+概要
SU-100P(オブイェークト105)は、装備の共用化による整備・兵站支援面の合理化を狙い、1948年に開発された共通装軌式装甲車台「イズジェリェ100」を用いて、1949年に試作開発された軽便な対戦車自走砲である。
本車の開発を担当したのは、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)のウラル運輸車両工場設計局(主任技師:L.I.ゴルリツキー)である。
SU-100Pは車体後部にオープントップ式の戦闘区画を設けて、T-54中戦車の主砲である56口径100mm戦車砲D-10Tの野砲タイプである100mm加農砲D-50を限定旋回式に搭載していた。
この砲は重量15.8kgの徹甲弾を砲口初速870m/秒で発射することができ、また榴弾を用いた場合の最大射程は14,800〜15,800mであった。
1952年には砲口初速を900m/秒、最大射程を18,000mに向上させた100mm加農砲D-50Mを搭載し、夜間照準機APN-3を装備した改良型のSU-100PMも試作された。
主砲の前面と左右側面は防盾で保護されており、そのスタイルは第2次大戦中にドイツ軍が開発した38(t)戦車ベースのマルダーIII対戦車自走砲に似ていた。
エンジンも、T-54中戦車に搭載されているV-54ディーゼル・エンジン(出力520hp)と同系列のV-54-105 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力400hp)を採用しており、最大装甲厚を15mm程度に抑えて戦闘重量21.6tと軽量であったことから、路上最大速度65km/hという高い機動性能を発揮できた。
SU-100Pは1950年に国家試験が実施され、1952年には部隊での試験運用のために数両が追加製作されたが、結局量産は見送られている。
SU-100Pに用いられたイズジェリェ100車台はSU-152G、SU-152Pなどの各種試作自走砲やBTR-112試作装甲兵員輸送車、そしてソ連軍に制式採用された2K11「クルーグ」対空ミサイル・システムや、2S3「アカーツィヤ」152mm自走榴弾砲のベース車台としても用いられており、この共通車台の実用化はソ連軍兵器の製造面や兵站面でのコスト低減に一定の役割を果たした。
これは当時他国には見られないユニークな試みであったが、当時のソ連軍首脳部は核兵器開発の方により大きな関心を払うようになっており、野戦砲兵や対戦車砲の機械化にはあまり熱意を示さなかった。
このため1950年代中頃に、イズジェリェ100車台を用いた一連の自走砲開発プランは凍結されてしまい、SU-100Pも立ち消えとなったのである。
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