巡航戦車Mk.I (A9)
|
|
+概要
ウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社は、当時のイギリス陸軍の主力戦車であった中戦車Mk.IIの後継車両として、3基の砲塔を備える多砲塔中戦車A6シリーズの開発を1926年から開始し、A6E3をベースに改良を加えたものが1930年に「中戦車Mk.III」(Medium
Mk.III)としてイギリス陸軍に制式採用されることになった。
しかし折からの世界恐慌でイギリス政府が深刻な財政難に陥ったため、高性能だが製造コストが高い中戦車Mk.IIIの量産を行わないことが1934年5月に決定された。
ただしイギリス陸軍はこのような事態も一応想定しており、ヴィッカーズ社にA6中戦車シリーズの開発を進めさせる一方で、保険として王立造兵廠にもA7中戦車、A8中戦車といった新型中戦車の開発を進めさせていたが、これらは全く試作の域を出ないものであった。
このため早急に中戦車Mk.IIIの代替車両を開発する必要に迫られたが、手際が良いことに、ヴィッカーズ社は中戦車Mk.IIIの量産中止が決定される前から新たな中戦車の開発を進めていた。
中戦車Mk.IIIのコストパフォーマンスの悪さは開発したヴィッカーズ社自身も認識していたため、中戦車Mk.IIIの量産が中止される以前の1934年早々に同社の技術指導者の立場にあり、イギリス陸軍の機械化局長という要職も務めていたジョン・V・カーデン准男爵自らが先頭に立って新型中戦車の開発に乗り出したのである。
この新型中戦車の開発コンセプトは、基本的なレイアウトは前作の中戦車Mk.IIIを踏襲しつつもより軽量、より安価にまとめ上げることであった。
一方、運用者であるイギリス陸軍の王立戦車軍団は歩兵に対する近接支援、および機動戦闘の両方に使用可能な汎用中戦車を求めていた。
しかし陸軍を統括するイギリス戦争省では、現在の技術力では近接支援と機動戦闘の両方をこなせる汎用中戦車を開発することは難しく、それぞれの任務に特化した中戦車を別個に開発した方がより現実的であるとする意見が多数を占めるようになっていた。
つまり歩兵部隊には近接支援を任務とする重装甲の中戦車、騎兵部隊には機動戦闘を任務とする高速な中戦車を配備するということである。
これらの流れを汲んだカーデン卿は新たに設計する中戦車に少し手を加えることによって、簡単に別の任務に転用できるように工夫しておいた。
これが後に、巡航戦車Mk.Iおよび巡航戦車Mk.IIに発展することになる。
巡航戦車Mk.Iの開発は、中戦車Mk.IIの量産に陰りが見えてくる以前の1934年2月にスタートした。
「A9」の開発番号が与えられた本車は、当初「中戦車」として開発が開始されている。
A9中戦車の最初の試作車であるA9E1が完成したのは、1936年4月のことであった。
A9中戦車は量産中止となった中戦車Mk.IIIの後継車両ということで、前作中戦車Mk.IIIの武装レイアウトをそのまま踏襲していた。
すなわち、主武装を装備する全周旋回式の主砲塔を車体上面中央部に搭載し、その前方に7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃を装備する副砲塔2基を左右並列に配置するというものであった。
A9中戦車のサスペンションは前作の中戦車Mk.IIIのものとは全く異なる、スローモーション式サスペンションと呼ばれる新設計のものが採用されており、機能的に洗練されたものになった。
基本的にはカーデン・ロイド豆戦車シリーズのサスペンションの拡大版であったが、中戦車Mk.IIIのように車体側面に転輪用の支持架を設け、支持架の周囲に小さな転輪を数多く装備する足周りに比べると近代的であった。
また、前作の中戦車Mk.IIIが新規開発の専用エンジンを採用したことでコストが高騰した反省から、A9中戦車では市販されている既存のエンジンを使用することが決定され、最初の試作車A9E1にはダービーのロールズ・ロイス社製の「ファントム(Phantom:幽霊)II」 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力120hp)が搭載されたが、後にサウソールのAEC社(Associated Equipment Company:関連機器会社)製のバス用ディーゼル・エンジンをガソリン・エンジンに改造した、A179 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力150hp)に換装されている。
