シール・イラン戦車 |
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シール・イラン1戦車 シール・イラン2戦車 |
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+開発
パフラヴィー朝イラン王国の第2代国王であったモハンマド・レザー・パフラヴィーは、1963年から同国の近代化、西欧化を提唱して白色革命を推し進め、豊富なオイルマネーを背景に軍の近代化にも積極的に取り組んだ。 そして1970年代初めにイギリスからチーフテンMk.3およびMk.5戦車を合わせて707両購入し、さらにイランはイギリスに対してチーフテン戦車のさらなる能力向上を図った改良型の開発を求めた。 イギリスにしてみればこの要求は非常に有難いことであり、早速「FV4030」(Fighting Vehicle 4030:4030戦闘車両)の開発番号で、チーフテン戦車の生産を行っていた王立造兵廠の手でイラン向けの新型MBT(主力戦車)の開発が開始されたが、後に開発番号が「FV4030/1」に改められたこの車両はチーフテンMk.5戦車を母体として、イラン側が要求した改良を盛り込んだものであった。 完成したFV4030/1は187両が生産発注されたが、イランはまだチーフテンMk.3/Mk.5やFV4030/1の引き渡しが開始される前の1974年初めに、チーフテン戦車により大規模な改良を図った新型MBT「シール・イラン」(Shir Iran:イランの獅子)の開発をイギリスに求めてきた。 しかも豊富なオイルマネーに任せて、1,200両という大量購入の意志があることを伝えてきたのである。 この際にイラン側から求められたシール戦車の仕様は明らかにされていないが、少なくとも大出力エンジンへの換装と全自動変速・操向機の導入、227リットルの燃料増加、対地雷能力とサスペンションの強化が求められたことだけは判明している。 そして、1974年中にはシール戦車の基本仕様が決定した。 その内容は、チーフテンMk.5戦車を母体として機動力の向上を図り、エンジンをレイランド自動車製のL60 Mk.13Aエンジン(出力750hp)から、出力を1,200hpに増大したダービーのロールズ・ロイス社製のCV12エンジンに変更し、これに併せて機関室後方部分を傾斜装甲板に改めるというものであった。 チーフテン戦車は主砲として120mm戦車砲を装備し、最大装甲厚250mmという火力と防御力に優れたMBTであったが、その反面機動力が劣るのが欠点だったため、この改良は妥当な内容といえよう。 なおCV12エンジンは、チーフテン戦車シリーズに採用されたレイランド社製のL60 垂直対向6気筒多燃料液冷ディーゼル・エンジンに代わるイギリス陸軍MBT用の新型エンジンとして、ロールズ・ロイス社が当時開発を進めていたV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンで、当初は1,500hpの出力を発揮することを目指していたが、実際には1,200hpを発揮するのが精一杯だったため、ひとまず1,200hp級のエンジンとして完成させる方針に切り替えられた。 そして後に、チーフテン戦車の後継MBTとして開発されたチャレンジャー戦車のエンジンとして採用される運びとなり、さらに発展型のチャレンジャー2戦車でも引き続き使用が続けられるという息の長いエンジンとなった。 なお、CV12エンジンの生産を行っていたシュルーズベリーのロールズ・ロイス・ディーゼル社が、1984年にピーターボロのパーキンス発動機に吸収合併されたため、現在はパーキンス発動機がCV12エンジンの生産とアフターサービスを手掛けている。 1974年12月にイランは「シール・イラン1」の呼称で125両の新型MBTを単体価格318,000ポンドで生産発注し、イギリス側はシール1戦車に「FV4030/2」の開発番号を与えて王立造兵廠で開発作業が進められた。 1977年1月にはシール1戦車の試作車3両(車両登録番号05SP48〜05SP50)が完成して、サリー州チョーバムに置かれたMVEE(軍用車両工学技術施設)の手で試験が開始された。 シール1戦車の試作車を用いた試験は1979年1月まで続けられ、その後は試験において判明した各種不具合の改良作業が進められた。 なお、シール・イラン戦車の開発は2段階に分けて行うことになっており、第1段階のシール1戦車はチーフテンMk.5戦車をベースに、ロールズ・ロイス社製のCV12エンジンと、DBE社(David Brown Engineering:デイヴィッド・ブラウン工業)製のTN37全自動変速機を導入して大幅な機動力の改善を図ることになっていた。 そして第2段階のシール2戦車は、MVEEが西側で初めて実用化に成功した「チョーバム・アーマー」と呼ばれる複合装甲を導入して装甲防御力を大幅に強化し、FCS(射撃統制システム)もさらに高度なものが搭載されることになっていた。 