センティネル巡航戦車
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+開発
オーストラリアは、ニュージーランドと共にオセアニアの主要なイギリス連邦自治領である。
1901年にイギリスから事実上独立しているがイギリス本国への忠誠心から、2度の世界大戦の際にはイギリスを支援するため義勇兵部隊を派遣している。
しかしオーストラリア自体は海洋によりほとんど孤立しているため、自国を守る軍隊は軽微な兵力しか保有していなかった。
工業基盤も未熟であったため、第2次世界大戦前までは戦車や戦闘機などの装備は完全に本国イギリスに頼り切っていた。
しかし、1940年5月に開始されたドイツ軍の西方電撃戦で英仏連合軍が敗れ、イギリス本国侵攻の危機が訪れると、とてもイギリスから兵器の供給を期待することはできなくなった。
そして同時に太平洋でも日本の侵略の脅威が高まる中、オーストラリア国内軍備の充実は不可避となった。
このため1940年7月、オーストラリア自治領政府は国産戦車開発の必要性を真剣に考えるようになった。
同年11月、オーストラリア陸軍当局は初の国産戦車に関する要求仕様をまとめた。
それによれば重量は16〜20t、武装にはイギリス製の2ポンド(40mm)戦車砲と1〜2挺の機関銃を装備し、最大装甲厚50mm、路上最大速度30マイル(48.28km)/h、路上航続距離150マイル(241km)、乗員4〜5名となっていた。
この戦車は2,000両が必要とされ、1941年7月までに月産70両のペースで生産を開始することが要求された。
これは当時のオーストラリアの工業技術水準を考えると、野心的というより冒険的な計画であった。
というのも当時オーストラリアは戦車はおろか、自動車すら国産したことが無かったのである。
それにも関わらず、自治領政府と陸軍はこの計画にゴーサインを出した。
情報収集のため技術責任者のA.チェンバレンがアメリカに送られると共に、イギリスに要請して戦車の専門家を派遣してもらった。
その人物こそ、機械化(工業化)委員会の委員、W.D.ワトソン陸軍大佐である。
ワトソンは途中アメリカに立ち寄りチェンバレンと会い、アメリカの戦車開発についても研究することができた。
ワトソンは1940年12月にオーストラリアに到着し、戦車設計局長に任命された。
そして早速戦車生産のための工業体制の整備と、工業水準的にも技術的にも制約があるこの地でも生産が可能な戦車の設計と開発のサポートを開始した。
彼はアメリカでM3中戦車の生産について詳細に学んできており、そんな理由から当初はM3中戦車のオーストラリア版の生産を推進する心積もりだった。
だが、チェンバレンとのミーティングや調整を通して同地の戦車生産技術の実情を把握した結果、工業力の技術的側面よりも規模的側面の制約から、オーストラリア版M3中戦車の生産は断念された。
それに代わって、「AC-I」(Australian Cruiser Tank Mark I:オーストラリアのI号巡航戦車)と命名された前述の要求仕様を極力、既存の技術で具体化する努力に着手したのである。
まず問題となったのが、戦車の生産に絶対不可欠な装甲板であった。
当時のオーストラリアには、戦車の車体底部や側面を構成するほどの巨大な一枚板の圧延装甲板を大量生産する設備が無く、切断や溶接といった装甲板関連の加工技術も未発達であった。
また、車体を構成するだけの大規模な鋳造装甲板を製造する設備もノウハウも無かった。
そこでワトソンはM3中戦車の量産開始にあたって、当時のアメリカ陸軍が戦車生産関連の各企業に対し、装甲板の加工技術上の経験を積み、さらに生産性の向上をも果たせると考えた選択肢として、内部機構的には同じM3中戦車ながら、圧延装甲板と鋳造装甲板の2本立て開発を行った例を参考に、両方の装甲板それぞれに得失勘定を行って、AC-I巡航戦車の生産にあたりオーストラリアが製造すべき装甲板を決定した。
強度的に見た場合、当時の冶金技術では同じ厚さの装甲板なら、一般的には圧延装甲板の方が鋳造装甲板よりも強かったが、反面大規模な鋼板圧延施設という設備関連のみならず、圧延工法に関わる技術的ノウハウは一朝一夕で整えられるものではなかった。
さらに鋳造装甲板に関しても、前述のごとく当時のオーストラリアには圧延の場合と同様に、戦車車体を生産するだけの大規模な製造設備もノウハウも無かった。
