+概要
A11歩兵戦車(後の歩兵戦車Mk.IマティルダI)の試作車であるA11E1が領収された直後、ウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社はA11歩兵戦車をスケールアップした武装強化型の開発を計画した。
最初の要求仕様は1936年9月に出され、そこでは出力向上とスピードの増加、乗員の3名化が課題とされ、装甲防御や火力については全く提議されていなかった。
それから3カ月の間、設計着手の優先順位を巡って議論が繰り返され、それと共にイギリスの戦車開発には付き物のエンジン選定のトラブル、それに生産メーカー決定のごたごたが続いた。
生産仕様が開発番号「A12」として決定される以前に、生産メーカーはニュートン・ル・ウィロウズのヴァルカン鋳造所に決定した。
A12歩兵戦車の秘匿呼称については、A11歩兵戦車と同じ「マティルダ」(Matilda)とされた。
1937年度のイギリス陸軍予算概算要求には、A12歩兵戦車2両が3万ポンドで予算計上されている。
設計当初の段階では武装は共軸機関銃2挺とされていたが、これはすぐに廃案となり3名用砲塔に50口径2ポンド(40mm)戦車砲1門と、7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃(同軸)1挺を装備することで固まった。
予定された歩兵戦車の戦闘任務を考えて一部からは、榴弾を発射可能な武装を搭載すべきであるとの声が上がった。
しかし公式の見解によれば、歩兵戦車は敵戦車の攻撃から味方歩兵を守るために存在するのであり、2ポンド戦車砲は当時世界最高の装甲貫徹力を持つ戦車砲であったことから、武装の変更は不必要とされた。
要求出力を発揮できるエンジンの選定に関しては、同型のエンジン2基を搭載することで解決がなされた。
この解決法は1917年の中戦車Mk.Aホイペットの事例と同じで、選ばれたエンジンはまたもロンドンバスのものであった。
前回と違うのはガソリンからディーゼルに変更された点で、このサウソールのAEC社(Associated Equipment Company:関連機器会社)製のA183およびA184
直列6気筒液冷ディーゼル・エンジンは2,000rpmで最大出力87hpを発生した。
2基のエンジンは車体後部の機関室内に並列に配置され、出力はエンジン前方に置かれたスーパーギアハウジングを介して統合され、両エンジン間の下を走る1本の推進軸によってウィルソン遊星歯車式変速機(前進6段/後進1段)へと導かれた。
この変速機は予約選択方式で、変速操作はリーベル2段式コンプレッサーから送られる圧搾空気によって行われた。
変速機からの推進軸はラッカム・カム駆動式操向クラッチを通って、起動輪の装着された最終減速機へと繋がっていた。
2基のエンジン冷却ファンは変速機上部に設置され、各々のエンジンのクランクシャフトから取られた動力で別個に駆動された。
ラジエイターはこの冷却ファンの上に置かれ、エンジン本体へのアクセスを可能とするために上方へ跳ね上げることができた。
しかし、この並列エンジン方式は必ずしも満足の行くものではなかった。
エンジン整備に要する時間は確実に単基式の2倍となり、また2基のエンジンが完璧に同調されていないと動力伝達系に偏摩耗を起こす結果となったからである。
唯一の取り柄は片方のエンジンが故障した場合でも、残ったエンジンをもって戦車が自走可能であることぐらいであった。
この場合、故障したエンジンは戦闘室内からの操作で動力系への連結を解くことができた。
A12歩兵戦車に採用されたサスペンションは、「ジャパニーズ・タイプ」(日本式)と呼ばれるものであった。
これはベルクランクと水平置きスプリングを巧みに組み合わせたもので、原型はヴィッカーズ社が1928年に日本へ売却した中戦車Mk.C用として開発されたものであった。
ヴァルカン鋳造所に貸し出された中戦車Mk.Cを使って設計段階で頻繁に試験が繰り返された結果、中〜低速域では極めて有効なサスペンション方式であることが確認された。
履帯は、少なくとも試作の時点では中央に深いH形の窪みが打たれたプレス鋼製の1枚式で、中戦車Mk.III用に開発されたものと同じであった。
A12歩兵戦車の試作車と初期の生産車では上部支持輪が用いられたが、生産簡易化のためにこれはスキッドレールに変更された。
当初の要求仕様には謳われていなかったにも関わらず、A12歩兵戦車の設計を特徴付ける最も重要な要素となったのは重装甲であった。
車体前面の装甲厚は78mmであり、最も薄い部分でも20mmの厚さがあった。
これは、ヴィッカーズ中戦車に比べてもゆうに2倍を超える重装甲ぶりであった。
事実上この装甲をもってすればA12歩兵戦車は、当時配備されていた全ての対戦車砲および砲兵火器の射撃に耐えることができたのである。
構造面ではA12歩兵戦車は圧延防弾鋼板と鋳造部品によって構成されており、内部フレームを全く必要としないほどの頑丈な車体構造強度を確保していた。
しかし、不整地の高速走行時には何らかのトラブルが起きるものと信じられたので、車体上部と下部は側面での噛み合わせが工夫され、接合ボルトに加わる応力が減るように設計されていた。
より興味深い特徴としては、操縦室が設けられた車体前端部が挙げられる。
A11歩兵戦車と同じく、A12歩兵戦車でも車体機関銃と銃手は配置されなかった。
機械化副監督官の指導書によれば、この部分はアメリカから輸入されMEE(Mechanisation Experimental Establishment:機械化試験局)で試験中であったクリスティー戦車を手本として設計されたとある。
先の尖った車体前端部と両側の履帯フレームに生じる間隙は、三角形の工具収納箱を設けることで埋められた。
これには、上部にルーヴァーの開いた蓋が付けられていた。