駆動方式はリアドライブで、起動輪は車体後端に配置されていた。
A9中戦車の主武装は当初28口径15ポンド(76.2mm)加農砲、または40口径3ポンド(47mm)戦車砲のいずれかを選択できるようになっていたが、これらの砲は装甲貫徹力が低く対戦車戦闘には向いていなかった。
このためイギリス陸軍当局は1934年11月に、A9中戦車を対戦車戦闘に使用できるよう装甲貫徹力に優れる50口径2ポンド(40mm)戦車砲を装備することを要求し、これに従って2ポンド戦車砲を装備することになった。
ただ、この2ポンド戦車砲は徹甲弾しか用意されておらず榴弾が発射できなかったため、近接支援用に15口径3.7インチ(94mm)臼砲を搭載したタイプのA9中戦車も別に製作されることとなった。
これは主武装が異なるだけで、その他は2ポンド戦車砲搭載型と同じである。
この3.7インチ臼砲搭載型A9中戦車は、「近接支援」(Close Support)の頭文字を採って「CS」タイプと呼ばれた。
CSタイプの主武装である3.7インチ榴弾砲は発煙弾や高性能榴弾を発射可能であったが、徹甲弾が用意されていないため対戦車戦闘には使用できなかった。
A9中戦車は車長用として、主砲塔のハッチにヴィッカーズ・ジャーラッチ・ペリスコープを装着しており、また砲塔駆動にはイギリス戦車では初めて動力旋回方式(油圧)を採用していた。
これは、ヴィッカーズ社が開発した航空機用の動力銃座技術を流用したものであった。
またA9中戦車は最大装甲厚を14mmに抑え、機動力を重視した設計となっていた。
A9中戦車の最初の試作車であるA9E1は1936年4月に完成したが、設計者であるカーデン卿は1935年12月に航空機事故によって亡くなっており、A9中戦車のトライアル(性能評価試験)を目にすることはできなかった。
なお1936年にイギリス陸軍は戦車の分類方法を改め、従来の「軽戦車」、「中戦車」、「重戦車」に加えて「巡航戦車」(Cruiser Tank)、「歩兵戦車」(Infantry
Tank)という2つのカテゴリーが新設された。
そしてヴィッカーズ社が開発を進めていたA9、A10中戦車や王立造兵廠が開発を進めていたA7、A8中戦車は巡航戦車に分類変更されることになった。
続いて1937年6月からヴィッカーズ社のA9巡航戦車およびA10巡航戦車と、王立造兵廠のA7E3巡航戦車がイギリス陸軍によるトライアルに供された。
このトライアルでA9巡航戦車は、路上最大速度40km/hという前作の中戦車Mk.III並みの高い機動性能を発揮したが、一方で最大速度を出すと車体の動揺が激しく、極端な場合には履帯が外れてしまうようなサスペンションの欠陥を指摘されている。
しかしこれらの問題を抱え込んだまま1937年8月に、A9巡航戦車は「巡航戦車Mk.I」(Cruiser Mk.I)としてイギリス陸軍に制式採用され、最初の量産分50両がヴィッカーズ社に対して発注されている。
巡航戦車Mk.Iは合計125両が量産発注されたが、前述のように最初に発注された50両はヴィッカーズ社で生産され、後に追加発注された75両はベルファストのHWHI社(Harland
& Wolff Heavy Industries:ハーランド&ウォルフ重工業)によって生産されている。
1939年には巡航戦車の基準装甲厚を30mmとするという訓令が出され、それに基づいて巡航戦車Mk.Iも装甲の増厚が実施されることになったが、巡航戦車Mk.Iは構造的に装甲を増厚することが難しく、砲塔の防盾部分のみ申し訳程度に増厚されただけで終わっている。
特殊な試作車両として1940年5月には、ハンプシャー州のクライストチャーチで巡航戦車Mk.Iを使用した潜水実験が実施され、ストア川の潜水横断に成功しており、この種の車両で初めて潜水に成功したイギリス戦車となっている。
この実験に使用された巡航戦車Mk.Iは車体各部をシーリングし、スノーケル・チューブを装備しており、奇しくも相前後してドイツ陸軍によって開発された潜水戦車と同じコンセプトのものであった。
だが戦争省はフロートを使用した渡河システムを戦車部隊に導入する方針であったため、せっかく成功した実験結果も活かされずに終わっている。
