲等ある程度の荷物を牽引できる能力が必要とされたからである。 次に搭乗できる人数が想定され、これは歩兵1個分隊(10名)を収容する能力が必要とされた。 これに適合する車両として、すでに開発に着手していた3tハーフトラック(後のSd.Kfz.11)がベースとして選ばれた。 これを乗員2名と歩兵10名が搭乗できる、ドイツ陸軍初の装甲兵員輸送車としたものがSd.Kfz.251であった。 3tハーフトラックの開発は1933年から開始されていたが、Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の開発構想は1935年からで、そしてその完成と制式採用は1939年になってからのことであった。 3tハーフトラックの開発は、ブレーメンにあるハンザ・ロイド・ゴリアテ社(後にボルグヴァルト社に吸収される)によって行われた。 最初の試作車が完成したのは1934年のことで、この車両は当初「HK.600」と呼称されたが、すぐに「HL kl2」と改称された。 HL kl2は重量5t、牽引力2.5tの車両で、出力70hpのボルグヴァルト社製L3500 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンを車体前部に搭載しており、変速・操向機も同社製のものを使用していた。 定員は8名(乗員2名+兵員6名)で、ゴムタイヤ式前輪のサスペンションはリーフ・スプリング(板ばね)式であった。 装軌式走行装置の部分は短く、起動輪と誘導輪の他、トーションバー(捩り棒)式サスペンションで懸架された転輪4個がオーバーラップ(挟み込み)式配置に取り付けられていた。 1935年になると装甲兵員輸送車構想の試作車両として、HL kl2を発展させたHL kl3(H)が製作された。 これは、転輪を1個増やして(片側5個)車体を延長しており、エンジンを後部に配置していた。 これに装甲ボディを取り付ける予定であったが、車両自体の性能が未熟であったためそれは見送られた(この試作車両は1年後別目的のために装甲化され、3.7cm砲装備のオープントップ式旋回砲塔を搭載する車両に仕上げられた)。 一方同じ1935年には、HL kl2のマイナーチェンジ版のHL kl3も作られた。 この車両の仕様はほとんどHL kl2と同じであったが、変速・操向機が従来のボルグヴァルト社製から、ZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のものに変えられていた(HL kl3(H)も同じ)。 またラジエイター・グリルの形状が、後のSd.Kfz.11に継承されるデザインのものに変更された。 1936年には、HL kl3をベースにした装甲兵員輸送型試作車両のHL kl4(H)が完成した。 この車両もHL kl3(H)と同様リアエンジン配置で、ベース車両に対して転輪を1個増やしている(片側6個)ところも同じであった。 エンジンはこれまでの車両に対して強化されており、出力100hpのボルグヴァルト社製直列6気筒液冷ガソリン・エンジンが搭載された。 また、変速・操向機は再びボルグヴァルト社製のものとなっている。 この車両はHL kl3(H)に比べれば性能向上したものの、まだ制式採用されるほどのものではなく、試作のみで開発は中止された。 同じ1936年には牽引型の完成度の高い試作車両、HL kl5も完成している。 この車両はHL kl3を改良して転輪を片側6個としており、エンジンは出力70hpのボルグヴァルト社製L3500L 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンで、変速・操向機もボルグヴァルト社製であった。 重量は6.5t、牽引力は2.5tで定員はやはり8名であった。 本車はややアンダーパワーであったため、まだ改良の余地があったが、再軍備中の訓練用として牽引車両の必要性が急務となり、そのまま量産されて合計505両が製造された。 1937年にはHL kl5をさらに発展させたHL kl6が完成し、直ちに「Sd.Kfz.11」(Sonderkraftfahrzeug 11:特殊車両11型)として制式採用された。 この車両が、一般的にいうところの3tハーフトラックである。 HL kl6はアンダーパワーを解消するため、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL38TUKR 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)を搭載しており、重量は7.2tに増えたが牽引力は3tに向上し、定員も9名に増えた。 