ソミュアS35中戦車
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+開発
フランスはイギリス同様、第1次世界大戦で最も早い時期に戦車を実戦投入した国であり、特に1918年から戦場に現れた全周旋回式砲塔を持つルノーFT軽戦車は、その後の世界の戦車の基本形を確立したともいえる先進的なものであった。
しかし第1次大戦後の戦車開発とその運用については、機甲部隊の大胆な機動戦術の研究をしたイギリスやドイツとは対照的に、歩兵攻撃を成功させる突破兵器として戦車を運用する保守的な傾向を採っていた。
つまり戦車はあくまで歩兵部隊の支援兵器であり、機動兵種としては装輪式装甲車に支援された騎兵部隊を充てるという見解である。
その後フランス陸軍が実施した数々の実験的演習を通じ、路外機動性能に関して戦車に劣る装輪式装甲車では騎兵部隊の支援兵器として問題との結論が導き出され、1930年代初め頃には戦車開発を歩兵支援用と騎兵支援用の2種類の系統で進める方針が確立された。
やがて、騎兵部隊用の偵察軽戦車「AMR」(Automitrailleuse de Reconnaissance:偵察用装甲車両)の要求仕様が提示され、これに基づいてルノーAMR33軽戦車等の偵察軽戦車が実用化されたが、より強力な騎兵部隊用戦車が必要であるとして、1934年6月に「AMC」(Automitrailleuse
de Combat:戦闘用装甲車両)の要求仕様が以下のようにまとめられた。
1.戦闘重量13t
2.武装は25mmもしくは47mm加農砲
3.装甲厚は40mm程度
4.乗員3名
5.路上最大速度は30km/h以上で、路上航続距離は200km
この仕様は直ちにル・クルーゾのシュナイダー社の子会社で、同社の事実上の車両製造部門であるサン・トゥアンのソミュア(SOMUA)社(Société
d'Outillage Mécanique et d'Usinage d'Artillerie:機械・砲兵車両製作所)の設計部門に発注された。
ソミュア社の製造工場では主に砲兵用牽引車や装甲車の製作を行っていたが、設計技師たちは1934年中にAMCの基本設計作業を完了し、翌35年4月には最初の試作車を完成させた。
「AC3型」と呼ばれたこの砲塔の無い試作戦車は、車体の全てに鋳造構造を採り入れていた。
1935年6月~8月初旬まで各種の機動試験が実施された後、APX社(Atelier de Construction de Puteaux:ピュトー工廠)製の47mm戦車砲搭載の1名用鋳造砲塔APX-1(ルノーB1重戦車の砲塔と共用)を載せることとなり、砲塔搭載後、引き続きレムズ陸軍演習場で実用試験が継続された上で改善点が指摘された。
1935年8月にヴァンサンヌ試験場で評価試験が実施され、この評価試験でAC3型は良好な成績を収めている。
武装、装甲、機動力のバランスが取れた優秀な戦車の登場にフランス陸軍騎兵部隊は大喜びし、早速これを採用し、「戦闘用装甲車両ソミュア1935年型」(AMC1935S)という制式名称が与えられた。
本車は今日、「ソミュアS35」という通称で呼ばれるのが一般的になっている。
ソミュアS35中戦車の量産は1936年より暫定的に開始されていたが、試験結果を受けて随時改修作業も並行して実施され、履帯のピッチや主砲の変更(当初は27.6口径47mm戦車砲SA34を搭載していたが、後により長砲身の32口径47mm戦車砲SA35に換装)など、各種改修作業は1936年~1938年初めまで掛かった。
ここでようやく、ソミュアS35中戦車の標準的な型式が確立したのである。
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+構造
ソミュアS35中戦車は1930年代末の戦車としては大変斬新、かつ性能のバランスが取れたものであった。
まず、車体も砲塔も全て鋳造製であるというのは他国では例の無いもので、装甲厚も車体前面で35mm、砲塔最厚部で56mmという数値は避弾経始を考慮した丸みのあるデザインにも与って、当時の対戦車兵器の主流であった口径37mmクラスの対戦車砲に対して有効な抗堪力を発揮できるものであった。
車体装甲は前部、中央部、後部の3個の大型部品に分割して鋳造され、各装甲板はそれぞれボルトによって接合されていた。
一方シャシーは箱状の一体構造で成型されており、車体内部にエンジンや操縦装置を搭載し、その外側には走行装置が取り付けられるようになっていた。
これらの部品を、それぞれシャシーに取り付けられたリムを用いてボルトで接合することによって、車体が構成されていた。
また、乗降用ハッチや各種アクセスハッチも鋳造品であった。
このように大幅に鋳造工法を採り入れたのは量産効果を考慮に入れたためで、リベット接合工法で装甲板を組み立てるよりもより早く車両を完成することができた。
生産型の砲塔は、計画時よりも大型化されたAPX社製の1名用鋳造砲塔APX-4が搭載され、同社製の47mm戦車砲SA35と、MAC社(Manufacture
