Nb.Fz.戦車
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+開発
1931年にドイツ陸軍自動車化部隊総監に就任したオズヴァルト・ルッツ少将の幕僚に任じられたハインツ・グデーリアン中佐は、将来の戦車部隊は歩兵支援用ではなく一部隊として集中運用すべきで、敵中深く突入して敵の中枢を叩くのに使用すべきものという結論に辿り着き、新時代の機甲兵力整備方針として2種類の戦車を開発する方針を立てた。
その1つは装甲貫徹力に優れた砲を備えた主力戦車で、もう1つは口径の大きい砲を装備した火力支援戦車であった。
これは後にそれぞれ「III号戦車」と「IV号戦車」として実用化され、第2次世界大戦前半のドイツ陸軍の主力戦車として活躍することになる。
しかし一方でドイツ陸軍の内部では、騎兵科を中心として戦車の集中運用に根強く反対する守旧派も残っており、ルッツやグデーリアンの一派の進める戦車開発とは全く相反する方向の開発も行われようとしていた。
当時、イギリスではヴィッカーズ・アームストロング社によってA1E1「インディペンデント」(Independent:独立)と呼ばれる巨大な多砲塔戦車が開発され、世界各国の注目を浴びていた。
インディペンデント重戦車は主砲塔に対戦車・陣地攻撃に用いる大口径戦車砲を装備する一方で、4基の副砲塔に歩兵掃討用の機関銃を装備した陸上戦艦ともいうべきものであった。
この戦車のコンセプトに興味を持ったソ連軍は、1930年にイギリスに対してインディペンデント重戦車のサンプル車両とライセンス生産権の購入を打診している。
結局これは実現しなかったが、ソ連軍は当時友好関係にあったドイツから戦車技術者を招いて独自に多砲塔戦車の開発に取り組み、後にT-28中戦車、T-35重戦車などの多砲塔戦車を実用化している。
一方ドイツ軍も、ソ連軍と同じくインディペンデント重戦車のコンセプトに関心を持っており、その結果開発されたのが「Nb.Fz.」(Neubaufahrzeug:新造車両)と呼ばれる多砲塔戦車である。
本車は開発当初、「中トラクター」(Mitteltraktor)の秘匿呼称で呼ばれていたらしい。
Nb.Fz.戦車は1932年7月13日にドイツ陸軍兵器局第6課によって最初の開発指示が出されているが、これは砲と機関銃を1つの砲塔に装備するという程度であまり明確にまとめられたものではなかった。
砲も7.5cm砲が挙げられつつも砲弾重量が3kg以下とされ、これでは6cm砲以下でなければならないという矛盾した部分まであるものだった。
これを受けて1932年10月12日にエッセンのクルップ社と、ZF社(フリードリヒスハーフェン歯車製作所)がNb.Fz.戦車の開発に参加することになったが、クルップ社はエンジン、ZF社は変速・操向機の設計を担当した。
同年10月15日にようやくNb.Fz.戦車の仕様書がまとめられたが、この時の仕様書によれば本車は武装に7.5cm砲と7.92mm機関銃4~5挺を装備(主砲塔に砲と機関銃、その前後に機関銃を装備する副砲塔)、戦闘重量は15t以下、装甲防御力は2cm砲に耐える程度、エンジンは出力250hpの空冷エンジンとされた。
なおNb.Fz.戦車の開発にはデュッセルドルフのラインメタル社も加わり、クルップ社とラインメタル社の競作ということになったが、実際は両社の競争となったのは部分的で一部分をクルップ社、別の部分をラインメタル社が担当するというような形となった。
1933年2月27日の兵器局第6課とクルップ社との話し合いで、Nb.Fz.戦車は主砲塔に主砲の7.5cm砲と副砲の3.7cm砲を各1門ずつ装備することが決められた。
主砲の7.5cm砲は大口径榴弾による敵歩兵・陣地の攻撃に使用し、副砲の3.7cm砲は徹甲弾で敵戦車への攻撃を行うことを想定していた。
Nb.Fz.戦車の副砲についてはより強力な5cm砲を要求する声もあったが、それは少々無理があったようである。
その後1933年10月にはNb.Fz.戦車の重量制限が22tに緩和され、装甲防御力は2cm砲に耐える程度で間に合わせるのではなく3.7cm砲に耐えることが要求された。
Nb.Fz.戦車の試作車は軟鋼製でラインメタル社に2両分の車体と1基の砲塔、クルップ社に1基の砲塔の製作が命じられた。
ラインメタル社の設計案は同社が以前開発した試作戦車「重トラクター」(Großtraktor)を基本にしたもので、後輪駆動の配置や足周り、主砲塔デザイン、操縦手用視察キューポラなど類似点が目立つ。
また主砲塔には3.7cm砲と7.5cm砲を上下に並列装備し、その右側に独立して7.92mm機関銃をボールマウント式に装備していた。
また主砲塔の前後の副砲塔には、それぞれ7.92mm機関銃を連装で装備するという重武装だった。
一方クルップ社にはNb.Fz.戦車の主砲塔、走行装置、7.5cm砲、3.7cm砲の設計が命じられている。