シール2戦車は「FV4030/3」の開発番号が与えられて王立造兵廠で開発が進められ、1979年中に7両(車両登録番号05SP51〜05SP57)の試作車が製作された。 そして期日は不明だが、最終的にイランはシール1戦車を250両、加えてシール2戦車を1,225両生産発注して、引き渡しもされないうちにパフラヴィー国王はシール1戦車の代金として4,400万ポンド、シール2戦車の代金として2億2,300万ポンドを前払いした。 イギリスにとっては実に有り難いことだが、このパフラヴィー国王の独裁政治に対してイラン国民は以前から不満を抱いていた。 そして1978年9月にはついに革命の狼煙が上がり、翌79年1月にパフラヴィー国王はアメリカに亡命し、4月1日にイラン王国は「イラン・イスラム共和国」と国名を変え、その前月の3月にはイギリス政府に対してシール・イラン戦車購入のキャンセルを通告した。 しかしすでに前払いでその代金は手中に収めていたので、イギリスは何も困ることは無かった。 もっとも、このシール・イラン戦車の代金支払いに関しては後日談がある。 イギリスに支払った購入代金を返してもらおうと、イランが世界裁判所に提訴したのである。 これは当然のことなので世界裁判所はイギリス政府に対して、時間の経過に伴う上昇分を上乗せして2010年4月に6億5,000万ドルをイランに返却するよう命じた。 しかし、この通達からわずかに遅れてイランの核爆弾開発疑惑が浮上したことを受け、イギリス政府は制裁措置としてイランへの代金返却を凍結し、未だに支払われていないようである。 イランへの輸出がキャンセルされたシール・イラン戦車のその後についてであるが、前述のように代金については前払いされていたためイギリス側の損失は無かったが、シール1戦車とシール2戦車合わせて1,500両近くの戦車生産の仕事が失われたことは、王立造兵廠のリーズ工場とノッティンガム工場の合計2,009名の従業員と、その他関連企業の約8,000名の従業員の雇用にとって深刻な問題であった。 そこでイギリス政府は、シール・イラン戦車の海外への売り込みを図った。 そしてシール1戦車については、「ハリド」(Khalid:剣)の呼称でヨルダンが購入することになり、しかもイラン向けに当初発注されていた125両に加えて、149両が追加発注されるというおまけまで付いた。 ハリド戦車の購入契約は1979年11月に結ばれたが、この際にヨルダン側は274両のハリド戦車を総額2億6,600万ポンドで購入している。 ハリド戦車のヨルダンへの引き渡しは1981年から開始され、後に「アル=フセイン」(Al-Hussein:現ヨルダン国王の名前に因む)の呼称でイギリスから購入した中古のチャレンジャー戦車402両と共に、現在も同国陸軍の主力MBTとして運用が続けられている。 一方シール2戦車(FV4030/3)については、イギリス国防省は1979年9月5日付でGSR3574を交付して、FV4030/3をイギリス陸軍の次期MBTとして採用することを決定した。 国防省は1977年から、チーフテン戦車の後継となるイギリス陸軍向けの新型MBTを「MBT-80」(80年代型主力戦車)の呼称で王立造兵廠に開発を進めさせていたが、MBT-80はチーフテン戦車をベースにエンジンをシール・イラン戦車と同じCV12エンジンに換装し、シール2戦車と同じく砲塔と車体にチョーバム・アーマーを導入して装甲防御力の向上を図ることになっており、細部は異なるもののシール2戦車と仕様がよく似ていた。 しかし、MBT-80の開発費は本格的な開発に着手した1978年の時点で1億2,700万ポンドを超えると試算されており、この高額な開発費が問題視されていた。 そこに突如としてシール・イラン戦車の発注キャンセルという事態が起こったため、国防省は高価なMBT-80の代わりにシール2戦車(FV4030/3)をイギリス陸軍の次期MBTとして採用することを決断したのである。 FV4030/3はMBT-80に比べるとやや性能的には劣っていたが、すでに購入代金を前払いでイランから入手していたため、完成までに高額な開発費を必要とするMBT-80の開発をこのまま続けるよりも、FV4030/3をベースに多少手直しをした方がコスト面では圧倒的に得であり、また王立造兵廠やその他関連企業の雇用も確保できて一石二鳥であった。 先のGSR3574に続いて1980年7月半ば、国防省はFV4030/3に一部変更を加えたものをFV4030/4「チャレンジャー」(Challenger:挑戦者)としてイギリス陸軍の次期MBTとして制式採用し、243両を調達すると表明した。 そして1980年10月に試作車4両を発注し、その期日は明らかではないがさらに3両が追加された。 この7両の試作車には06SP36、06SP38〜06SP43の車両登録番号が与えられ、1982年に全車が完成してMVEEとボーヴィントンのATDU(機甲試験・開発ユニット)により試験に供された。 またシール2戦車に導入され、当初は様々な問題が報告されたTN37自動変速・操向機だが、その後改良が進められ、試作車の製作を担当した王立造兵廠は1981年末に、試作車による走行距離は合わせて170,000kmを記録したと公表している。 