最初に実戦投入された巡航戦車Mk.Iは、ヨーロッパ大陸へ派遣されていた第1機甲師団の装備車両で、1940年5〜6月のドイツ軍のフランス侵攻を迎え撃ったが、結局第1機甲師団はほとんどの装備を放棄してダンケルクから命からがら撤退する羽目になった。
その後第1機甲師団はイギリス本土で再編制され、再び巡航戦車Mk.Iを装備し北アフリカのリビアへ派遣されている。
1941年からの北アフリカの砂漠の戦いでは、第7機甲師団が巡航戦車Mk.Iを用いて戦っており、第2機甲師団も巡航戦車Mk.Iを装備してリビアとギリシャへ派遣されている。
イギリス陸軍の1940年5月の旅団編制では、3個中隊と1個本部中隊をもって1個戦車連隊が編制されており、3個戦車連隊が集まって機甲旅団が編制されていた。
本部中隊は4両の巡航戦車で構成され、各中隊は3両の巡航戦車で構成された1個小隊4個が集合し、中隊本部小隊を合わせて1個中隊が編制されていた。
通常、戦車小隊は2ポンド戦車砲を搭載した巡航戦車で編制されていたが、中隊本部小隊に配属された4両の巡航戦車の内の2両は3.7インチ臼砲を搭載したCSタイプであった。
イギリス陸軍の機甲師団は1940年の編制では2個機甲旅団を有しており、他に支援グループや工兵隊が付随した。
|
<巡航戦車Mk.I>
全長: 5.791m
全幅: 2.502m
全高: 2.642m
全備重量: 12.577t
乗員: 6名
エンジン: AEC A179 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 150hp/2,200rpm
最大速度: 40.23km/h
航続距離: 241km
武装: 50口径2ポンド戦車砲×1 (100発)
7.7mmヴィッカーズ機関銃×3 (3,000発)
装甲厚: 4〜14mm
|
<巡航戦車Mk.I CS>
全長: 5.791m
全幅: 2.502m
全高: 2.642m
全備重量: 12.577t
乗員: 6名
エンジン: AEC A179 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 150hp/2,200rpm
最大速度: 40.23km/h
航続距離: 241km
武装: 15口径3.7インチ臼砲×1 (40発)
7.7mmヴィッカーズ機関銃×3 (5,000発)
装甲厚: 4〜14mm
|
兵器諸元
|
<参考文献>
・「パンツァー2001年3月号 初期の北アフリカ戦におけるイギリス戦車」 齋木伸生 著 アルゴノート社
・「パンツァー2006年3月号 各国多砲塔戦車の歴史 イギリス」 柘植優介 著 アルゴノート社
・「パンツァー2009年3月号 イギリス軍 初期の巡航戦車」 前河原雄太 著 アルゴノート社
・「パンツァー2016年9月号 イギリス軍の巡航戦車シリーズ」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー2010年8月号 イギリス陸軍 2ポンド対戦車砲」 吉村誠 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年2月号 大戦間のイギリス巡航戦車」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年4月号 初期のイギリス巡航戦車」 白石光 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2002年7月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35
(1)」 古是三春 著 デルタ出版
・「グランドパワー1999年3月号 イギリス巡航戦車Mk.I〜V」 大村晴 著 デルタ出版
・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版
・「グランドパワー2020年8月号 イギリス巡航戦車発達史」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2012年11月号 イギリス巡航戦車(1)」 白石光 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
|
|
|
|
|
|
|