この後、HL kl6の開発はハノーファーのハノマーク社(Hannoversche Maschinenbau AG:ハノーファー機械製作所)にバトンタッチされ、エンジンをマイバッハ社製のHL42TUKRM 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)に換装し、変速・操向機もハノマーク社製の021-32785 U50変速機(前進4段/後進1段)と、シュヴァインフルトのフィヒテル&ザクス社製のPF220操向機の組み合わせに変更するなど若干の改修が加えられた。 Sd.Kfz.11の生産(1938年から)はボルグヴァルト社の他ハノマーク社、フランクフルトのアドラー社、ケムニッツのアウト・ウニオン社、チェコ・プルゼニのシュコダ製作所の各社で行われたが、ボルグヴァルト社以外の生産車は全て「HL kl6」と呼称された。 ハノマーク社は1936年からHL kl6の生産態勢を整えると共に、その装甲ボディ型のHL kl6p(pはpanzer:装甲の頭文字)の開発に着手した。 シャシーの開発はハノマーク社が担当したが、装甲ボディの開発はベルリンのオーバーシャイネヴァイデにあるビューシンクNAG社によって行われた。 HL kl6pの試作車両は1938年に完成し、ツォッセンのクンマースドルフ車両試験場で各種試験が行われた後、1939年春に「Sd.Kfz.251」(Sonderkraftfahrzeug 251:特殊車両251型)として制式採用することが決定された。 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の構造
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車のシャシーは、ベースとなったSd.Kfz.11ハーフトラックのものとほとんど変化しておらず、薄い通常鋼板によるC型鋼で組まれていた。 ただしSd.Kfz.251の場合は側面と後面に8mm厚、下面に6mm厚の防弾鋼板がシャシーにリベットまたはボルト止めされていた。 後部にはトレイラー牽引用のピントルと、ブレーキ連動用エアホース・ジョイントが装備されていた。 Sd.Kfz.251は生産が進むにつれてA~D型へと形態変化していったが、シャシー自体は変化することは無かった。 エンジンはSd.Kfz.11と同じく、マイバッハ社製のHL42TUKRM 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載していた。 このエンジンはシリンダー径90mm、ボア110mm、排気量4,170cc、2,800rpmで100hpの出力を得られた。 エンジン配置は車体前方中央で、その前方に冷却ファンとラジエイターが配置されており、右側にエアフィルターが装備されていた。 変速機はハノマーク社製の021-32785 U50型で前進4段/後進1段であったが、動力分配機を介することにより前進8段/後進2段にすることができた。 エンジンからの動力はSd.Kfz.250装甲兵員輸送車と同じく、フィヒテル&ザクス社製のPF220乾式二重円盤クラッチを介してこれに伝達されており、変速も半自動式であった。 燃料タンクは車体後部のシャシー・フレームの間に設置されており、その注入口は車内の床板にあった。 タンク容量はSd.Kfz.11の110リットルから160リットルに増加されており、航続距離は整地で300km、不整地で150kmであった。 燃料タンクの後ろには、牽引するトレイラーのブレーキ作動用にエアタンクが装備されていた。 走行装置は操向用のゴムタイヤ式前輪と、後部の履帯式駆動装置から成っていた。 前輪は、左右を繋ぐアクスル上部に横置きに配置されたリーフ・スプリングに接続され、振り子式に可動するようになっており、これによりラジアルな衝撃に対処するようになっていた。 また、シャシー・フレーム左右下部にショック・アブソーバー用の小アームが取り付けられ、これをアクスルに結合することにより、アクスルが過剰なスウィングをしないように制御していた。 一方スラスト荷重の衝撃を吸収するため、アクスルの左右から車体後部中央に向けてパイプ材が補助としてボルト結合されており、後方中央部で台形状に溶接され、さらに後部シャシーから延びたシャフトに接続されていた。 なお、ドイツでもタイヤサイズはインチで表現するのが通常であり、HL kl5の場合は前輪タイヤサイズは7.25×20となっており、これはタイヤ幅が7.25インチ(184.15mm)、タイヤ内径が20インチ(508mm)であることを表している。 しかしドイツ軍では、インチとmmが入り交じった表記のタイヤも使用されており、Sd.Kfz.251およびSd.Kfz.11の前輪タイヤサイズは190×18となっていた。 この場合、タイヤ幅を表す190はインチではなくmmで表示されており、タイヤ内径を表す18はインチのままであり457.2mmであった。 