クルップ社の主砲塔は、3.7cm砲と7.5cm砲を左右に並列装備していたのが特徴だった。
この主砲塔は、1933年11月に完成した。
2両製作されたNb.Fz.戦車の軟鋼製試作車の内、ラインメタル社製主砲塔を搭載した試作車「Nr.1」は1934年に完成し、クルップ社製主砲塔を搭載した試作車「Nr.2」は1935年に完成した。
この車両は、ラインメタル社の当初設計案に比べると副砲塔の武装が7.92mm機関銃1挺に減らされ、サスペンション、車体側面、機関室上面、操縦室等多くの部分が設計変更されていた。
これを受けて兵器局第6課は1935年4月17日に、クルップ社に対して3両の増加試作車を防弾鋼板を用いて製作することを命じた。
この増加試作車では車体はラインメタル社が設計したものが、主砲塔はクルップ社が設計したものが採用された。
Nb.Fz.戦車の3両の増加試作車は、1936年初めに完成した。
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+構造
Nb.Fz.戦車の軟鋼製試作車の車体は大型の箱型車体で、左右に走行装置と履帯が取り付けられていた。
履帯の高さは、イギリス陸軍の菱形戦車のように車体全体を取り巻くまではいかないが相当の高さがあり、車体側面の装甲カバーと共に古臭い雰囲気が残っていた。
なおこの装甲カバーの右側前部および左側中央部には、おそらく脱出用と思われる四角形のハッチが設けられていた。
車体中央部には、一段高く主砲塔が搭載されていた。
Nr.1に用いられたラインメタル社製の主砲塔は、鋳造製でほぼ円形をしていた。
武装配置は、45口径3.7cm戦車砲KwKと24口径7.5cm戦車砲KwKを上下に並列配置していた。
これらの砲についての詳細は不明であるが、3.7cm戦車砲KwKはラインメタル社製の45口径3.7cm対戦車砲PaK36を戦車砲に改修したもの、7.5cm戦車砲KwKはIV号戦車に装備されたクルップ社製の24口径7.5cm戦車砲KwK37の原型砲と推測される。
主砲の右側には張り出しが設けられ、ボールマウント式にラインメタル社製の7.92mm機関銃MG13が装備されていた。
砲塔上面後部中央には、視察スリットが設けられた車長用キューポラが取り付けられていた。
なお砲塔上面中央部は一段盛り上がっていたが、これは砲尾が干渉するのを避けて主砲の俯角を確保するためだと思われる。
砲塔の左右側面後部には、砲手と装填手用のハッチがそれぞれ設けられていた。
このハッチは、ドイツ陸軍戦車にはあまり無い後ろ開き式であった。
主砲の左側には照準用の視察クラッペがあり、砲塔後面にも視察クラッペが設けられていた。
砲塔の側面には、日本陸軍の九七式中戦車に見られるのと同じような鉢巻状の無線アンテナが取り巻いていたが、これは長距離用ではなく通常の戦車間通信用であった。
一方、Nr.2に用いられたクルップ社製の主砲塔は鋳造ではなく圧延鋼板の溶接構造で、形状も前後に長い6角形の箱型であった。
これはラインメタル社製の主砲塔よりかなり内部容積が大きく、砲塔内乗員の戦闘動作がやり易かった。
この主砲塔の全体的なデザインは、同じくクルップ社が開発したIV号戦車の砲塔に類似していた。
武装配置は右に7.5cm戦車砲KwK、左に3.7cm戦車砲KwKの左右並列配置で、ラインメタル社製の主砲塔と違い砲塔上面の張り出しは無かった。
主砲右側の機関銃マウントは、前面幅が広くなったため前面板に直接取り付けられていた。
ただし同軸ではなく、やはりボールマウント式であった。
砲塔上面後部中央にはラインメタル社製の主砲塔と同様、車長用キューポラが取り付けられていた。
砲塔の左右側面後部にはやはり砲手と装填手用のハッチがそれぞれ設けられていたが、開き方は前開き式であった。
主砲の左側にはやはり照準用の視察クラッペがあったが、その他にはクラッペは無かった。
無線アンテナは鉢巻状ではなく、砲塔左側に起倒式のロッドアンテナが取り付けられていた。
主砲塔の前方右側と後方左側には、7.92mm機関銃MG13を装備する副砲塔が1基ずつ設けられていた。
ラインメタル社が設計したこの副砲塔は円筒形で、前方にかまぼこ型に突き出した防盾が設けられていた。
7.92mm機関銃は、防盾右側に1挺装備されていた。
副砲塔の上面には半円形のハッチが設けられていたが、右側の機関銃尾をクリアするためか斜め45度左に寄っていた。
副砲塔の周囲には、前左右と後左右側の4カ所にスリット付きの視察クラッペが設けられていた。
Nb.Fz.戦車の車体はラインメタル社が設計を担当しており、車体前部左側に操縦手席が配されていた。
操縦手席は箱型の張り出しになっていて、上面には四角形のハッチが設けられていた。
なお、Nb.Fz.戦車の乗員は全部で6名(車長、操縦手、砲手、無線手、機関銃手2名)であった。
