+概要
1938年1月、前年の2月に持たれた新型戦車についての会議の席上で提案された21tクラスの重巡航戦車の設計案が、「A14巡航戦車」としてイギリス戦争省に提出された。
A14巡航戦車の設計はユーストンハウスのLMS社(London, Midland and Scottish Railway:ロンドン・ミッドランド・スコットランド鉄道)で実施されて、承認を受けたA14巡航戦車は1938年3月8日には軟鋼製の試作車を2両製作することが決定し、同年7月には試作第1号車が完成している。
試作第1号車は「A14E1」、第2号車は「A14E2」と名付けられる予定であったが、A14E1、E2とも設計段階ですでに戦闘重量が25tもあり、最終的には28tに達することが問題となっていた。
結局完成したA14E1の戦闘重量は29.35tになったが、基本装甲厚は30mmのままであった。
エンジンは、ベイジングストークのソーニクロフト社製のRY12 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力500hp、排気量3,575cc)を搭載しており、最大速度は路上で48km/h、路外で40km/hであった。
乗員は7名も乗り組んでおりその内の3名が砲塔内に搭乗し、あとの4名が車体に搭乗していた。
武装は主砲として50口径2ポンド(40mm)戦車砲を搭載しており、同軸機関銃として7.92mmベサ機関銃を1挺装備していた。
A14巡航戦車は巡航戦車Mk.Iのような銃塔を車体前方に2基並列装備しており、副武装としてここにも1挺ずつ7.92mmベサ機関銃が装備されていた。
車体に搭乗する乗員4名の内、2名はこの銃塔の操作員であった。
完成した試作第1号車A14E1は1939年6月中旬に実施された走行試験で、重量オーバーのため懸念されたようにエンジンが出力不足であることが明らかになり、サスペンションにも問題が指摘されている。
これらの結果によってA14巡航戦車は開発中止が決定され、製作中であった試作第2号車A14E2は結局完成せずに廃棄されている。
1938年には重巡航戦車構想は廃棄され、巡航戦車として多目的に使用できる戦車の研究開発に切り替えられた。
機械化局内の戦争機械化委員会は1939年2月20日に、低コストで軽量な巡航戦車の開発の可能性に関する研究を開始している。
戦争機械化委員会の答申によると、新たに製作される巡航戦車は主武装として2ポンド戦車砲を搭載し、同軸機関銃には7.92mmベサ機関銃を装備することが必要であるとされていた。
また装甲厚は30mmを基本とし(砲塔は40mm)、A13巡航戦車と同じ型式のサスペンションの装備が必要であるとされ、戦闘重量はA13巡航戦車を少し上回る程度とされた。
重量を低く抑えるために、車体の高さもできるだけ低くすることとされている。
そして車体の高さを抑えるために、A13巡航戦車に使用されていたNMA社(Nuffield Mechanizations and Aero:ナフィールド機械・航空産業)製の「リバティー」(Liberty:自由)V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力340hp)に代わり、A17軽戦車に採用されたウルヴァーハンプトンのヘンリー・メドウズ社製のMAT
水平対向12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力165hp)の使用が前提とされた。
機械化委員会は新型巡航戦車の開発を、A14巡航戦車の開発に失敗したLMS社の立て直しを図るために同社に依頼すると共に、LMS社にメドウズ社とNMA社を加えたプロジェクトチームを結成している。
このプロジェクトでは斬新なアイデアが色々提案されているが、中でも興味深いのがラジエイターのレイアウトに関する提案で、この提案ではラジエイターは車体前方操縦手席の隣に配置することとなっていた。
このプロジェクトではLMS社が車体全般の開発と試作を担当し、メドウズ社がエンジンの開発、NMA社が砲塔を開発することとそれぞれ担当が決められていた。
国際情勢が急速に怪しくなってきたため、この新型巡航戦車の生産は詳細なトライアル(性能評価試験)を抜きにしても1939年4月までには開始されることになり、実際試作車さえ完成していない1939年4月17日には早くも100両の量産命令が出されている。
LMS社は新型巡航戦車の開発期間を短縮するため、プロジェクトの提案と同じサスペンションを装備するNMA社のA13巡航戦車のコンポーネントを流用して設計する方針を決定した。