とはいうものの大規模な圧延装甲板の製造設備を整えるよりも、大規模な鋳造装甲板の製造設備を整える方がまだ簡単である。
また鋳造装甲板には、圧延装甲板のように切断や接合といった加工に手間を掛けなくても済むという、量産面から見た大きな利点に加えて、装甲板の肉厚によってはモノコック化が可能という、戦車の構造面に及ぼす長所もあった。
このような理由から、結局AC-I巡航戦車には全面的に鋳造装甲板が採用されたが、ワトソンが以上のような大綱を決定するにあたり、現場サイドでの技術上の指導的立場にあった人物がフランス人技師のR.ペリエである。
彼はワトソンがM3中戦車から得た鋳造車体の製造技術の概念を、オチキスH35〜H39軽戦車シリーズやルノーR35軽戦車、ソミュアS35中戦車といった、一連のフランス製の鋳造車体を有する戦車の製造を通して得た、いわゆる勘どころを用いて現場の立場でうまく補強したのだった。
例えばソミュアS35中戦車やM3中戦車のように、巨大な車体上部構造を一発鋳造で成型するという当時の最先端の鋳造法ではなく、技術的にも設備的にもそれより容易で初期のフランス製の鋳造戦車にも用いられた、分割鋳造部品を結合して車体を形成するという技法をAC-I巡航戦車に採り入れることを提案したのも、彼だったという。
また、当初AC-I巡航戦車への採用が予定されていたM3中戦車型の垂直渦巻スプリング・サスペンションではなく、オーストラリアの限られた技術力でも製造が容易な、オチキス軽戦車型の水平渦巻スプリング・サスペンションの採用を推進したのも彼であった。
次に問題となったのがエンジンである。
当初は、アメリカのGDE社(Guiberson Diesel Engine:ギバーソン・ディーゼル発動機)製の航空機用ディーゼル・エンジンを搭載することが予定されたが入手が困難だったのと、最大装甲厚が65mmに増厚され戦闘重量が25tに増加したため、より高出力のエンジンが選択されることになった。
最初はフォード自動車製のもの、後により出力の大きいキャディラック社製のモデル75 V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力117hp)を3基、三つ葉(Cloverleaf)型に連結したエンジンが搭載されることになった。
実は、この発想もまたワトソンのM3中戦車での経験に基づくもので、いうなればM3A4中戦車に搭載された、クライスラー社製の民間トラック用直列6気筒液冷ガソリン・エンジンを、5基組み合わせたA57マルチバンク・エンジンのオーストラリア版といったところである。
330hpの出力を発生させるこのモデル75クローバーリーフ・エンジンは、AC-I巡航戦車の試作車を路上最大速度40マイル(64.37km)/hで走行させた。
だが、この速度では動力伝達機構各部に掛かる負担が大き過ぎたため、生産型ではガヴァナーを調整して路上最大速度を30マイル/hに抑えることとなった。
このような具合に戦車の生産のみならず、そのための工業力整備なども含めてAC巡航戦車計画は着々と進行し、1941年の早い時期には原寸大の木製モックアップも完成した。
同年4月になると、AC-I巡航戦車に搭載が予定されたM3中戦車の変速・操向機の図面がアメリカから到着したが、複雑過ぎてとてもオーストラリアでは製造できなかった。
製造に必要な工作機械は、翌年にならなければアメリカないしイギリスから供給してもらえる見込みは無かった。
このため1941年5月により構造の簡略化・軽量化を図り、アメリカから供給してもらう商用トラック用のエンジンと変速・操向機を使用した戦車を開発する計画案が立てられた。
この戦車は「AC-II」と呼ばれ、同年6月に嫌々ながら陸軍当局に認められた。
しかし計算上、この戦車の重量限界は16〜18tであるにも関わらず、戦車の重量はどうしても22tに達してしまう。
後は装甲板の厚さを減少させるしかなく、2ポンド戦車砲以上の武装の搭載も永久に不可能になる。
AC-II巡航戦車は余りにも非実用的な戦車にしかならず、生産する意味は無さそうだった。
このため1941年9月にAC-II計画は放棄され、再びAC-I巡航戦車の完成に全力が注がれることになった。
問題であった変速・操向機については結局、シンクロメッシュ・ギアを廃止する設計変更をして簡略化を行い、オーストラリアでも生産できるものとする変更が行われた。