この部分が工数の多い複雑な形状となってしまったことは、マティルダII歩兵戦車を量産する上での大きなネックとなった。
鋳造部品は必要な個所で充分な厚さを与えられていたが、また同時に薄くても良い個所でも不必要な厚さを与えられてしまっていたので、全く無駄な重量増加を招いていた。
そのためかなりの量の余分な装甲を、内部からグラインダーで削り落とすことが必要とされた。
この作業には熟練した研削工による慎重な作業が要求されたため、生産性は大幅に低下する結果となったのである。
A12歩兵戦車のサスペンションは暴露式のA11歩兵戦車とは対照的に、完全に装甲板の防護下に収められる形式であった。
フェンダーに加え、側面にも泥の掃き出し口と複雑なヒンジを持つ点検用パネルが付いた、奥行きのあるスカートが与えられた。
A12歩兵戦車の砲塔は鋳造製の3名用で、別体の上面装甲板はボルト止めされ、左側には前後開き式のハッチを備えた円筒形の車長用キューポラ、右側には右開き式の四角い装填手用ハッチが設けられていた。
装填手は、砲塔後部に装備されたNo.11無線機を操作する無線手も兼任していた。
砲手は車長の前方に位置し、2ポンド戦車砲と同軸の7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃の操作にあたった。
砲塔右側面には、上下2連装の4インチ(101.6mm)発煙弾発射機が装備されていた。
A12歩兵戦車の砲塔はこれまでイギリス戦車が装備した中で最も重いものであったため、油圧式の動力旋回システムが初めて採用された。
しかし当時は、走行間射撃がイギリス陸軍の戦車砲術の基本として認められていたために、主砲の俯仰操作は砲手が砲架に肩付けして身体の屈伸で調整する方式であった。
このため、主砲は同軸機関銃も含めて砲耳の前後でうまく重量バランスが取れている必要があり、2ポンド戦車砲の砲尾部が長く車内に突き出す結果となった。
A12歩兵戦車の最初の試作車であるA12E1は、1938年4月にMEEに到着した。
最初の1,000マイル(1,600km)走行試験の結果、新型戦車には必然であるエンジン冷却の問題を除けば、その性能は極めて満足できるものであるとの評価が与えられた。
路上最大速度は15マイル(24.14km)/hに達し、パワー不足を感じることも無かった。
唯一の反対意見は履帯に関するもので、各履板表面に棒状のトレッドが付けられたことで路面が抉り取られるというものであった。
A12歩兵戦車は「歩兵戦車Mk.II」(Infantry Mk.II)としてイギリス陸軍に制式採用されることになり、1938年6月にはヴァルカン鋳造所に対して140両が発注され、続いて8月にはリンカンのラストン&ホーンズビー社に対して40両の追加発注がなされた。
戦争の危機が目前の現実として迫ってきたことで、他のメーカーに対してもマティルダII歩兵戦車の生産への参加が求められ、ハンスレットのジョン・ファウラー社、スプリングバーンのNBL社(North
British Locomotive:北イギリス機関車製作所)、ベルファストのHWHI社(Harland & Wolff Heavy
Industries:ハーランド&ウォルフ重工業)、LMS社(London, Midland and Scottish Railway:ロンドン・ミッドランド・スコットランド鉄道)のホリッジ工場が新たに加わることとなった。
ヴァルカン鋳造所は、生産幹事役を務めることになった。
この結果、マティルダII歩兵戦車の総生産数は20両の軟鋼製訓練用戦車も含めて2,987両に達している。
生産期間が長かったため、マティルダII歩兵戦車には様々なヴァリエーションが存在する。
途中から同軸機関銃が7.92mmベサ空冷機関銃に替わり、エンジンもレイランド自動車製のE148およびE149 V型6気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力95hp)2基に換装された。
2ポンド戦車砲に替えて25口径3インチ(76.2mm)榴弾砲を搭載した、CS(Close Support:近接支援)タイプのマティルダII歩兵戦車も製作されている。
1939年9月の時点で部隊に配備されていたマティルダII歩兵戦車はわずか2両だったが、1940年春には第7戦車連隊の1個大隊は本車で構成されるまでになっていた。
ダンケルク撤退直前のアラスの戦闘には、マティルダI歩兵戦車58両と共に本車も16両が参加している。
北アフリカでは、イタリア軍との戦闘から実戦に投入された。
マティルダII歩兵戦車は低速のため、他部隊より数日早く行軍を開始せねばならないという使い難さはあったが、一旦戦場に到着すると、その分厚い装甲はイタリア軍の対戦車砲を全て跳ね返すことができた。
1941年6月の「戦斧作戦」(Operation Battleaxe)では「戦場の女王」とまで称され、本車の全盛期であった。
しかしこの作戦中、榴弾を発射できないマティルダII歩兵戦車はハルファヤ峠でドイツ軍の8.8cm高射砲に一方的に撃たれ、大損害を受ける。
しかしドイツ軍戦車に対しては装甲で依然優位を保ち、その後アメリカ製のM3/M4中戦車が登場するまでは第一線に留まった。
1942年6月のエル・アラメイン戦以降は第一線から引退し、多くは地雷除去用フレイル戦車、火焔放射戦車、架橋戦車等の特殊用途に改造された。
また一部はオーストラリア軍に引き渡され、太平洋戦線に投入された。
日本軍の対戦車砲も、マティルダII歩兵戦車の分厚い装甲には歯が立たなかった。
地味な戦車ではあったが、戦前に開発されて終戦まで使われたイギリス戦車は本車だけである。
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