イギリス戦争省の資料によるとNb.Fz.戦車の試作車は当初、鋳造製の主砲塔に45口径3.7cm戦車砲と24.8口径10.5cm戦車砲を上下並列に装備していたが無理があったらしく、3.7cm戦車砲と7.5cm戦車砲に換装した際に7名の乗員は6名に減らされたとある。
機関室は主砲塔の後方に配置されていたが、後方左側に副砲塔が配置されていた関係で、副砲塔の右側の空きスペースとその後方の区画が機関室に充てられていた。
Nb.Fz.戦車のエンジンは、ミュンヘンのBMW社(Bayerische Motoren Werke:バイエルン発動機製作所)製のVa V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力250hp)を搭載していた。
これは、航空機用のBMW Vガソリン・エンジンを戦車搭載用に改修した高回転、低トルクの非効率的なエンジンであった。
またNb.Fz.戦車のエンジンは、III号戦車A~D型に搭載されたフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL108TR V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力250hp)が用いられたとする資料もある。
Nb.Fz.戦車の機関室の内部配置は前方右側にエンジン、その後方が変速・操向機となっていた。
機関室右側面からは排気管が出て、右フェンダー上にマフラーが置かれていた。
足周りは小直径の転輪が多数並べられたものだったが、サスペンションは転輪を2個ずつペアにして斜めのアームに取り付け、コイル・スプリング(螺旋ばね)で懸架したものであった。
このサスペンションは、当時ラインメタル社が開発中だったVK.20.01(Rh)(IV号戦車の開発・生産メーカーを選定するコンペに提出するために開発した試作戦車)にも流用されている。
古臭い印象の残るサスペンションだが、実際の機動性能はそれほどは悪くなかったようである。
なお、Nb.Fz.戦車の路上最大速度は28km/hであった。
後輪駆動なので起動輪は後部、誘導輪は前部にあり、転輪は片側10個、上部支持輪は片側4個であった。
面白いのは、Nb.Fz.戦車は誘導輪が相当の高さにあるため転輪の位置と離れており、履帯の送りを滑らかにするために誘導輪と第1転輪の中間位置に履帯支持輪が設けられていた点である。
その後製作されたNb.Fz.戦車の3両の増加試作車は、前述したように防弾鋼板で作られていた。
増加試作車の装甲厚は車体前面が20mm、砲塔前面および防盾部が15mm、上部構造物前面、車体側/後/上面、砲塔側/後/上面が13mmとなっていた。
なお増加試作車の主砲塔には、クルップ社がNr.2用に設計したものが採用されている。
増加試作車の車体は、Nr.2のものとほとんど変わらなかった。
一番目立つのは、再設計された副砲塔である。
副砲塔はNr.1/Nr.2では円筒形に前方の張り出しを持つものだったが、増加試作車では前方の張り出しを一体化した馬蹄形となった。
I号戦車の砲塔に良く似ていたが、設計自体は別物であった。
武装は、やはり防盾右側に7.92mm機関銃MG13が1挺装備されていた。
副砲塔上面の半円形のハッチは、前縁線と平行の前開き式となった。
副砲塔の周囲には、やはり4カ所にスリット付きの視察クラッペが設けられていた。
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+戦歴
このように苦労して開発されたNb.Fz.戦車だが、完成してみるともはやドイツ陸軍にはその居場所は無かった。
III号戦車を主力戦車、IV号戦車を火力支援戦車とする快速戦車部隊にとって、鈍重な多砲塔戦車はお荷物でしかなかったのである。
突破戦車としても、やたら大柄なだけで装甲が薄過ぎるため使いようが無かった。
生産コストも高く、貴重な戦車乗員を6名も必要とした。
これらの理由により、Nb.Fz.戦車は生産型の発注は行なわれなかった。
2両の試作車は、1940年までプトロスの戦車学校で訓練用に使用された。
残された3両の増加試作車も、本来なら訓練用に使われるのがいいところなのだろうが何と実戦に投入された。
当時のドイツ陸軍は、本当に戦車不足だったのである。
3両のNb.Fz.戦車は第40特別編制戦車大隊に配属されて、1940年4月9日にノルウェイ侵攻作戦(Unternehmen Weserübung:ヴェーザー演習作戦)の一部隊としてオスロに上陸した。
ノルウェイ軍は大した抵抗をしなかったのでほとんど戦闘は無かった(艦船部隊は激しい抵抗で重巡ブリュッヒャーや軽巡ケーニヒスベルクを撃沈されるなどかなりの損害を受けた)が、同年4月14日にイギリス軍がノルウェイに上陸した。
大陸で1940年5月10日に開始された西方戦役に敗れたイギリス軍は、同年5月26日~6月4日にかけて装備の全てをフランス・ダンケルクの浜に捨てて命からがらイギリス本土に逃げ帰ったが(Operation