Sd.Kfz.251の操向メカニズムは、ハンドル操作によってまず動力の無い前輪のみが操向し、前輪の操向角が左右15度以上になると、自動的に履帯式駆動装置の旋回内側の起動輪に操向ブレーキが作動し、履帯の動きを制御する仕組みになっていた。 履帯式駆動装置の起動輪は前方部にあり、油圧作動によるブレーキドラムが取り付けられていた。 履帯と噛み合う14枚の歯はローラー型になっており、履帯内側の面部分と接触する外周部にはゴムリングが取り付けられていた。 Sd.Kfz.251の履帯型式はZgw.5001/280/140で左側が55枚、右側が56枚の履板で構成されていた。 履板は鋼製の本体と、接地面にはめ込む形で取り付けられたゴムクッションとで構成されていた。 起動輪の歯が噛み合う部分は履板の中心線上にあり、ガイドプレートも各履板ごと中央に配置されていた。 履板の連結部分にはニードル・ベアリングが使われており、そのハウジング部にグリースが注入されていた。 この方式だと連結ピンとの摩擦が減るため、履帯が噛んで故障してしまう危険性は減ったが、定期的にグリースアップしなくてはならないという煩わしさがあった。 1944年になると、Zpw.5001/280/140という新型履帯が登場した。 これは構造的には変わらなかったが全鋼製となり、接地面にハの字型の滑り止めパターンが入り、ベースのデザインも変更されていた。 Sd.Kfz.251の転輪は鋼プレス製の複列式転輪で、外周部にソリッドのゴムタイヤが取り付けられていた。 履帯に加わる接地圧を均等にするため第1、第3、第5転輪および誘導輪が内寄り、第2、第4、第6転輪が外寄りにオーバーラップ式に配置されていた。 第1、第3、第5転輪は各6個の補強用リブと肉抜き穴があり、履帯のガイドプレートをサポートするために2枚の取り付け幅が狭くなっていた。 誘導輪も第1、第3、第5転輪と同じ構造のものが使用されていた。 これに対し第2、第4、第6転輪は8個の肉抜き穴が開けられたタイプで、履帯の外側を押さえるため幅が広く取られていた。 履帯式駆動装置のサスペンションはトーションバー方式で、左右共に後方に延ばされたクランクアームに転輪を取り付けていた。 シャシー・フレーム外側にはアームが過剰作動しないように、各アーム後方上部に角形のゴムダンパーが取り付けられていた。 誘導輪基部に装備された履帯の張度調整装置は車体の外側に取り付けられており、車体後方部にあるシャフトを回転させることにより誘導輪位置の調節が可能であった。 ただ調節シャフトはあまり長くなく、普通は誘導輪の陰に隠れてはっきり見ることができない。 ビューシンクNAG社の設計によるSd.Kfz.251の装甲ボディは、避弾経始を考慮した傾斜装甲板による多面体で構成されており、シャシーからオーバーハングする形で立ち上がる下部構造と、その上に窄まる形で溶接された上部構造の2部構成になっており、戦闘室はオープントップ式であった。 Sd.Kfz.251には、歩兵が車両に乗ったまま戦闘を行うという概念が持ち込まれておらず、天井がオープンなのも、歩兵が素早く車外に飛び出せるようにとの配慮のためであった。 装甲厚は車体前面が14.5mm、戦闘室前面が10mm、側/後面が8mm、上面が6mmであった。 それぞれの装甲板は溶接で接合されており、ちょうど操縦手席の後ろ辺りと機関室上面ハッチ直前とで3つに分割されていた。 この3ブロックは車内でボルト結合されており、シャシーへの結合もボルトで止めるようになっていた。 機関室上部装甲板のハッチはエンジンの点検用で、左右に分割して開くようになっていた。 その前方にラジエイターキャップ・カバーが、そのさらに前には冷却用吸気口として角形グリルが配置(A/B型)されていた。 取り入れられた空気はエンジン前方のラジエイターを通って、機関室左右側面の上下装甲板の合わせ目にある隙間(ちょうどフェンダーの窪み部分の所)から排気された。 そのため排気口部には、上部車体に溶接された整流用の装甲板が追加されていた。 またそのすぐ上部の左右側面には、通気用のハッチがそれぞれ設けられていた。 エンジン用排気管は車体左側に出され、フェンダーの窪み部分に設置されたマフラーに接続されていた。 車体前面下部にはクランクシャフトの差し込み口があり、そのすぐ上にはラジエイター用通気ハッチがあり、そのハッチ中央に、下方に延びたクランク差し込み口のカバーがボルト止めされていた。 戦闘室内前方には左側に操縦手席、右側に車長席が配置され、それぞれの前方と側面には防弾ガラスを備えた視察ヴァイザーが取り付けられていた。 エンジン後部にある変速・操向機は、ギアボックスが操縦手席と車長席の間にまで割り込んでいたが、床板が高い位置に設定してあったので、車内にはわずかにその上部のカバーが出っ張る程度であった。 