P40重戦車
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+概要
1922年にベニート・ムッソリーニのファシスト党が政権を握ったイタリアでは軍備の増強が強力に推し進められ、陸軍の機械化も1930年代半ばより急速に実施されてきた。
しかし1930年代後半になっても、イタリア陸軍の装備していた戦車はそのほとんどがCV3のような軽戦車で、1939年になってようやくM11/39中戦車の開発が開始されるといった状況であった。
このため1940年になってムッソリーニの強力な要請により、イタリア陸軍は初めて重戦車の開発に着手した。
開発はイタリア戦車メーカーの重鎮フィアット・アンサルド社の手で行われることが決まり、同社は2種の設計案を提出し、その内1つが選定されて「P75」の呼称でモックアップが製作された。
ちなみに”P”はPesanteの頭文字で「重い」の意、”75”は75mm砲を搭載していることを表していた。
1940年12月には「40重戦車」(Carro Armato Pesante 40)の制式呼称が与えられ、本格的な開発が開始された。
当初の計画ではP40重戦車は想定重量を26tとし最大装甲厚は40mm、武装はアンサルド社製の75mm山砲M34をベースに開発された18口径75mm榴弾砲M35と、副武装として65口径20mmブレダM35機関砲を全周旋回式砲塔に装備することとされた。
ところがやっと試作第1号車の製作が始まった頃、イタリア軍東部戦線派遣部隊の技術調査班からとんでもない情報が飛び込んできた。
それは、ソ連軍のT-34中戦車とKV重戦車シリーズの性能をドイツ軍の調査班と共同でまとめたもので、特にT-34中戦車の避弾経始の実態や、それまでは対戦車戦闘にも充分通用すると見なされていた、ドイツ軍のIV号戦車の短砲身7.5cm戦車砲の威力不足が記されていたのである。
そこでイタリア軍部とフィアット・アンサルド社では、試作第1号車にはとりあえず75mm榴弾砲M35を搭載して完成させるが、試作第2号車に対しては高初速の加農砲を原型とする32口径75mm戦車砲M37を搭載することにした。
試作第1号車は1941年10月にロールアウトしたが、この車両は当時のイタリア陸軍の最新鋭戦車であったM13/40中戦車をスケールアップしたような車体と砲塔を持っていた。
副武装として装備が予定されていた20mmブレダM35機関砲は廃止されており、その代わりに8mmブレダM38機関銃が砲塔防盾に同軸装備され、車体右前部にも8mm連装機関銃が装備されていた。
戦闘重量は計画値よりも3t軽い23tにまとめられていたが、最大装甲厚は計画よりも10mm増えて50mmとなっていた。
その後試作第2号車、第3号車を経て、最終試作車でもあり本命となる試作第4号車が作られた。
この試作第4号車は、それまでの試作車とは異なり車体前面と側面上部に限られてはいたものの、イタリア戦車史上初の避弾経始が採り入れられていた。
これは、T-34中戦車から得られた教訓が反映された結果に他ならない。
しかし、T-34中戦車が溶接接合で組み立てられていてリベットがほとんど用いられていないのに対して、P40重戦車は全面的にリベット接合で組み立てられている点が、当時のイタリアの戦車生産技術の限界を示している。
また、P40重戦車に搭載するエンジンも実は問題の1つとなっていた。
26tの戦闘重量に対して、搭載を予定されていたのはフィアット社が本車のために開発中であったV型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力330hp、排気量25リットル)だったが、小型ガソリン・エンジンを得意としてきたイタリアにとって当時としては大き目のディーゼル・エンジンの開発ということもあり、特に燃料噴射と着火に関連するトラブルが多発し、その開発が著しく遅延してしまったのである。
フィアット社は、鹵獲したT-34中戦車のV-2系ディーゼル・エンジンの機構まで参考にしたもののなかなか問題が解決できず、結局暫定策として、初期生産車では出力420hpのタイプ342
V型12気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載することになったが、このディーゼル・エンジン開発の遅延はP40重戦車の生産遅延の大きな理由の1つとなった。
こういった苦労の中、開発に先行して1942年5月の段階でP40重戦車500両の生産が決定された。
しかし技術的な問題の解決に加えて、工場内の作業環境を本車向けに改めたり治具を揃えたりといった生産のための準備に手間取ったため、ようやくP40重戦車の生産開始に漕ぎ着けたのは翌43年の初めになってからであった。
なお、P40重戦車の生産型では当初予定されていた32口径75mm戦車砲M37に代えて、砲身長が2口径延伸された34口径75mm戦車砲が搭載されることとなった。
