+概要
1945年5月8日にドイツが降伏したことで、第2次世界大戦におけるヨーロッパの戦いは終結し、ドイツの支配下にあった各国はそれぞれ独立することになった。
1939年にドイツに併合されたチェコは、ドイツ降伏後にスロヴァキアと再統合され、チェコスロヴァキア共和国(第三共和国)として再出発することになった。
チェコスロヴァキア政府は早速再軍備に取り掛かったが、同国にとって幸いだったのは、ドイツ軍のためではあるが大戦中も積極的にAFVの生産を続けており、車種こそ限定されるものの豊富な資材が放置され残されており、工場施設もそのまま手元に残されていたことであった。
第2次大戦中、チェコ・プルゼニのシュコダ製作所はドイツ軍に供給するために、半装軌式のSd.Kfz.251装甲兵員輸送車シリーズのライセンス生産を行っていた。
チェコスロヴァキア政府はSd.Kfz.251を自国陸軍に装備するために、シュコダ社に短期間継続生産させた。
そしてその後、Sd.Kfz.251のエンジンをドイツのマイバッハ発動機製作所製のHL42TUKRM 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)から、チェコ・コプジブニツェのタトラ社がドイツ軍の要請で大戦末期に開発した、T-928
V型8気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力120hp)に換装し、オープントップだった兵員室上面に開閉式装甲カバーを追加した改良型が開発され、「OT-810」(Obrněný
Transportér 810:810型装甲輸送車)として制式化された。
OT-810は1958~62年にかけて約1,500両が生産され、1990年頃まで使用されていた。
OT-810の生産は、1950年にデトヴァに設立されたPPS社(Podpolianske strojárne)が担当したが、第2次大戦中に設計された旧式車両の基本設計をそのまま流用していたため、OT-810は非常に使い勝手が悪かったようで、兵士たちからは「ヒトラーの復讐」という仇名を付けられた。
最後のOT-810がチェコ陸軍の施設から廃棄されたのは、1995年のことである。
OT-810の基本的なスタイルは、Sd.Kfz.251の最後期型であるSd.Kfz.251D型にそっくりで、外見上の違いは操縦手席上面に旋回式機関銃マウント付きのハッチが設けられたことと、Sd.Kfz.251ではオープントップだった兵員室上面に、開閉式装甲カバーが取り付けられたこと、また兵員室の左右側面に各2基ずつガンポートが設けられたことぐらいである。
なお、チェコスロヴァキア陸軍はOT-810の他に、ポーランドと共同開発した8×8型装輪式のSKOT/OT-64装甲兵員輸送車も装備していたが、主力戦車に随伴する必要性のある機甲師団の機械化歩兵用には、半装軌式で路外機動性に優れるOT-810、自動車化歩兵師団用には、より安価で路上機動性の高いOT-64を配備して使い分けていた。
その後1970年代に入って、チェコスロヴァキア陸軍はソ連が開発した、全装軌式のBMP歩兵戦闘車シリーズの導入を開始した。
このBMPシリーズの普及と共に、OT-810は次第にリタイアしていったようだが、ごく少数、国産の46口径82mm無反動砲M59Aを車体後部に搭載した戦車駆逐車型のOT-810Dも製作されている。
M59Aは、1954年にソ連で開発され広く共産圏や第3世界に普及した、20.2口径82mm無反動砲B-10を参考に1959年に開発されたものであるが、B-10の最大射程が4,500mだったのに対し、砲身長が倍以上もあるM59Aの最大射程は6,600mに達し、HEAT(対戦車榴弾)を用いた場合、射距離に関わらず250mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を穿孔することが可能であった。
M59AはB-10と同じく滑腔砲身を持つ後装式無反動砲であったが、B-10が照準にPBO-2光学照準機を用いていたのに対し、M59Aの照準は、砲身左側に装備された12.7mm標定銃ZH59を用いて行うようになっていた。
前述のように、OT-810は外見が旧ドイツ軍のSd.Kfz.251に非常によく似ているため、昔から戦争映画ではドイツ軍のハーフトラック役として出演しており、近年では「プライベート・ライアン」に登場したのが記憶に新しい。
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