このため新型巡航戦車はA13巡航戦車の発展型とされ、「A13Mk.III」の開発番号が与えられている。
またプロジェクトでの設計段階では、A13Mk.III巡航戦車は全て溶接工法で製作されることになっていたが、1939年10月にLMS社側から量産に必要な溶接技術が熟成していないとの報告があったため、従来通りリベット接合工法で組み立てることが決定されている。
この決定により、A13Mk.III巡航戦車は計画より2t程度重量が増えることとなった。
1940年に完成したA13Mk.III巡航戦車の試作車は設計通り溶接工法で製作されており、1,600kmを超える走行試験も何の問題も無くこなしている。
5月21日には、イギリス陸軍の試験官によるトライアルがこの試作車を使用して開始されている。
折しも1940年5〜6月のドイツ軍のフランス侵攻において、大陸に派遣されていたイギリス軍が装備の大半を放棄して命からがら本国に撤退する破目になり、早急に戦車を大量調達する必要が生じた。
このためA13Mk.III巡航戦車は同年半ばに「巡航戦車Mk.V」(Cruiser Mk.V)として制式化され、「カヴェナンター」(Covenanter:盟約者)の愛称が与えられると共に(今に続く”C”の頭文字で始まるイギリス陸軍戦車の愛称はこの「カヴェナンター」が最初であった)、直ちに生産型の量産が開始されている。
カヴェナンター巡航戦車はプロジェクトでの提案通り2ポンド戦車砲を主砲として搭載しており、副武装として主砲と同軸に7.92mmベサ機関銃を1挺装備していた。
また、25口径3インチ(76.2mm)榴弾砲を搭載するCS(Close Support:近接支援)タイプも存在している。
量産化が急がれたカヴェナンター巡航戦車であったが、結局本車のほとんど全ては戦場に投入されること無く訓練用としてイギリス本土で使用されて、少数がやはり訓練用として中東方面に送られただけであった。
これは機械的なトラブルが頻発し稼働率が極端に低かったことと、幅の狭い履帯のため接地圧が高く機動性に問題があったことが主たる原因であった。
その内で最も深刻な問題となったものがエンジンのオーバーヒート問題で、これは最初の生産型からすでに抱え込んでいたものであった。
試作車のトライアルの際にオーバーヒートが問題とならなかったのは、量産化を急ぐあまりトライアルを省略したことと生産型とは違う構造であったこと、エンジン自体も生産型とは異なったものであったことが考えられるが、主とした原因はプロジェクトで提案されたメドウズ社製のエンジン自体にあったようで、これに特異なラジエイター配置が輪をかけたようであった。
この問題を解決するためラジエイター上の装甲ルーヴァーを取り外し、エンジンの冷却系に手を加えたものが「カヴェナンターMk.II」として制式化されている。
しかしカヴェナンターMk.IIでもエンジンのオーバーヒート問題は収まらず、車体後部にルーヴァーを新設した型式「カヴェナンターMk.III」が作られている。
実用化に対する努力はさらに続けられ、後部エンジン・デッキ上にさらに吸気用ルーヴァーを新設した型式が「カヴェナンターMk.IV」として制式化されているが、このカヴェナンターMk.IVを最後にカヴェナンター巡航戦車の戦力化はあきらめられている。
結局カヴェナンター巡航戦車の生産は1943年1月まで実施され、生産数は各型合計で1,365両にも上っている。
量産に加わったメーカーはLMS社、ストランドのEEC社(English Electric Company:イングランド電機)、レイランド自動車の3社であった。
カヴェナンター巡航戦車の生産終了後、本車を使用した改造車両が2種類製作された。
一方は砲塔を撤去し、その後に折り畳み式の架橋を搭載した架橋戦車で、折り畳み式の架橋は油圧で駆動し操作は戦闘室内から行えるようになっていた。
主として訓練用に用いられたが、1942年に少数がオーストラリア軍によってビルマ方面で使用されたという記録が残されている。
もう一方は車体前方に大きなローラーを装着した地雷処理戦車で1942年に製作されており、こちらは試作のみで終わっている。
結局カヴェナンター巡航戦車は戦車としては完全な失敗作となってしまったが、大戦前半にイギリス陸軍の主力巡航戦車として活躍した巡航戦車Mk.VIクルセイダーの開発ベースとして利用されたことや、イギリス本土で戦車搭乗員の養成に活用されたことで、間接的にはイギリス陸軍に対して貢献をもたらしたといえよう。
|