またサスペンションも、当初予定されたM3中戦車と同型式の垂直渦巻スプリングから水平渦巻スプリングに変更され、性能的にも優れていることが確認された。
1941年10月には鋳造装甲板製の車体の鋳造に成功し、AC-I巡航戦車の製造に対する大きな問題は無くなった。
1942年1月にはAC-I巡航戦車の全規模試作第1号車がロールアウトし、引き続き2両の増加試作車が相次いで完成した。
しかし、前年12月7日の真珠湾奇襲に端を発した日本の対米宣戦布告により、すでに太平洋でも戦いが始まっていた。
開戦以来向かうところ敵無しの日本軍は南方資源地帯確保を目的に南下を続け、オーストラリア本土にまで迫る勢いを見せる。
日本の参戦以前の段階で、オセアニアの2大イギリス連邦自治領であるオーストラリアとニュージーランドは、それぞれ義勇兵部隊をヨーロッパに派遣していた。
それらは主に地中海・アフリカ戦域での作戦に従事していたが、日本との戦いが始まったことからオセアニア防衛のため、特にオーストラリア軍地上部隊を太平洋戦域へと戻すこととなり、さらにオーストラリアでの新規兵力の徴募にも拍車が掛かった。
そのため装備確保の観点からも、国産戦車の早期量産はオーストラリアにとって一層の急務となった。
そこで試作車を使った各種試験の実施と並行して、ニュー・サウスウェールズ州のチュローナ工廠でAC-I巡航戦車の量産準備が進められた。
試作車の試験結果を受けて改良が盛り込まれた生産型第1号車は、1942年8月にロールアウトした。
オーストラリアの限られた工業技術水準で、これほど短期間に曲りなりにもこれだけの戦車が完成したのは、驚くべき偉業といえる。
生産型の量産開始に伴って、AC-I巡航戦車には「センティネル」(Sentinel:番兵、歩哨)の愛称が付与されたが、これは、当時のオーストラリアが太平洋戦域で日本軍の攻勢の矢面に立っていたことに由来した命名である。
しかしこのようにして懸命の設計、製作、量産作業が続けられたセンティネルAC-I巡航戦車の生産は、1943年7月にわずか66両が完成した時点で打ち切られることになる。
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+発展型
センティネルAC-I巡航戦車が生産中止となった最大の理由は、その主砲が威力の限られた2ポンド戦車砲に過ぎなかったからである。
センティネルAC-I巡航戦車の砲塔には、より強力な6ポンド(57mm)戦車砲を搭載することも可能だったが、当時6ポンド戦車砲はイギリス軍が北アフリカ戦線で緊急に必要としており、在庫が無かったのである。
このため、センティネル巡航戦車にもっと大きな攻撃力を与えるべく武装の強化が図られた。
武装の候補となったのは、オーストラリアでライセンス生産が行われていたイギリス製の25ポンド(87.6mm)榴弾砲で、センティネルAC-I巡航戦車の試作車を用いて搭載試験が行われた。
1942年6月29日にヴィクトリア州ウイリアムズタウンで行われた試験の結果は良好で、25ポンド榴弾砲搭載の新型巡航戦車AC-IIIの試作車が製作された。
センティネルAC-III巡航戦車ではより大型の主砲を装備するために砲塔が拡大され、砲塔リング径も従来の54インチ(1,372mm)から64インチ(1,626mm)に拡げられていた。
機関室も再設計され、空いたスペースに追加の燃料タンクが装備された。
これにより、路上航続距離がセンティネルAC-I巡航戦車の322kmから366kmに向上した。
また、車体寸法の割に主砲が大口径化したため車体機関銃と銃手を省き、その結果生じたスペースを主砲弾薬庫にするという、イギリス軍がアメリカ製のM4中戦車に自国製の17ポンド(76.2mm)戦車砲を搭載し、ファイアフライに改修した時と同様の改造手法が採られている。
その結果、乗員数はセンティネルAC-I巡航戦車の5名から4名に減少している。
センティネルAC-III巡航戦車の試作車による試験は1943年2月から開始され、同年4月にセンティネルAC-I巡航戦車に代わって本車の量産が発注され、5月から量産が開始されることになった。
センティネルAC-I巡航戦車のもう1つの改良型として製作されたのが、同じくオーストラリアでライセンス生産された17ポンド戦車砲を搭載したセンティネルAC-IV巡航戦車である。
