+概要
1921年に新しい装輪式装甲車の研究がスタートし、パリのパナール社は1926年に「M165/175」と呼ばれる4輪装甲車を完成させた。
この車両は、アメリカのホワイト自動車で生産されていた4輪装甲車とよく似ており、出力86hpのエンジンを搭載して、路上なら65km/hの速度で走行することが可能であった。
また車体中央部には、前後にMAC社(Manufacture d'armes de Châtellerault:シャテルロー造兵廠)製の7.5mm機関銃M1931を1挺ずつ装備する、円筒形の全周旋回式砲塔を搭載していた。
このM165/175装甲車の開発で得られた経験を踏まえ、パナール社では発展型のTOE-M32装甲車を製作した。
TOE-M32装甲車は戦闘重量6.7t、全長5.98m、全幅.2.03m、全高3.24mというサイズで、ボディは厚さ9mmの装甲板をリベットで接合して組み立てられていた。
タイヤのサイズはM165/175装甲車よりも大型化され、エンジンの出力も強化されており、路上最大速度92km/h、路上航続距離390kmの機動性能を有していた。
またこの車両は、車体の前後にそれぞれ操縦手と操縦装置を配しており、バックでも全速で走行することが可能であった。
車体中央部に搭載された8角形の全周旋回式砲塔には、前面右側にAPX社(Atelier de Construction de Puteaux:ピュトー工廠)製の21口径37mm戦車砲SA18、前面左側に7.5mm機関銃M1931を装備しており、火力面でも充実が図られていた。
また砲塔の上部には、一段高く視察用の展望塔が突出していた。
乗員は4名で、装甲厚は最大18mmと装甲車としてはかなりの重装甲であった。
TOE-M32装甲車はフランスの植民地に送られて現地で試験に供された後、当初は発注が無かった。
しかし1931年に、フランス陸軍騎兵監部が「AMD」(Automitrailleuse de Découverte:索敵用装甲車両)と呼ばれる装輪式装甲車の調達計画をスタートさせたことで、パナール社はTOE-M32装甲車をさらに発展させたP178装甲車をこれに提案し、1934年から試作車による試験が開始された。
基本的にTOE-M32とP178は同仕様の装甲車であったが、TOE-M32装甲車が車体前部にルーヴァー式のラジエイター・カバーを設けたのに対し、P178装甲車では単純な装甲板が使われていた。
P178装甲車の試験での結果は良好で、1935年に「AMD35」(35式索敵用装甲車両)の呼称でフランス陸軍に制式採用され、まず数十両が発注されて騎兵部隊と歩兵部隊の偵察車両として用いられた。
P178装甲車はその後も数次に渡る発注が行われ、1940年5月10日のドイツ軍のフランス侵攻時には360両が実戦部隊に配備されていた。
P178装甲車の車体と砲塔は防弾鋼板のリベット接合構造で、溶接構造の車体を持つドイツ軍のSd.Kfz.222装甲車などと比べると古臭く感じるが、当時のフランス軍装甲車の中では最も近代的な車両であった。
基本構成は通常の装甲車と大差無く、エンジンは車体後部の機関室に置かれ、変速・操向機を車体の中央に置いて、ディファレンシャル・ギアを介して前後の車軸に動力を伝達する4輪駆動車であった。
ラジエイターは車体前部の車軸の上に置かれ、その後ろには燃料タンクが設けられていた。
操縦手は車体前部の中央に位置し、車体後部にも副操縦手が配されて、それぞれに備えられた操縦装置を用いて、前後いずれにも同様に走行することができた。
ただし、操向については前輪のみで行うようになっていた。
車体中央部に搭載されたAPX社製のAPX-3全周旋回式砲塔には、前面にサン・ドニのオチキス社製の72.4口径25mm対戦車砲SA34を、車載用に改修して短砲身化した47.2口径25mm戦車砲SA35と、副武装の7.5mm機関銃M1931が並列装備され、25mm戦車砲の右側には照準機が設けられていた。
APX-3砲塔は2名用で砲塔内右側に砲手、左側に車長が位置し、視界は砲塔上面に各々独立して装備されたホーン型のペリスコープで得ていた。
砲塔上面には視察用の前開き式ハッチが設けられており、砲塔後面にも弾薬補給用の観音開き式ハッチが設けられていた。
P178装甲車の一部には、主武装の25mm戦車砲SA35を7.5mm機関銃M1931に換装した車両もあり、また砲塔を撤去して代わりに固定式の戦闘室を設け、内部に無線機を増設した指揮車両タイプもあった。
ドイツ軍のフランス侵攻時には、前述のように360両のP178装甲車が実戦部隊に配備されており、1940年6月22日にフランスがドイツに降伏した後、P178装甲車の残存車両はドイツ軍の手に渡り、1941年6月22日の独ソ開戦時には190両が使用されていた。
これらの車両は大部分が無改造で使用されたが、わずかではあるが、無線機と大型のフレームアンテナを装備した無線偵察車も存在した。
また34両のP178装甲車が車輪を外し、線路上を走行するための鉄輪を装着して鉄道警備に用いられている。
1944年8月25日にパリが解放された後、パナール社はP178装甲車の再生産に着手した。
この再生産車は呼称が「P178B」と改められ、砲塔が新型のFL-1砲塔に替わり、主砲もより強力なAPX社製の32口径47mm戦車砲SA35に換装されていた。
P178B装甲車は第2次世界大戦終了後もしばらく生産が続けられ、インドシナ戦争で使用されたが徐々にアメリカから供与された装甲車や、パナール社が戦後に開発したEBR、AMLなどの新型装甲車に更新されて、最後の車両が姿を消したのは1960年のことであった。
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