また1981年末には試作車1両を用いて戦場を想定した試験場において、36時間の継続試験が「チャレンジャー・トロフィー演習」の呼称で実施されている。 さらに1983年と85年には、サウジアラビアとエジプトにチャレンジャー戦車の試作車を持ち込んで公開試験が実施されたが、結局この売り込みは実ること無く終わっている。 このような紆余曲折を経ながらも、チャレンジャー戦車は1983年2月1日に最初の先行生産型が王立造兵廠のリーズ工場からロールアウトしたが、最初に完成した4両が先行生産型として分類されている。 その後、最初の生産型であるチャレンジャーMk.1が1983年〜85年1月にかけて109両、2番目の生産型であるチャレンジャーMk.2が1985年1月〜86年11月にかけて155両、最後の生産型であるチャレンジャーMk.3が1986年12月〜1990年1月にかけて156両完成しており、生産型チャレンジャー戦車の総生産数は420両となる。 なお、チャレンジャー戦車の生産を行っていた王立造兵廠は1986年7月にヴィッカーズ社によって買収され、ヴィッカーズ・ディフェンス・システムズ(VDS)社に改組されたため、以降の生産はVDS社が担当している。 イギリス陸軍はチャレンジャー戦車を旧式化したチーフテン戦車と並行して運用していたが、1986年に誕生したVDS社はイギリス国防省の装備局長であったサー・リチャード・ヴィンセント将軍の提言に従って、チーフテン戦車の後継となるイギリス陸軍向けの新型MBT「チャレンジャー2」の開発を自社資金で開始し、国防省は1988年12月にチャレンジャー2戦車をイギリス陸軍の次期MBTとして採用することを承認した。 そしてチャレンジャー2戦車の部隊配備が1994年から開始されたため、国防省は東西冷戦の終結や政府の財政難などの理由で、チャレンジャー戦車をイギリス陸軍から順次退役させることを1998年7月25日付で通達した。 しかし、400両以上生産されたチャレンジャー戦車はスクラップにするにも巨額な支出を必要とするため、イギリス政府は1999年3月からハリド戦車の購入実績のあるヨルダンに対して、余剰となったチャレンジャー戦車の猛烈な売り込みを開始した。 これは信じられないような底値で売却が提言され、一説によると288両のチャレンジャー戦車を単価1ポンドを上限にしたといわれる。 そしてヨルダンはこの要求を飲み、「アル=フセイン」の呼称を与えてさらに2002年10月に114両のチャレンジャー戦車を追加発注したが、この追加分は何と無料にされたという。 こうしてヨルダンは、タダ同然の安値で合計402両もの戦後第3世代MBTを入手したのである。 |
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+構造
イランに引き渡されるはずだったシール・イラン1戦車は、基本的には母体となったチーフテンMk.5戦車と同様であったが、エンジンの換装に伴い機関室の後面装甲板が大きく後方に傾斜し、機関室上面に開口された吸/排気グリルのレイアウトも改められたのが外見での変化である。 また確認するのは難しいが、第6転輪にもショック・アブソーバーが追加されていた。 エンジンは、ロールズ・ロイス社製の「コンドー」(Condor:コンドル)CV12-1200TCA V型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力1,200hp/2,300rpm)が機関室内に収められ、これにDBE社の手になるTN37 Mk.1全自動変速機(前進4段/後進3段)が組み合わされ、これを中核としてラジエイターと冷却ファン、各種補器類と組み合わされたパワーパックにまとめることで交換の便を図っていた。 主砲はチーフテン戦車と同じく王立造兵廠製の55口径120mm戦車砲L11A5が採用されたが、FCSとして砲安定装置が組み込まれたFVGCE No.10 Mk.2を導入して、射撃精度の向上が図られていた。 一方シール・イラン2戦車は、機関系や主砲はシール1戦車と同じだったが車体と砲塔の形状が一新され、車体前面上部と車体側面前部、そして砲塔の前面と側面に前述のチョーバム・アーマーと呼ばれる複合装甲が導入されて装甲防御力の大幅な強化が図られた。 チョーバム・アーマーは圧延防弾鋼板の空間装甲の内部に、金属製のマトリックスに格納されたハニカム構造のセラミック板を多数敷き詰めた構造になっているといわれており、HEAT(対戦車榴弾)や対戦車ミサイルの成形炸薬弾頭が発生させる超高圧・高熱のジェット噴流に対して非常に高い防御力を発揮する。 またセラミック自体が極めて固い物質であるため、徹甲弾などの運動エネルギー弾に対しても通常の装甲板より高い防御力を発揮する。 チョーバム・アーマーは西側が初めて実用化に成功した複合装甲であり、本来ならばシール2戦車がチョーバム・アーマーを導入した最初の生産型戦車となるはずであったが、前述のようにイランが本車の発注をキャンセルしたために、アメリカのM1エイブラムズ戦車がチョーバム・アーマー導入戦車の第1号となり、少し遅れてチャレンジャー戦車が第2号となった。 