17ポンド戦車砲は、第2次世界大戦中にイギリス連邦軍が使用した実用型戦車砲では最強のもので、APCBCMk.VIII(風帽付被帽徹甲弾:重量17kg)を用いた場合砲口初速884m/秒、射距離500ヤード(457m)で140mm、1,000ヤードで130mm、SVDS(高速徹甲弾:重量12.9kg)を用いた場合砲口初速1,204m/秒、射距離500ヤードで208mm、1,000ヤードで192mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
センティネルAC-IV巡航戦車の試作車の製作に先立って、17ポンド戦車砲の大きな反動が砲塔と車体に悪影響を与えないか試験が行われた。
この試験は、センティネルAC-III巡航戦車の砲塔に2門の25ポンド榴弾砲を装備して行われた。
その反動は17ポンド戦車砲による反動を20%ほど上回るものだったが、砲塔、車体とも特別な問題は生じなかった。
これを受けてセンティネルAC-IV巡航戦車の試作車が製作され、1943年終わりに完成し試験にも成功した。
試作車では砲塔リング径がさらに70インチ(1,778mm)に拡げられ、戦闘重量は31tに達していた。
1943年3月の時点ではオーストラリア陸軍はセンティネルAC-III、AC-IV巡航戦車を合わせて700両生産することを予定していた。
この生産は、アメリカ製車両の整備を行っていたニュー・サウスウェールズ州鉄道工廠が生産に参加することになっていた。
さらに、1943年終わりまでにはヴィクトリア州に別の工場も建設されることになっていた。
これらの計画についてはアメリカ軍の将官も、特にマッカーサー将軍などは高い評価を与えていた。
しかしアメリカとオーストラリアの政府当局者は、アメリカ本土から大量の戦車が供給されるようになったこの時期に、もはやオーストラリア製の戦車が必要とは思わなかった。
このため1943年7月、オーストラリア政府は正式にAC巡航戦車計画を中止した。
それまでにセンティネルAC-III巡航戦車は数両の生産型が完成したともいわれるが、センティネルAC-IV巡航戦車は試作車の製作だけに留まった。
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+構造
センティネル巡航戦車は、4つの大きな鋳造ブロックから組み立てられていた。
最大のものはメイン車体でそれにノウズパーツがボルト止めされ、機関室カバーと砲塔が取り付けられていた。
装甲厚は車体前面が45mm、砲塔前面が65mmとなっていた。
サスペンションは、フランスのオチキスH35〜H39軽戦車シリーズと同様の水平渦巻スプリング・サスペンションが採用されていた。
履帯は、M3中戦車と同じダブルピン式ゴムブッシュ付き履帯の他に、オーストラリアで生産された全金属製履帯も使用されていた。
操縦室はイギリス仕様で右側に操縦手席、左側に副操縦手席が配されており、両者の間には変速・操向機とボールマウント式に7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃が装備されていた。
なお、センティネルAC-IIIおよびAC-IV巡航戦車では車体機関銃は廃止されており、空きスペースは主砲弾薬庫に転用された。
センティネル巡航戦車の砲塔は押し潰したように偏平な形状で、主武装として2ポンド戦車砲(AC-IIIでは25ポンド榴弾砲、AC-IVでは17ポンド戦車砲)、副武装として7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃が同軸装備されていた。
なお対空武装として、7.7mmブレン空冷軽機関銃が砲塔上部に取り付けられるようになっていた。
エンジンは前述したとおり、アメリカのキャディラック社製の自動車用エンジンであるモデル75 V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力117hp)を3基、三つ葉型に組み合わせて装備するという変わった形式を採用していた。
もちろんこれはやむを得ず採られた便法に過ぎず、センティネルAC-III巡航戦車ではわずかながら改良型として、クランク・ケースが共通化されたペリエ・キャディラック・エンジン(出力397hp)が搭載されていた。
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+戦歴