d'armes de Châtellerault:シャテルロー造兵廠)製の7.5mm機関銃M1931が防盾に同軸装備されていたが、機関銃は同軸接続を解除して独立して操作することが可能であった。
また、砲塔の旋回には電動式旋回装置が採用されていた。
主砲の47mm戦車砲SA35は32口径長ながら比較的高初速で、射距離500mで58mm、射距離1,000mで43mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
足周りはボギーに転輪を2輪取り付け、このボギー2組をリーフ・スプリング(板ばね)で支えるという単純なものが用いられ、スプリングを守るために装甲カバーが装着されていた。
エンジンはソミュア社製の出力190hpのV型8気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載しており、路上最大速度45km/h(ドイツ軍の評価では40km/h弱)を発揮でき、操縦も容易であるなどまさに走・攻・防の全ての面でバランスが取れた戦車であったといえる。
難点は砲塔が1名用で、車長が周囲の視察から戦車の指揮、主砲や機関銃の装填・操作までこなさなければならず、実質的な戦闘能力を損なっているという、当時の多くのフランス戦車に共通した弱点を持っていたことである。
これはドイツ軍のIII号、IV号戦車等が砲塔乗員を3名とし、車長は周囲の視察と指揮に専念できたことと比べれば大きなマイナスポイントであった。
また車体側面装甲部に、乗降用の大きなハッチや機関部の点検用ハッチ等を無造作に設けて耐弾性を落としており、まだまだ戦車戦闘の実際を想定してのアプローチが開発段階で不足していたことを伺わせる。
さらに車体上下を貫通しているボルトが被弾などで剪断されると、車内に破片を撒き散らすのに加えて、車体自体が接合部から分解して行動不能になってしまう事故が続出した。
しかしこれらの弱点を差し引いても、ソミュアS35中戦車が第2次世界大戦開戦時のフランス軍最良の戦車であったことは間違いなく、当のフランス軍戦車兵たちもドイツ軍戦車に対する質的優位を疑っていなかった。
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+戦歴
フランス軍機甲部隊期待の新星であるソミュアS35中戦車は、ドイツ軍の西方電撃戦が開始された1940年5月10日の時点で416両が完成しており、その内の約半数が騎兵師団をベースに機甲化された第1、第2、第3軽機械化騎兵師団に装備され、北部フランスからベルギー方面の防衛作戦に従事した。
軽機械化騎兵師団はオチキスH39等の軽戦車80両と、ソミュアS35中戦車89両から成る2個戦車連隊で編制された、事実上の機甲旅団である1個機械化騎兵旅団と、60両のオチキスH35軽戦車またはルノーAMR33/35偵察軽戦車を持つ機械化騎兵(歩兵)連隊、それにパナールAMD35装甲車40両から成る長距離自動車化偵察連隊等で構成されており、火砲を搭載する戦車・装甲車両約270両を持つ他、完全に自動車化された対戦車砲連隊や野砲連隊等の支援部隊も充実しており、事実上の強力な機甲師団というべきものだった。
つまり、ドイツ軍の侵攻を迎え撃つ重要正面だった北部戦線地区には、これら3個軽機械化騎兵師団にソミュアS35中戦車が267両も配備されていたのであり、火力は劣るが機動力は良好で、防御力がドイツ軍戦車よりも勝っていると見られたオチキスH39軽戦車(これも240両が実働)と共に、ドイツ軍機甲部隊阻止に大きな力を発揮するものと期待されていたのである。
しかし、高度に機械化された強力な部隊であったのに指揮スタイルが旧態依然としており、ドイツ軍との戦闘に入ると戦車部隊は、「強力な火力と防御力を活用するため」と称して数両ずつ分散され、歩兵と組み合わせて個々の防御拠点の防衛に投入された。
そしてソミュアS35中戦車等は戦車本来の実力を発揮しないままに、ドイツ軍第3、第4、第9機甲師団のIII号戦車やIV号戦車によって包囲分断され、各個撃破されてしまったのである。
こうして1940年6月22日のフランス降伏により、ドイツ軍占領地区にあったフランス軍戦車は接収されることになり、ソミュアS35中戦車も合計297両が「35S(f)戦車 識別番号739(f)」の鹵獲兵器呼称を与えられて、ドイツ軍の正式装備に加えられた。
そしてその多くが、フランス占領地区や東部戦線後方地区でのレジスタンス・パルチザン鎮圧活動に従事した。
その他、15両ほどが装甲列車に搭載されたと記録されている。
ドイツ軍が使用したものの内ちょっと変わった経歴を持っているのが、ユーゴスラヴィアのチトー・パルチザン軍鎮圧作戦に投入された8両のソミュアS35中戦車で、これらは当初ブルガリア軍に供与された車両だが、チトー軍の活性化に直面してドイツ軍が急遽返還してもらって送り込んだものである。