計器盤は戦闘室前面内側の中央に位置しており、操縦手席の前には操向用のハンドルが装備されていたが、ハンドルはSd.Kfz.11の場合と違って、約90度下に傾いた状態に取り付けられていた。 両座席の上部にはわずかな天井があり、内側には乗員用に頭当てが取り付けられていた。 天井の外側中央には機関銃架(これは戦闘室後部にもある)と、その前方に装備された円弧状の跳弾板があった。 また戦闘室後面には左右開き式の大型ハッチがあり、通常乗員はそこから出入りした。 Sd.Kfz.251は装甲ボディを搭載した結果、重量がSd.Kfz.11の7.2tから7.8tに増加し、そのため牽引力も3tから2.7tに減少している。 元々Sd.Kfz.10/Sd.Kfz.250と、Sd.Kfz.11/Sd.Kfz.251は同じエンジンを搭載しているのに、なぜ牽引力に差があるのかというと、それは履帯の接地面積に関係がある。 接地面積が少なければ軽快に駆動させることができ、走行速度を上げることができるが、逆に接地面積が多ければ走行速度は遅くなるものの、踏ん張りが効くため牽引能力が上がるわけである。 そのため、Sd.Kfz.251と同型エンジンを搭載したsWS重トラクターは車重が14tもあるにも関わらず、その幅広の履帯のために8tもの牽引力があった。 ちなみにSd.Kfz.250、Sd.Kfz.251、sWSの路上最大速度はそれぞれ60km/h、53km/h、28km/hであった。 |
|||||
+Sd.Kfz.251シリーズの生産と部隊配備
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の生産はボルグヴァルト社とハノマーク社によって開始され、最初の生産型であるA型は1939年6月からロールアウトしている。 そして1939年中に232両が完成したが、同年9月に開始されたポーランド侵攻作戦(Unternehmen Weiß:白作戦)には配備がほとんど間に合わず、グデーリアンの指揮した第3機甲師団にわずかに数両が存在しただけであったと伝えられている。 1940年に入ると、Sd.Kfz.251の2番目の生産型であるB型の生産が始まり、同年5月からの西方電撃戦には第1機甲師団に優先的に配備され、その他、第2~第10機甲師団や独立第900自動車化連隊にも1個中隊分のSd.Kfz.251が装備された。 同年半ばからはC型の生産も開始され、この年のSd.Kfz.251の生産台数はA、B、C各型合わせて337両であった。 C型の装甲ボディの製作にはヴェーザー精錬所(バド・オーエンハウゼン)、ヴゥマーク社(ゲールリッツ)、F・シッヒャウ社(エルビンク)が加わり、シャシーの供給にもアドラー社、アウト・ウニオン社、シュコダ社が参加した。 そして1941年には424両が完成し、1942年からはストーバー社(シュテッティン)、MNH社(Maschinenfabrik Niedersachsen-Hannover:ニーダーザクセン・ハノーファー機械製作所)も生産に加わった。 その成果として1942年には1,200両、1943年には2,457両のC型が生産されている。 Sd.Kfz.251は1941年から北アフリカやロシアなど戦線が拡大していくにつれ、生産が軌道に乗り出したことも手伝ってあらゆる戦線に配備されるようになっていった。 1943年9月からC型に代わってD型の生産が開始され、1943年中に1,801両のD型が生産された。 1944年に入ると組み立て生産にエヴェンス&ピストル社(ヘルザ)、ドイツ製作所(キール)、ビューシンクNAG社が参加するようになり、同年中に7,785両ものD型が生産された。 続く1945年は5月の終戦までに1,016両が生産されているので、各型合計で15,252両ものSd.Kfz.251シリーズが生産されたことになる。 前述のように、Sd.Kfz.251は元々歩兵輸送用に開発された車両であったが、実際に生産してみると汎用性が極めて高い車両であることが明らかとなり部隊指揮、物資搬送、着弾観測、砲牽引、偵察等々あらゆる方面で使用されることになった。 しかしそれが災いとなって、Sd.Kfz.251は常に供給不足の状態が続いた。 結局、本来の配備先である歩兵部隊(機甲擲弾兵大隊)全てにSd.Kfz.251を装備させることは遂にできなかった。 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車A型