前述したようにわずか66両が生産されただけのセンティネルAC-I巡航戦車は、そのほとんどがオーストラリア陸軍第1機甲師団に配備されたものの、結局訓練にしか使用されなかった。
何よりも火力不足がその理由であったが機構的には信頼性が高く、訓練用戦車としては充分な性能を持っていた。
このため第2次世界大戦終了後も一部の車両は、1956年まで予備装備として保持されていた。
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<センティネルAC-I巡航戦車>
全長: 6.325m
全幅: 2.769m
全高: 2.559m
全備重量: 28.489t
乗員: 5名
エンジン: キャディラック・モデル75 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン×3
最大出力: 330hp/3,050rpm
最大速度: 48.28km/h
航続距離: 322km
武装: 50口径2ポンド戦車砲×1 (130発)
7.7mmヴィッカーズ機関銃×2 (4,250発)
7.7mmブレン軽機関銃×1 (900発)
装甲厚: 25〜65mm
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<センティネルAC-III巡航戦車>
全長: 6.325m
全幅: 2.769m
全高: 2.559m
全備重量:
乗員: 4名
エンジン: ペリエ・キャディラック 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン×3
最大出力: 397hp
最大速度: 48.28km/h
航続距離: 366km
武装: 28口径25ポンド榴弾砲×1
7.7mmヴィッカーズ機関銃×1
7.7mmブレン軽機関銃×1
装甲厚: 25〜65mm
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<センティネルAC-IV巡航戦車>
車体長: 6.325m
全幅: 2.769m
全高: 2.559m
全備重量:
乗員: 4名
エンジン: ペリエ・キャディラック 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン×3
最大出力: 397hp
最大速度: 48.28km/h
航続距離: 366km
武装: 58.3口径17ポンド戦車砲×1
7.7mmヴィッカーズ機関銃×1
7.7mmブレン軽機関銃×1
装甲厚: 25〜65mm
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兵器諸元(センティネルAC-I巡航戦車)
兵器諸元(センティネルAC-III巡航戦車)
兵器諸元(センティネルAC-IV巡航戦車)
兵器諸元(センティネルAC-III巡航戦車 連装25ポンド榴弾砲搭載試験車両)
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<参考文献>
・「パンツァー2021年1月号 AFV(アホデ・ファニーナ・ヴィークル)(23)」 M.WOLVERINE 著 アルゴノート社
・「パンツァー2011年5月号 イギリス陸軍の主力野砲 25ポンド砲(下)」 稲田美秋 著 アルゴノート社
・「パンツァー2000年3月号 AC-Iセンチネル巡航戦車」 白石光 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2020年2月号 世界の無名戦車(西欧編)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「写真集 世界の無名戦車 西欧編」 齋木伸生 著 芬蘭堂
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「世界の無名戦車」 齋木伸生 著 三修社
・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著 学研
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
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