+概要
テトラーク軽戦車は、軽戦車Mk.VIの設計を完了したウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社が1936年に自社資金で開発を始めた軽戦車である。
ヴィッカーズ社は軽巡航戦車または偵察用軽戦車としてイギリス陸軍での採用を目論んでいたが、もし採用されなければ輸出用に回す計画であった。
ヴィッカーズ社内で「パーダー」(Purdah:ヒンズー教徒の婦人の居室のカーテン)や、「PRタンク」のコードネームで呼ばれたこの軽戦車は1936年9月にイギリス戦争省に基本仕様が提示され、「A17」の設計番号が与えられて1937年12月に試作車A17E1が完成した。
A17軽戦車の設計を担当したのは、ヴァレンタイン歩兵戦車の設計も行ったレスリー・リトル技師である。
A17軽戦車は当初の計画では砲塔に2挺の15mmベサ重機関銃を装備する予定であったが、試作車では2名用の全周旋回式砲塔に50口径2ポンド(40mm)戦車砲を装備しており、イギリス陸軍の初期の巡航戦車や歩兵戦車と同等の火力を備えていた。
前作の軽戦車Mk.VIは機関銃しか装備していなかったので、火力が大幅に向上したことが分かる。
副武装としては、主砲の右側に7.7mmヴィッカーズ機関銃(生産型では7.92mmベサ機関銃に変更)を同軸装備しており、弾薬搭載数は2ポンド砲弾が50発、機関銃弾が2,025発となっていた。
機動力についても、軽戦車Mk.VIに搭載されたウルヴァーハンプトンのヘンリー・メドウズ社製のESTB 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力88hp)より大幅に出力が向上した、同社製のMAT
水平対向12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力165hp)を搭載したことで、路上最大速度は軽戦車Mk.VIの35マイル(56.33km)/hから40マイル(64.37km)/hへと向上していた。
しかし、A17軽戦車の最大の特徴はそのユニークな足周りの構造であった。
軽戦車Mk.VIがフロントエンジン/フロントドライブだったのに対して、A17軽戦車はリアエンジン/リアドライブで誘導輪と起動輪は共に接地式となっており、片側2個の転輪と同じサイズの大直径のものが用いられていた。
これら転輪類は防弾鋼板で製作されており、車体側面の防御力を向上させる役目も期待されていた。
A17軽戦車の足周りで特にユニークなのがその操向機構で、通常の戦車が左右の履帯の回転速度を変化させることで操向を行うのに対し、本車は自動車式のハンドルを用いて転輪の向きを左右に変えることで操向を行うようになっており、通常の戦車より操縦が容易であった。
これは、ソ連のBT快速戦車にも採用されたアメリカのクリスティー戦車の操向機構を参考にしており、履帯を外して路上を装輪で高速走行することが可能な点も同様であった。
ただし、BT快速戦車では装輪走行時にのみ転輪の向きを変えることで操向を行ったのに対し、A17軽戦車はフレキシブル式の履帯を採用することで、装軌走行時でも緩旋回の場合は転輪の向きを変えることで履帯を捩らせて操向を行う点が異なっていた。
またBT快速戦車では第1転輪のみが左右に操向するようになっていたのに対し、A17軽戦車は最前部の誘導輪から最後部の起動輪まで全ての転輪が操向する点も違っていた。
A17軽戦車が緩旋回を行なう際には誘導輪と第1転輪を曲がりたい方向に操向させ、第2転輪と起動輪を逆向きに操向させることで素早く方向転換を行なえるようになっていた。
このため、装輪走行時にはBT快速戦車よりも良好な旋回性能を発揮できた。
一方装軌走行時は、A17軽戦車の履帯を捩る操向方式は通常の戦車より操縦が簡単な反面、旋回半径が大きくなってしまうという欠点があった。
このためA17軽戦車は装軌走行時に急旋回を行なう必要がある場合は、通常の戦車と同様に操向レバーを用いて左右の履帯の回転速度を変化させて方向転換した。
このようにA17軽戦車は火力と機動力に優れた軽戦車であったが、装甲厚は車体と砲塔の前面で14mmと防御力については軽戦車Mk.VIとあまり変わらず貧弱であった。
またA17軽戦車は被弾確率の高い車体最前部に燃料タンクを配置しており、引火性の高いガソリンを燃料にする戦車としては防御上問題があることを設計段階で戦争省から指摘されていたが、ヴィッカーズ社では操縦室と燃料タンクの間に14mm厚の装甲板で隔壁を設け、被弾により燃料タンクが損傷した場合には、車体下面の排出口からタンク内部の燃料を投棄できる機構を設けるという応急的な改善しか行わなかった。
A17軽戦車は1938年6月からイギリス陸軍による試験に供されたが、この試験においてA17軽戦車は整地での機動性は良好であるが、荒地や泥濘地のような不整地での使用には向かないと評価された。