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車は生産の過程において用途や生産性の向上のため、装甲ボディに改良が加えられておりデザインが変化している。 ドイツ陸軍ではこれを、生産順にA~D型までの4種類に分類していた。 最初の生産型であるA型は車体前面の装甲板も上下に分割されており、最前部にバンパーが取り付けられていた。 戦闘室側面前部の操縦手および、車長用の視察ヴァイザーの前には方向指示器が取り付けられており、さらに側面中央部左右に2カ所ずつ、内部に防弾ガラスを取り付けた独特な形状の視察ヴァイザーが装備されていた。 ただし、これは後に開閉不可能な視察ブロックに変更されている。 また側面後方部には右側上部にスコップ2本、下部にクランクシャフトと鉄梃が、左側上部には鶴嘴と斧が取り付けられていた。 フェンダーはプレス製の一体型で、前輪と履帯部との間に窪みのあるデザインとなっており、左側の窪みに排気マフラーが取り付けられていた。 履帯部を覆う後部フェンダー上には、左右に各3個ずつ雑具箱が装備されており、右側の雑具箱の前には消火器が取り付けられていた。 前輪のフェンダー上には間隔表示棒があり、さらに前方の傾斜部には大型ライト(後にスリット付きカバーを取り付けた)が装備されていた。 場合によってはこれにノーテクライト(防空型前照灯)が追加装備され、左側のフェンダー上もしくは車体に取り付けられた。 戦闘室後面の乗降用ドアは左右開き式であったが、それぞれ1枚のものではなく、戦闘室の形状に合わせて上下に2分割されており、当て板とボルトで結合されていた。 開閉用のヒンジはパイプで構成された大型のもので、戦闘室内側に取り付けられており、ロック機構はロッドで作られたラッチ式で、左側ドアの内側に取り付けられていた。 操縦手および車長用のフロントシートは中央部がかなり凹んだデザインのもので、背もたれは中央の支柱1本で支えられていた。 その他、基本型の仕様では戦闘室内の左右に2分割式の5名掛け用ベンチシートが直列に並べてあったが、このシートの台座は側面装甲板に支点を持つ片持ち式で、床に対する支柱は無かった。 台座の上には極めて平面的な革製クッションが取り付けられており、通常、これらのシートの下には7.92mm機関銃MG34の弾薬が50発入りのマガジンに収められて、左右各10ケースずつ置かれていた。 シートのすぐ後ろ側の壁には左右とも前方に、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が1挺と、後方にそれ用の予備銃身ケースを2個装備(1本入り+2本入り)するようになっていた。 これらのすぐ上には幅の狭い棚状のものが前後に走っており、シートの背もたれは取り付けられていなかった。 戦闘室内の側面上部装甲板には左右共に、マウザー社製の7.92mm小銃Kar98kを前に2挺、後ろに2挺取り付けるようになっていた。 後の型では戦闘室内後部の隅に、7.92mm機関銃MG34用のドラムマガジン・コンテナが装備されるようになったが、このコンテナがA型に取り付けられていたかどうかは不明である。 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車B型
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の2番目の生産型であるB型は、A型を小改良したもので、A型との差異はそれほど大きくない。 最大の特徴は、戦闘室側面中央部にあった左右2個ずつの視察ヴァイザー(ブロック)を廃止したことで、これにより車体の強度と生産性の向上を図ることができた。 また戦訓により前方用機関銃架には、銃手を防護するため楔型の防盾が取り付けられるようになり、これは既存のA型にも装備されるようになった。 車内の様子は、基本的にA型と同じである。 なおA/B型では、指揮車両型等特殊な用途のものでない限りは、車体外側にアンテナおよびその取り付け基部を装備していなかったようである。 実際にはそれらが車内に装備または収納されていたのかは不明で、また無線機自体を装備していなかった可能性も考えられる。 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車C型
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の3番目の生産型であるC型からは、明らかな装甲ボディの設計変更が行われており、特に目立つ変更点は前方部に集中している。 最前部にあった大型のバンパーが廃止され、B型まで分割線を車体側面に合わせていた前面装甲板は、ほとんどの面積が上部板になるように変更された。 また、前面装甲板に設けられていた通気用のハッチも廃止され、同時に、車体上部にあったラジエイター用の吸気グリルも廃止されている。 これに代わる吸気口は下部に設置されており、シャシー・フレームと前面装甲板との間にできた隙間から空気を取り入れるようになっていた。 