+概要
1943年1月、レニングラード(現サンクトペテルブルク)郊外で損傷したドイツ軍の新型重戦車ティーガーIが鹵獲され、その性能にソ連軍は強烈な衝撃を受けた。
ティーガーI重戦車の厚い前面装甲は、T-34中戦車やKV-1重戦車の主砲である76.2mm戦車砲では貫徹することができなかったのである。
このティーガーI重戦車に対抗するため1943年4月、T-34中戦車の車体を流用して開発されたSU-122突撃砲(22.7口径122mm榴弾砲M-30S装備)を元に、55口径85mm高射砲52K(M1939)から改修された51.6口径85mm対戦車砲D-5Sを搭載する駆逐戦車の開発が開始された。
本車の開発は、SU-122突撃砲と同じくスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)のウラル重機械工場(UZTM)が担当し、トロヤーノフ、マコーニンらの技師が設計作業に携わった。
1943年夏までにドイツ軍の新型重戦車が大量に出現することが予測されていたため、本車は早急な実用化が要求された。
そのためSU-122突撃砲とほぼ同様の構造を受け継いだが、SU-122突撃砲の砲架は直接照準機を装着できないため、TSh-15直接照準機を装着できる新型の球状形態の砲架が開発され、それに伴い戦闘室も再設計されて、戦闘室内に48発の85mm砲弾が搭載可能となった。
また、SU-122突撃砲では戦闘室上面に1カ所だけしかなかった乗降用ハッチをもう1つ増設し、SU-122突撃砲で廃止されていたT-34中戦車と同型の操縦手用ハッチも復活させた。
本車は「SU-85中自走砲」として制式化されたが、肝心の主砲が生産遅延した上にKV-85重戦車に優先的に回されたため、1943年7月のクールスク戦には間に合わず8月になってようやく生産が開始された。
SU-85駆逐戦車の生産は1944年9月まで続けられ、1943年中に750両、1944年に1,300両がそれぞれ完成している。
なお途中から、改良が加えられた後期型のSU-85M駆逐戦車が生産されている。
変更点としては、戦闘室上面の各装備品が変化している。
特に、右側に車長用キューポラが装備されたことが大きい。
これは外部視察能力を高めるために、必須の装備として要求されていたものであった。
このため戦闘室の右側面にはキューポラ基部を包むため、丸く膨らみが設けられていた。
また左側のハッチも角型に変わり、前面装甲板に無用な張り出しを作る必要が無くなっている。
細かい所だが主砲の球形防盾も、左側の直接照準口部分が左に張り出すように変化している。
SU-85駆逐戦車は、編制の異なる2種類の部隊に配備された。
独立自走砲大隊は12両のSU-85駆逐戦車を装備し、軍もしくは方面軍司令官の直轄とされ特別任務に使用された。
一方これよりも規模の大きい、SU-122突撃砲装備の中自走砲連隊と同様の連隊も編制された。
この中自走砲連隊は4個中隊から成り、合計16両のSU-85駆逐戦車と1両のT-34指揮戦車を装備していた。
SU-85駆逐戦車装備の中自走砲連隊は、当初は機械化軍団に配備されて対戦車火力支援に使われた。
1944年に幾つかのSU-85駆逐戦車装備の中自走砲連隊は、特別対戦車砲兵旅団にも配属された。
SU-85駆逐戦車の存在理由は、機械化部隊と歩兵部隊の対戦車火力支援であった。
SU-85駆逐戦車は敵歩兵との接近戦で使用されることを意図しておらず、敵歩兵の肉薄攻撃から自らを守るための機関銃を装備していなかった。
その強力な火力を使って、ドイツ軍の装甲車両や防衛陣地への遠距離射撃を意図していたのである。
SU-85駆逐戦車の初陣は、1943年晩夏のウクライナのドニェプル川においての作戦であった。
この時の戦闘で、SU-85部隊の中の1両がドイツ軍の新型中戦車パンターを撃破したことで、ソ連軍内に広く知られるようになった。
第1バルト海方面軍傘下の第1021中自走砲連隊は、1944年の夏季攻勢で100両近いドイツ軍装甲車両を撃破する戦果を挙げ、多くの歩兵部隊を支援した。
1944年に入ると、SU-85駆逐戦車と同じ85mm戦車砲(当初はD-5T、後にはS-53もしくはZIS-S-53)を搭載するT-34-85中戦車が大量に投入されるようになり、性能的にはSU-85駆逐戦車の存在意義が失われていくようになった。
その結果、より強力な56口径100mm対戦車砲D-10Sを搭載するSU-100駆逐戦車が開発されることになるが、それでもSU-85駆逐戦車は独ソ戦終結まで前線での支援任務に使用され、戦後もポーランド軍など東欧諸国軍に供与され1960年頃までは使用されていた。
またごく小数とは見られるが、ドイツ軍側もSU-85駆逐戦車を鹵獲または再生し、戦車駆逐隊を編制して戦線に投入している。
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