試製七糎半対戦車自走砲 ナト
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+開発
日本陸軍は1939年5〜9月にかけて満州-外モンゴル国境において、ソ連軍戦車部隊と武力衝突したノモンハン事件(ハルハ川戦役)の経験から、当時の主力対戦車砲であった九四式三十七粍砲が近い将来威力不足になることを認識し、以降一式機動四十七粍砲、試製機動五十七粍砲と次々に新型対戦車砲の開発を行ってきた。
しかし、1941年末に勃発した太平洋戦争で遭遇した米英軍の戦車砲や対戦車砲の発達はそれを上回るものがあり、より強力な対戦車砲の配備が要求されるに至った。
そのため、1942年度に「甲砲11」という秘匿呼称で口径75mmの対戦車砲を製作することになり、これによって開発されたのが「試製七糎半対戦車砲I型」である。
これはその重量や運用法から、当初から車載砲として計画された最初の砲である。
しかし計画こそ早かったものの、既存の兵器の生産供給に追われて新規の兵器を開発することはままならず、実際に開発に着手できたのは1943年2月、設計が完了したのは翌44年4月になってからのことである。
当初、自走砲の車台には一式中戦車(チヘ車)の車体とその部品を共用できるものを第四陸軍技術研究所で開発することになっていたが、この計画は後に変更されて、代わって四式中型装軌貨車(チソ車)の車台を流用することになった。
また一時、ドイツから潜水艦によってもたらされた口径漸減砲を主砲に採用することも検討されたが、諸事情によってこれは断念され、当初の計画通り試製七糎半対戦車砲I型を搭載した自走砲が試作された。
この自走砲は「ナト車」の秘匿呼称で呼ばれ、1945年1月に第四陸軍技術研究所で試作車2両が完成し、1月中に305kmの走行試験が実施された。
ナト車は当初、九七式中戦車(チハ車)の車台上に試製七糎半対戦車砲I型を搭載したともいわれるが、最終的にやはりチソ車の車体を利用し、一部装甲を強化した車台に砲をオープントップで搭載している。
同時期に、四式中戦車(チト車)に搭載予定だった試製五式七糎半戦車砲(長)II型がほぼ完成したが、陸軍は試製七糎半対戦車砲I型と試製五式七糎半戦車砲(長)II型の部品の共通化を目指し、これをベースに新たな対戦車砲を開発することを命じた。
この新型対戦車砲には「試製七糎半対戦車砲II型」の呼称が与えられ、研究開発に約4カ月を費やし、1945年5月23日にこの砲を搭載したナト車が伊良湖射場で射撃試験を実施した。
試験の結果、ナト車は主砲の取り付け部分が強度不足であることが判明したためさらに制式化が遅れることとなり、改修が終わって射撃試験が成功したのは1945年7月10日のことであった。
その10日後の7月20日に、試製七糎半対戦車砲II型は「五式七糎半対戦車砲」として制式化された。
ナト車は1945年8月から相模造兵廠で量産が開始される予定で、終戦時には70両が生産に着手されていた。
その内30両は工程70%に達していたという。
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+攻撃力
ナト車に搭載された主砲は日本軍初の、そして最後の本格的大口径対戦車砲であった。
元々は1937年、南京上空で日本軍の航空機に損害を与えたスウェーデンのボフォース社製の75mm高射砲m/29を、その技術的価値を知る砲兵将校が同市占領直後に内地に急送して模倣させたもので、結局これが、終戦までに日本軍が実用化できた装甲貫徹力最大の対戦車砲になった。
なお、同じボフォース社製高射砲を基に四式七糎半高射砲、試製五式七糎半戦車砲(長)II型も開発されている。
別々の開発であったが結局砲架以上は共通であり、チト車とナト車の主砲は基本的に同じものであった。
ナト車の主砲は一式徹甲弾を用いた場合、射距離1,000mでM4中戦車の3インチ(76.2mm)の前面装甲を貫徹し、車内で65gの炸薬が弾底信管により爆発するはずであった。
ナト車の主砲は、ベース車台となったチソ車の車体中央部にオープントップ式に搭載された。
操砲員を保護するため、主砲の前面と左右側面は薄い装甲板で構成された防盾で覆われていた。
主砲は全周旋回式ではなく、左右各22.1度ずつの限定旋回式となっていた。
主砲の俯仰角については試製七糎半対戦車砲I型の場合−8〜+19度、試製七糎半対戦車砲II型の場合−10〜+20度となっていた。
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+防御力
本来ならば防弾上、ナト車のベース車台には一式以降の中戦車の車体を利用することが望ましかったが、空冷ディーゼル・エンジンは占有容積が大きいため、ドイツ軍のIII号突撃砲のような低姿勢にまとめるのは困難であり、またイタリア軍のセモヴェンテM41M
da 90/53のように車体全体を防盾として、操砲員を完全に車外後方に出すという発想にも至らず、何より開発期間が全く不足していた。
このため新規に車台を開発する余裕は無く、既存の車両の中で広くて安定したプラットフォームとして利用できるものを流用せざるを得なかったため、日本の泥道・山道を機動できる装軌式のチソ車が選択されたといわれる。
しかしベースとなったチソ車自体、1両ずつが手作りに近い状態であったらしく、とても大量生産できるような車両では無かった。
ナト車はベースとなったチソ車より装甲が強化されていたものの、装甲厚は車体前面と側面で12mm、後面で8mmと薄く、小火器弾の直撃に耐えるのがやっとであり、敵の火砲に対する防御力は無いに等しかった。
ナト車の車体はチソ車のものが基本的にそのまま用いられたため、車体前面にはグリルが開口しており、荷台上部が完全にオープンになっていたことも防御上問題であった。
また主砲の取り付け位置が高いため砲の俯角が充分に取れず、車体のシルエットも高いため敵に発見され易かった。
このようにナト車はいかにも急造の完成度の低い自走砲であったため、実戦に投入されたとしても大して活躍できなかったのではないかと批判的に見る研究者が多い。
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+機動力
ナト車はベースとなったチソ車と同じく、一式/三式中戦車と同系列の統制型一〇〇式 空冷ディーゼル・エンジンを搭載していた。
ただし、一式/三式中戦車が12気筒だったのに対しナト車は気筒数が8に減らされており、最大出力も約2/3の165hpしか発揮できなかった。
しかし装甲が薄いナト車は戦闘重量13.7tと軽量だったため、路上を40km/hの速度で走行することができた。
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<試製七糎半対戦車自走砲 ナト>
全長:
車体長: 5.70m
全幅: 2.40m
全高: 2.64m
全備重量: 13.7t
乗員: 7名
エンジン: 統制型一〇〇式 4ストロークV型8気筒空冷ディーゼル
最大出力: 165hp/2,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 300km
武装: 試製53口径7.5cm対戦車砲I型またはII型×1 (110発)
装甲厚: 6〜12mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2005年1月号 日本陸海軍の自走砲/砲戦車(2) その他の自走砲と部隊の編成と運用」 高橋昇
著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年11月号 日本陸軍の対戦車自走砲」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「日本軍兵器総覧(一) 帝国陸軍編 昭和十二年〜二十年」 デルタ出版
・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917〜1945」 デルタ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「戦車機甲部隊 栄光と挫折を味わった戦車隊の真実」 新人物往来社
・「日本軍戦闘車両大全 装軌および装甲車両のすべて」 大日本絵画
・「世界の戦車メカニカル大図鑑」 上田信 著 大日本絵画
・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著 学研
・「帝国陸軍 戦車と砲戦車」 学研
・「世界の戦車完全図鑑」 コスミック出版
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