機関室側面にあった通気用ハッチも廃止され、その下部にあった排気口と一体化した張り出しに変更された。 これと同時に戦闘室後面の乗降用ドアも、ボルト止めの上下2枚構成からプレス成型による1枚板に変更されている。 フェンダーのデザインも変更されており、特に前後端の形状変化が顕著である。 また後部フェンダーはA、B型では水平であったが、C型では前半部が前に向かって上向きの傾斜が付くようになった。 これは、起動輪とフェンダーとの間に泥などの異物が詰まらないようにした改良であった。 このため、3つ並んだ雑具箱は傾斜部を避けて後ろに移動している。 車外装備品はA、B型の場合主に戦闘室側面にあったが、戦闘時に被害を受け易かったためC型からはフェンダー上に移されている。 左側の後部フェンダー上にあった消火器は、戦闘室後面の乗降用ドアの内側に配置換えされ、代わりにスコップが2つそこに装備された。 また左側の前部フェンダー上には鶴嘴が取り付けられ、右側の後部フェンダー前方には鉄梃、斧、クランクハンドルが取り付けられていた。 また、以前の型で側面視察ヴァイザーの前にあった方向指示器も、後部フェンダーの前端に移動されている。 なおC型では、車体前方左端にノーテクライトが常備されるようになっている。 簡素だった戦闘室内は、C型ではかなり手が加えられている。 フロントシートは、四角く枠組みされたフレームにクッションが取り付けられるようになり、背もたれも同じ構造のため支柱は左右の2本となった。 ベンチシートの構造も変更されており、まず床板に、7.92mm機関銃MG34用の弾薬等を収めておく収納箱が設置された。 収納箱は前後2カ所に置かれ、長さはベンチシートの大きさ(前が3名掛け用で後ろが2名掛け用)に合わされていた。 収納箱上部の蓋の部分にはパイプでフレームが組まれ、スプリングを張ってその上に革製クッションが取り付けられていた。 そのため、以前のシートに比べかなり座り心地が改善されていた。 ベンチシートの後ろには、背もたれ兼収納庫が設けられていた。 収納庫はシートに合わせて前後に2分割されており、前方部には小銃4挺分の収納ブラケットが取り付けられていた。 そのため、背もたれの部分は下側の棒を支点として前に倒れるように作られており、小銃を素早く取り出すことができた。 ちなみにマニュアルによると、この収納部分には両方で計6挺の小銃を取り付けることになっている。 また予備銃身ケースも、通常型ではこの位置に収納されることになっていた。 これに対し後ろの収納庫の背もたれは固定式で、マニュアルでは左右で12名分の衣類袋入れとなっている。 また収納庫上部の装甲板上端には、4個のブラケットで固定されたロッド型の手摺りが取り付けられるようになっていた。 このC型に至って初めて車長席の前方右側に、隊内連絡用のFu.Spr.Ger.f型無線送受信機が常備されたことが確認でき、そのためのアンテナ基部が戦闘室右側面前方上部に装備されるようになったことも認められる。 なおC型では装甲ボディを溶接ではなく、リベット止めで製作した車両も存在した(その場合、機関室側面の張り出しは構造上一段下げられており、前面装甲板もプレス成型の1枚ものであった)。 これは、Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の増産に対する応急的な処置であったようで、溶接に不慣れな工場へ生産指示が出された結果であったと思われる。 従って、特定工場で生産されたことを示す特徴ともいえ、このような例はC型にしか見られないものである。 |
|||||
+Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車D型
Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車の最終生産型であるD型では、生産性向上のために簡略化が徹底的に行われており、C型までとの共用部分はわずかに50%にしか過ぎないほどに改設計されていた。 まず、全体的にプレス成型機を使用しない平板の溶接構造を採用しており、リベット止めのものも廃止された。 後付けされていた機関室側面の排気口用張り出しは、側面装甲板自体を大型化したことにより廃止され、それによって車体前部の形状がよりシンプルなものになった。 車体後部も側面角を削ぎ落とすデザインを止め、よりシンプルな構造となった。 戦闘室後面の乗降用ドアは、左右開き式である点は変化無いが曲げ加工無しの1枚ものになり、ヒンジも小さなものが外側に2個ずつ取り付けられるようになった。 ロック機構はC型までのものとは異なる形状のもので、左右のドアの内側に装備されていた。 フェンダーは一体成型ではなく細かなパーツに分けて作られ、組み立て時にボルト等で接合する方式となっていた。 