その後戦況の悪化により戦車不足に直面すると、ドイツ軍もソミュアS35中戦車を最前線に投入せざるを得ず、1944年の半ば以降に連合軍と砲火を交えている。
ソ連軍は少なくとも本車1両を無傷で鹵獲し、クビンカの戦車実験場にて各種性能試験を実施し、対ソミュアS35戦闘マニュアルまで発行している。
このクビンカで試験実施中のソミュアS35中戦車の写真を見ると、何とツィンメリット・コーティング(ドイツ軍が大戦後期に対磁気吸着地雷用に戦車に塗布した特殊塗装)を行っており、第一線部隊所属の証左となっている。
ドイツ軍以外の枢軸軍では1941年9月にイタリア軍が本車32両の供与を受け、サルデーニャで第200中戦車大隊を編制している。
この大隊は1943年9月8日のイタリア降伏まで本土に留まったものと思われるが、戦闘のエピソードは伝えられていない。
連合軍の反攻が本格化すると、ソミュアS35中戦車が再びドイツ軍に対して部隊単位で戦闘を展開するチャンスが訪れた。
その1回目の機会は、1943年初めの北アフリカ戦線で現出した。
同地駐留の旧ヴィシー・フランス軍第6軽機械化騎兵師団が、イギリス供与のヴァレンタイン歩兵戦車と共に本車をドイツ・イタリア軍に対する攻勢に投入したのである。
この時はフランス軍戦車兵の士気が上がっていたものの、ソミュアS35中戦車の性能はいささか旧式化しており、長砲身の5cm戦車砲や7.5cm戦車砲を持つドイツ軍戦車に太刀打ちできず、大きな損害を出して敗退してしまった。
次の機会は、フランス本土で訪れた。
1944年夏、ドイツ軍から再鹵獲した(修理デポ等で押収したものがほとんど)ソミュアS35中戦車で、自由フランス軍第13竜騎兵連隊が再興されたのである。
同連隊は再興フランス軍の威光を示すため、ドイツ軍が守備していたロヤン要塞地帯への攻撃に投入された。
この時はドイツ軍側に戦車は無く、本車は歩兵支援にそれなりの役割を示したようだが、少数の残存ドイツ軍相手の掃討戦であったので、大戦果を上げて名誉挽回とはいかなかったようである。
そしてこれが、実用戦車としてのソミュアS35中戦車が部隊としてまとまって展開した最後の戦いであった。
今日残存しているソミュアS35中戦車は数少ないが、フランスのソミュールおよびイギリスのボーヴィントンの両戦車博物館において実働状態で保存されている他、ロシアのクビンカ博物館には件のドイツ軍からの鹵獲車両が展示されて余生を送っている。
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<S35中戦車>
全長: 5.38m
全幅: 2.12m
全高: 2.62m
全備重量: 19.7t
乗員: 3名
エンジン: ソミュア 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 190hp
最大速度: 45km/h
航続距離: 260km
武装: 32口径47mm戦車砲SA35×1 (108発)
7.5mm機関銃M1931×1 (1,250発)
装甲厚: 20~56mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2011年9月号 第二次大戦勃発時のフランス軍最優良戦車 ソミュアS35」 竹内修 著 アルゴノー
ト社
・「パンツァー2003年12月号 フランスのソミュアS35騎兵戦車」 オイゲン・フラットフィールド 著 アルゴノート社
・「パンツァー2014年7月号 誌上対決 ソミュアS35戦車 vs III号戦車」 久米幸雄 著 アルゴノート社
・「パンツァー2016年10月号 ドイツ軍によって使われるフランス戦車」 馬庭源士 著 アルゴノート社
・「パンツァー2001年10月号 フランスのソミュアS35騎兵戦車」 伊吹竜太郎 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年11月号 フランスのソミュアS35戦車」 真出好一 著 アルゴノート社
・「パンツァー2011年11月号 大戦間のフランス戦車」 平田辰 著 アルゴノート社
・「パンツァー2003年11月号 第2次大戦フランス戦車 インカラー」 アルゴノート社 ・「パンツァー2018年6月号 騎兵戦車 ソミュアS35」 箙公一 著 アルゴノート社
・「世界の戦車
1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「グランドパワー2017年12月号 ドイツ軍捕獲戦闘車輌」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「グランドパワー2000年12月号 ソミュアS-35中戦車」 大村晴 著 デルタ出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー
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