+概要
第2次世界大戦において、ドイツ軍が鹵獲兵器を有効に活用したことは良く知られているが、ソ連軍もドイツ軍に負けないくらい、鹵獲したドイツ軍戦車などを組織的に活用していた。
ソ連側がまとまった数の鹵獲ドイツ軍戦車の使用を開始したのは、1942年春頃からだった。
これは、1941年末のモスクワ攻防戦でのドイツ側の大敗北で大量の遺棄戦車が入手できたからで、当時ウラル地方に疎開した軍需工場の操業開始が遅れている下で、戦車不足をきたしたソ連軍に貴重な贈り物となり、野戦デポや整備工場で再生作業が行われ、IV号戦車やIII号突撃砲、38(t)戦車などがまとまって部隊に配備された。
その後、スターリングラード攻防戦におけるドイツ第6軍部隊の包囲・殲滅が成功すると、再びソ連軍の手にIII号戦車その他のドイツ軍戦車が大量に渡ることになった。
しかし、5cm戦車砲搭載のIII号戦車はこの時点ではすでに非力な存在となりつつあり、ソ連軍はIII号戦車を元に、より強力な火砲を搭載して自走砲にした方が有効であると結論を出した。
こうして約200両のIII号戦車およびIII号突撃砲(損傷戦車も含む)が、車体上部に完全密閉式の固定戦闘室を設けて、T-34中戦車に用いられた41.5口径76.2mm戦車砲F-34をベースとする76.2mm戦車砲S-1を搭載した自走砲SU-76iに改修されることになった。
ちなみに呼称の”SU-76i”は、”SU”が自走砲、”76”が搭載砲の口径、”i”は「外国の」を意味する”inostrannaya”の頭文字である。
SU-76i駆逐戦車への改修作業を手掛けたのは、SU-76対戦車自走砲シリーズの開発と生産も行ったキーロフの第38工場である。
SU-76i駆逐戦車への改修要領は、それほど複雑なものではなかった。
III号戦車/III号突撃砲の下部車体は全く手を入れること無くそのまま使用され、上部車体もそれほど大きな改造はされていない。
車体後部に、ソ連軍戦車おなじみの円筒形の増加燃料タンクを取り付けるようにしただけである。
新しい戦闘室は砲塔と戦闘室上面の装甲板を取り払った跡に設けられたが、戦闘室周囲の下部分の装甲板は、元のIII号戦車/III号突撃砲の戦闘室のものがそのまま用いられた。
唯一、前部の砲の取り付け部分が切り欠かれているが、これもIII号戦車は加工の必要があったかも知れないが、III号突撃砲ではそのままかも知れない。
新設された戦闘室周囲の上部分の装甲板は、避弾経始を考慮して4面とも傾斜が付けられていた。
戦闘室上面の前左側には観音開き式のハッチが設けられており、その後ろにもう1つ上面後左側と後面に分かれて開くハッチが設けられていた。
また、戦闘室の左右側面と後面ハッチにはスライド式のガンポートが設けられており、戦闘室前面にも栓式のガンポートが設けられていた。
また、戦闘室の左右側面と前面には視察用スリットも設けられていた。
その他、戦闘室上面の前右側には車長用キューポラが、上面右側中央には無線アンテナの基部があった。
主砲の76.2mm戦車砲S-1は、戦闘室前方に限定旋回式に取り付けられていた。
主砲取り付け部のハウジングはSU-85駆逐戦車に似たデザインだったが、砲の駐退復座機カバーはT-34中戦車のものと良く似ていた。
SU-76i駆逐戦車への改修作業は1943年の前半に行われ、最初に本車が戦線に投入されたのは1943年秋のウクライナ戦線でのことである。
自走砲連隊に編制されたSU-76i駆逐戦車は歩兵師団の攻撃支援に当たり、その後も消耗しながらも終戦まで戦い抜いた模様である。
それはウクライナのある地方都市の公園に、「解放に功績のあった自走砲」としてモニュメントにされていることでも分かる。
また面白いことに1944年の初め頃、少なくとも1両のSU-76i駆逐戦車がドイツ軍側に再鹵獲され、白色迷彩の上に鉄十字のマークを大きく描き入れて使用されたことが写真で確認できる。
なおSU-76i駆逐戦車のファミリー車両として、22.7口径122mm榴弾砲M-30Sを搭載したSU-122i突撃砲も存在するといわれるが、写真等では確認できない。
また、III号戦車およびIII号突撃砲改修のSU-76i駆逐戦車の製作数合計は1,200両であるとする説があるが、これはドイツ側の投入状況や損失状況から見て考えられない数字である。
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