後部フェンダーは雑具箱と一体になり、一見車体側面そのものに見えるデザインとなったが、その収納部は相変わらず3カ所で、それぞれ下側にヒンジを持つ鍵付きのドアが取り付けられていた。 この側面収納部上側には、わずかに上面装甲板がオーバーラップしており、収納部をボルトで固定していた。 なお、C型まで後部フェンダー上にあった方向指示器は廃止され、前部フェンダーにあった大型ライトも小型のものに変更され、装備位置は後方へ移動した。 また、車体側にあったノーテクライトは左フェンダー上に移されている。 ただ小型ライトは早々に廃止され、ノーテクライトも後期型ではボッシュライトに変更されている。 車外装備品は左側フェンダー上に鶴嘴が、右側フェンダー上に斧が取り付けられていた他は、車体側面の収納部に収められていたと考えられる。 その他戦闘室側面にあった視察ヴァイザーが、装甲板に単なるスリットを開けただけ(もちろん内側に防弾ガラスがある)の簡略構造となったのもD型の特徴である。 また、D型の末期生産車ではエンジン点検用ハッチが1枚ものの片開き式となり、ヒンジ位置も横から後ろに移動した。 同時に、エンジン点検用ハッチ前のラジエイター上の装甲板が丸ごと左側に開くハッチに変更され、左側の角にヒンジが2つ追加された。 この場合、ラジエイター・キャップ用のカバーは廃止されていた。 D型の戦闘室内は基本的にC型と大差無いが、時期的に7.92mm機関銃の装備がマウザー社製のMG34から、デーベルンのMLJG社(Metall und Lackwarenfabrik Johannes Großfuß:ヨハネス・グロースフース金属・漆器製作所)製のMG42に移行したため、機関銃ラックの形状が変化しており、フロントシートの背もたれ後部にスプリングが剥き出した状態で取り付けられるようになっていた。 D型の末期生産車では、後部シートからクッションが無くなって木の板を張っただけの簡素な構造になり、背もたれのクッションも廃止されていた模様である。 |
|||||
+Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車
Sd.Kfz.251/1はSd.Kfz.251シリーズの基本型で、これまで説明してきた乗員2名の他、歩兵1個分隊(10名)を収容する兵員輸送型である。 固定武装として7.92mm機関銃MG34もしくはMG42 3挺があり、うち1挺は前方機関銃架に常備された。 携行弾薬は2,010発で、MG用の三脚式対空銃架も装備されていた。 また、エアフルトのエルマ製作所製の9mm機関短銃MP38もしくはMP40 2挺も搭載されているので、MP用の弾薬マガジン6本入りケースが1個装備されていた。 この他、7.92mm小銃Kar98kが計6挺搭載されることはすでに述べた通りである。 なお戦車部隊に随伴する場合は、Fu.5無線送受信機を搭載することもあった。 |
|||||
+Sd.Kfz.251/1重機関銃搭載型(sMG)
本車は重機関銃支援分隊用の車両で、フロントシート後ろの左右側面にMG用34型もしくは42型三脚銃架が追加装備されていた。 このタイプでは通常の前方用機関銃架の代わりに、三脚銃架と略同型の銃架を専用マウントに装備した。 専用マウントには俯仰角を操作するハンドルが装備され、照準用のペリスコープを取り付けるようになっていた。 給弾はベルト式で、弾薬袋を下に装備する部分があった。 定員は11名である。 |
|||||
+Sd.Kfz.251/1ロケット・ランチャー搭載型
本車は、1940年後半にベルリンのJ・ガスト社によって開発された、Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車用のSWR40型重(ロケット弾)発射枠を戦闘室に取り付けたタイプである。 発射枠は左右に3つのランチャー架を持つパイプフレームで、前後2カ所で左右を結合しており、戦闘室側面上端の左右に4個ずつ設けられたクランプで取り付けてあった。 発射できるロケット弾は28cmまたは32cm型で、それぞれ木または鉄で箱組みされたランチャーに入れられ、架台にセットされた。 最大射程は28cm型が1,900m、32cm型が2,200mであった。 架台は発射角度の変更が可能(+5~+45度)で、そのためのゲージも付いていた。 車体前面には照準用のバーが2本立てられ、車両の向きを変えることで射撃方向の調整を行うようになっていた。 もっともロケット弾は元々弾道が不安定なので、あくまでおおよその照準しかできなかった。 車内はシート等全く改造されておらず、そのままの状態でロケット・ランチャー6基を搭載することができた。 ただし、定員は7名に減らされている。 本車は装甲工兵中隊の第3小隊に主に配備され、別名「歩くシュトゥーカ(急降下爆撃機)」とも呼ばれた。 |