機構的な信頼性は合格点だったが、フレキシブル式の履帯を捩らせて操向を行う時の騒音が大きいことは偵察任務に用いる上で問題とされた。
ヴィッカーズ社は戦争省にA17軽戦車のイギリス陸軍での採用を打診したが、ドイツとの開戦が危惧される不安定な状勢の中、戦争省はすでに量産中であった軽戦車Mk.VIを充足させることを第一に考えていたようで、色良い回答を得られなかった。
このためヴィッカーズ社は、輸出を主眼に置いてA17軽戦車の開発を続行することにした。
A17軽戦車の改良は1940年初めまで続けられたが、北アフリカのイギリス駐留軍が本車の配備を希望したため戦争省はようやくA17軽戦車の採用を決め、ヴィッカーズ社に120両を発注した。
しかし折しも1940年5月10日にドイツ軍の西方電撃戦が開始され、同年5月26日からのダンケルク撤退戦でイギリス軍は大量の戦車や火砲、トラックを放棄して命からがらヨーロッパ大陸から逃げ帰る事態となってしまった。
このため、イギリスの戦車メーカーは失われた主力戦車の生産に全力を傾注することとなり、 A17軽戦車の生産はなかなか進まず、1940年11月にようやく最初の生産型がイギリス陸軍に引き渡された。
本車は「軽戦車Mk.VII」(Light Tank Mk.VII)として制式化され、完成した車両を北アフリカのイギリス第8軍に送って運用試験が行われた。
しかしこの試験において、軽戦車Mk.VIIはアフリカなどの熱帯地で使用するには冷却装備が不充分であることが露呈し、アフリカへの配備は見送られることとなった。
また軽戦車Mk.VIIが約20両完成した時点で、生産を担当していたヴィッカーズ社エルスウィック工場がドイツ軍の爆撃を受け大損害を被ったため、軽戦車Mk.VIIの生産を続行することが不可能になってしまった。
このため、軽戦車Mk.VIIの生産はヴィッカーズ社の子会社であるソルトリーのMCCW社(Metropolitan Cammell Carriage
and Wagon:メトロポリタン・キャメル客車・貨車製作所)に移管されたが、当然ながら生産はさらに遅延することになった。
なお軽戦車Mk.VIIの発注数は後に70両に削減されており、最終的に100両が生産されている(資料によっては生産数を177両としている)。
この中の一部は、2ポンド戦車砲の代わりに25口径3インチ(76.2mm)榴弾砲を装備したCS(Close Support:近接支援)タイプとして完成している。
また後に一部の軽戦車Mk.VIIは、火力強化のために2ポンド戦車砲の先端に「リトルジョン・アダプター」と呼ばれる口径縮小機が装着された。
ヴィッカーズ社エルスウィック工場で完成した最初の20両の軽戦車Mk.VIIは当初第9軽騎兵連隊に配備されたが、英ソ相互援助協定に基づいて1941年中にソ連へ供与され1942年初期に実戦参加している。
当時のソ連はドイツとの緒戦で大量の戦車を失って深刻な戦車不足に陥っており、本当は軽戦車よりも巡航戦車や歩兵戦車などの主力戦車の供与を望んでいたと思われるが、当時はイギリス自身も主力戦車の不足に悩んでいたため、とりあえずの戦力として軽戦車Mk.VIIが送られたようである。
イギリス陸軍における軽戦車Mk.VIIの初の実戦投入は1942年5〜11月のマダガスカル島上陸作戦で、半個中隊の軽戦車Mk.VIIが投入されて好成績を収めたようである。
そして、戦闘重量16,800ポンド(7.62t)と軽量な割に強力な武装を備えている軽戦車Mk.VIIは、グライダー搭載用の空挺戦車として空挺部隊の注目を集めることとなり、1943年に入って空挺部隊に移管された。
この際に、軽戦車Mk.VIIには「テトラーク」(Tetrarch:古代ローマの四分領太守)の愛称が与えられている。
空挺部隊はテトラーク軽戦車を搭載可能な大型グライダー「ハミルカー」を保有しており、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦(Operation
Neptune:ネプチューン作戦)の際には、第6空挺師団が1個中隊のテトラーク軽戦車をハミルカーに搭載して実戦投入している。
この内1両はドーバー海峡上空で機首から海に転落したが残りはカーン東方に無事降下し、車体をダグインさせて空挺隊員に有力な火力支援を与えている。
テトラーク軽戦車の最後の実戦参加は1945年3月24日のライン川渡河作戦で、2個空挺師団が対岸の橋頭堡確保のために降下した際にテトラーク軽戦車も投入されたが、すでにドイツ軍は弱体化しておりほとんど戦闘らしい戦闘は発生しなかったようである。
テトラーク軽戦車は第2次世界大戦終了後も、グライダー部隊が廃止される1949年まで空挺部隊で使用され続けた。
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