シール2戦車はFCSについても、シール1戦車のものより高度なものが搭載されていた。 シール2戦車のFCSは、マルコーニ社が開発したIFCS(Improved Fire Control System:改良型射撃統制システム)に変更され、さらにフランスのタレス・オプトロニクス社製のレーザー測遠機が標準装備されたことで射撃精度がさらに向上している。 またシール2戦車は、チーフテン戦車やシール1戦車に採用されたホルストマン式サスペンションに代えて、後のチャレンジャー戦車と同じく新開発の油気圧式サスペンションを導入する予定で、7両の試作車のうち第2号車と第5〜第7号車に装着されていた。 これはホルストマン・ディフェンス・システムズ(HDS)社とMVEEが共同開発したもので、油圧でサスペンションを上下に伸縮させることができ、車体高を自由に変更することが可能であった。 ただし日本の74式戦車や90式戦車のように、車体を任意の角度に傾ける機能は備えていなかった。 またシール2戦車の転輪は2種類が用意され、チーフテン戦車のものと酷似するが新規に製作されたものと、「軽量型」と呼ばれリムに補強用のリブを備えるものが存在したことが確認できる。 ちなみに、後にチャレンジャー戦車に採用された転輪は前者のタイプであった。 前述のようにシール2戦車はチャレンジャー戦車の原型となった車両であるため、両車の外見は非常によく似ていたが、シール2戦車は車長用キューポラに箱型のNo.84昼/夜間照準機が装着されていたので、これの有無が外見から両車を判別するポイントの1つとなっている。 それ以外の両車の識別点は、シール2戦車で砲塔の前面左右端に溶接されていた吊り下げ用のアイプレートが、チャレンジャー戦車では主砲の隣に位置を変え、その外側に設けられていた発煙弾発射機が中央に移動。 またシール2戦車では、砲塔の後面と側面後部に支柱と金網を用いた雑具ラックが設けられていたが、チャレンジャー戦車では後面のラックは金属板に、側面は細い金属棒を格子状に組み合わせたものにそれぞれ換わり、左右部分は砲塔後面の位置まで短縮され、右側は加えて前方部分も縮められ、TOGS(熱映像視察・砲手照準機)に冷却空気を送るための冷却パックを収容する箱が新設された。 |
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<シール・イラン1戦車> 全長: 車体長: 7.52m 全幅: 3.50m 全高: 2.90m 全備重量: 55.0t 乗員: 4名 エンジン: ロールズ・ロイス コンドーCV12-1200TCA 4ストロークV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル 最大出力: 1,200hp/2,300rpm 最大速度: 48km/h 航続距離: 500km 武装: 55口径120mmライフル砲L11A5×1 (64発) 7.62mm機関銃L8A2×1 (6,000発) 7.62mm機関銃L37A2×1 装甲厚: |
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<参考文献> ・「パンツァー1999年7月号 イギリスが戦車王国の面目をかけて開発したチャレンジャー1戦車」 野木恵一 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2010年11月号 何度も復活した強運のMBT チャレンジャー1」 竹内修 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2014年10月号 チャレンジャー1 & 2戦車の現状と変化」 柘植優介 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2007年3月号 シール・イランからチャレンジャーへ」 三鷹聡 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2017年10月号 イギリスMBTの系譜」 竹内修 著 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート11 第二次大戦後のイギリスMBT」 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート40 イギリス戦車100年史」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2016年7月号 チャレンジャー主力戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2014年10月号 チーフテン主力戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」 デルタ出版 |