|||||
+Sd.Kfz.251/1赤外線暗視装置装備型ファルケ
「ファルケ」(Falke:鷹)は、Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車にフランクフルトのAEG社(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft:総合電気会社)が開発した暗視装置を搭載した支援車両で、同じく暗視装置付きのパンター戦車および、Sd.Kfz.251/20「ウーフー」(Uhu:ワシミミズク)と行動を共にした。 暗視装置は直径20cm、出力200Wの赤外線ライトと、最大倍率5倍の赤外線スコープを組み合わせたもので、約400mの視認距離があった。 戦闘室前面の機関銃架は、これらの暗視装置と7.92mm機関銃MG42を同じ架台に装備した新型銃架(赤外線暗視射撃装置1221型)に変更され、また操縦手の視察ヴァイザーの前には、同様にライト&スコープで構成された赤外線暗視操縦装置1252型が装備された。 これらの装置は、車内に装備された12Vのバッテリーによって4時間作動することができた。 また戦闘室側面外側に、ウーフーと同様に足場が組まれた車両もあった。 車内の様子は明らかに通常のSd.Kfz.251/1とは違っており、少なくとも前方部にはベンチシートが無く、フロントシートの後部左側に1名掛け用の横向きシートが1つあったが、その他の詳細については不明である。 いずれにしても、これらの暗視装置が実用化したのは1944年になってからのことで、必然的にこれを搭載したファルケはD型ベースということになる。 |
|||||
<Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車A/B/C型> 全長: 5.80m 全幅: 2.10m 全高: 1.75m 全備重量: 7.81t 乗員: 2名 兵員: 10名 エンジン: マイバッハHL42TUKRM 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 100hp/2,800rpm 最大速度: 53km/h 航続距離: 300km 武装: 7.92mm機関銃MG34×2 (2,010発) 装甲厚: 6~14.5mm |
|||||
<Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車D型> 全長: 5.98m 全幅: 2.10m 全高: 1.75m 全備重量: 8.0t 乗員: 2名 兵員: 10名 エンジン: マイバッハHL42TUKRM 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 100hp/2,800rpm 最大速度: 53km/h 航続距離: 300km 武装: 7.92mm機関銃MG42×2 (2,010発) 装甲厚: 6~14.5mm |
|||||
<参考文献> ・「パンツァー2001年11月号 AFV比較論 Sdkfz.251/M3ハーフトラック」 斎木伸生 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年8月号 第二次大戦ハーフトラックの系譜」 篠正人 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2001年9月号 列強のハーフトラック」 伊吹竜太郎 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ドイツ軍ハーフトラック」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2012年6月号 ドイツ装甲兵員輸送車写真集(1)」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2012年7月号 ドイツ装甲兵員輸送車写真集(2)」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2007年9月号 ドイツ装甲兵員輸送車(1)」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「世界の軍用車輌(3) 装軌/半装軌式戦闘車輌:1918~2000」 デルタ出版 ・「SdKfz251」 山本敬一 著 デルタ出版 ・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー ・「最新&最強 世界の兵器」 おちあい熊一/野木恵一 共著 学研 ・「図解・ドイツ装甲師団」 高貫布士 著 並木書房 |
|||||
関連商品 |