Dynamo:ダイナモ作戦)、これにより在ノルウェイのイギリス軍が孤立するのを防止するため、同年6月初めに一部兵力をナルヴィク地区に逆上陸させて撤退堡を確立し、友軍の退却を援助する挙に出た(Operation
Alphabet:アルファベット作戦)。
第40戦車大隊はアンダルスネスに上陸したイギリス軍部隊を迎撃するためリレハンメル方面に出動したが、この時Nb.Fz.戦車の1両が故障で道路上に立ち往生してしまった。
このため、この車両はやむを得ず道を空けるため爆破されてしまった。
この戦闘の後も残りの2両のNb.Fz.戦車はオスロ市内での示威行動等に利用されていたが、数両しか製造されていない車両なので部品不足を生じた上、メインテナンスが容易ではないとして、駐ノルウェイのドイツ軍司令部はこの2両を1940年末にはドイツ本国に送り返してしまった。
ところが1941年6月22日のソ連侵攻作戦(Unternehmen Barbarossa:バルバロッサ作戦)開始時点でも、依然としてドイツ陸軍の戦車不足は解消しなかったらしく、お役御免になったはずの2両のNb.Fz.戦車も再び駆り出され南方軍集団に配属された。
しかし開戦劈頭の6月28日、Nb.Fz.戦車はデュブノ戦区においてソ連軍のKV-1重戦車の一群に遭遇し、いとも簡単に撃破されてしまったという。
Nb.Fz.戦車は強そうな見た目とは裏腹に、最大装甲厚20mmと軽戦車並みの装甲防御力しか備えておらず、KV-1重戦車の強力な76.2mm戦車砲が命中すればひとたまりも無いのは当然である。
一方、残されたNb.Fz.戦車の軟鋼製試作車はさすがに戦闘に使うわけにはいかないので、様々な行事の折に引っ張り出されてプロパガンダ用に使用された。
実際はともかく見た目はいかにも強そうなので、大衆向けには効果を発揮したものと思われる。
中には、Nb.Fz.戦車を演説台代わりに使っている写真なども残されている。
さらに、Nb.Fz.戦車の修理点検の折にはIII号戦車の生産ラインの脇に置いて、いかにも制式化された戦車のように装われた。
その偽装が上手くいったのか、連合軍は長い間Nb.Fz.戦車をドイツ軍の制式装備と思い込み識別表に載せていたという。
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<Nb.Fz.戦車>
全長: 6.60m
全幅: 2.19m
全高: 2.98m
全備重量: 23.41t
乗員: 6名
エンジン: BMW Va 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 250hp
最大速度: 30km/h
航続距離: 120km
武装: 24口径7.5cm戦車砲KwK×1 (80発)
45口径3.7cm戦車砲KwK×1 (50発)
7.92mm機関銃MG13×3 (6,000発)
装甲厚: 13~20mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2006年5月号 各国多砲塔戦車の歴史 アメリカ/ドイツ」 柘植優介 著 アルゴノート社
・「パンツァー2006年6月号 各国多砲塔戦車の歴史 ドイツ/ポーランド」 柘植優介 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年7月号 NbFzと大戦前のドイツ戦車開発」 稲田美秋 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2002年7月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35 (1)」 古是三春 著 デルタ出版
・「グランドパワー1999年5月号 IV号戦車の開発と各型」 佐藤光一 著 デルタ出版
・「グランドパワー2015年6月号 ドイツIV号戦車(1) A~D型」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年5月号 IV号戦車A~D型」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939~43」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車
1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画
・「ビジュアルガイド WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 斎木伸生 著 光人社
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「世界の無名戦車」 斎木伸生 著 三修社
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