この砲はM37と同じ弾薬を使用し、セモヴェンテM42突撃砲の後期生産車にも搭載されている。
また、生産型では車体右前部の8mm連装機関銃が廃止されることになった。
P40重戦車の生産がやっと始まった頃、第1次発注分の500両の上に第2次発注分の500両が追加されて発注数は合計1,000両となったが、1943年9月8日にイタリアが連合軍に降伏するまでに完成したのはわずか21両に過ぎなかった。
9月8日の降伏時、イタリアに駐屯していたドイツ軍はすぐさま北イタリアを占領下に置き、他の多くのイタリア製軍用車両と同様にP40重戦車も接収した。
接収したのは完成車の5両に加えて、203両分に相当するパーツ類や様々な段階まで組み立てられた未完成車であった。
こうしてドイツ軍は本車に「Panzerkampfwagen P40 737(i)」の鹵獲兵器番号を付与すると共に、その生産を継続することとなった。
実は、イタリア降伏直後のいわゆる「イタリアからの分捕り品吟味会議」の席上、ドイツ側はP40重戦車に対してそこそこの評価を下しており、未完成車の早急な戦力化がすでに決定されていたのである。
この際、本車のエンジンをIII号、IV号戦車系列に使用されているドイツのマイバッハ発動機製作所製のHL120 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力300hp)に換装しようという話も持ち上がった。
実はイタリア側は降伏する前、P40重戦車のエンジンの開発で苦労していた時期に、ドイツに対してHL120エンジンの提供とノックダウン生産の話を持ち掛けていたこともあり、その話がドイツ側の事情で復活したというわけである。
しかし結局この話は実現されず、ドイツ軍当局はまず第1ロット75両の生産を発注した後、続けざまに第2ロット73両を発注した。
だが、1945年3月までにドイツ軍の支配下で生産されたP40重戦車は100両に過ぎず、この内60両だけがフィアット社が開発したV型12気筒液冷ディーゼル・エンジンを搭載して完成し、残りの40両はエンジン未搭載の状態でアンツィオ防衛戦やグスタフ・ラインの固定陣地として使用された。
その他、本車の砲塔だけが約100基ほど存在しており、それらはドイツ軍によって砲塔付きトーチカ等への利用が考えられていたという。
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<P40重戦車>
全長: 5.795m
全幅: 2.80m
全高: 2.522m
全備重量: 26.0t
乗員: 4名
エンジン: フィアットSPA 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 330hp/2,100rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 275km
武装: 34口径75mm戦車砲×1 (65発)
8mmブレダM38機関銃×1 (576発)
装甲厚: 15〜60mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2005年9月号 対決シリーズ イタリア P40重戦車 vs イギリス クロムウェル巡航戦車」 白石光 著
アルゴノート社
・「パンツァー2009年5月号 日本陸軍 三式中戦車 vs イタリア陸軍 P40重戦車」 久米幸雄 著 アルゴノート社
・「パンツァー2002年9月号 第2次大戦のイタリア軍戦車(6) P40重戦車」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー2020年5月号 イタリア戦車 その誕生と苦難の歩み」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「パンツァー2003年1月号 ドイツ軍で使用されるイタリア車輌」 島田夫美男 著 アルゴノート社
・「パンツァー2024年1月号 イタリア軍写真集(22) P40重戦車(1)」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「パンツァー2024年2月号 イタリア軍写真集(23) P40重戦車(2)」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2000年4月号 イタリア陸軍(1) イタリア軍の軍用車輌」 嶋田魁 著 デルタ出版
・「グランドパワー2010年4月号 イタリア軍 P40重戦車」 吉川和篤 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「世界の無名戦車」 齋木伸生 著 三修社
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
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