+概要
アメリカ陸軍は第2次世界大戦中に、軽戦車の車台をベースとした75mm自走榴弾砲の開発を数種類発注しているが、その中で唯一制式化されたのがこのM8
75mm自走榴弾砲である。
1941年12月に開発要求が出された当初は、M5軽戦車の車台を利用して上部にオープントップの固定式戦闘室を設け、短砲身の75mm榴弾砲M1A1を限定旋回式に搭載した試作車T41が作られたが、戦術的使用の面で柔軟性に欠けると見られ、オープントップの全周旋回式砲塔を搭載した試作車T47が製作されることになった。
T47自走榴弾砲の試作車は1942年4月初めに完成し、1942年5月に「M8 75mm自走榴弾砲」(75mm Howitzer Motor Carriage
M8)として制式化された後、1942年9月から本格的な試験に入った。
そして細部に改修を加えた後、9月から量産が開始された。
M8自走榴弾砲の生産は、M5軽戦車の開発を手掛けたミシガン州デトロイトのキャディラック社が担当し、1944年1月までに合計で1,778両が完成している。
本車が登場する以前、アメリカ陸軍が装備していた機械化部隊用自走砲は、M3ハーフトラックをベースとしたM3 75mm対戦車自走砲やT30 75mm自走榴弾砲であり、M8自走榴弾砲はアメリカ陸軍が初めて装備した全装軌式自走榴弾砲となった。
M8自走榴弾砲の基本構造はベースとなったM5軽戦車の砲塔を取り去って、代わりに75mm榴弾砲を装備するオープントップの全周旋回式大型鋳造砲塔を搭載したものであった。
その際、大型砲塔を搭載したために車体上面前部に操縦手と副操縦手用のハッチを設ける余裕が無くなったため、代わりに車体前面上部に2枚の上開き式大型ハッチが設けられた。
それに伴って、車体前面右側のボールマウント式銃架に装備されていた7.62mm機関銃は撤去されている。
砲塔に搭載された榴弾砲は、75mm榴弾砲M1A1を車載用に改修した16口径75mm榴弾砲M2およびM3である。
ベースとなった75mm榴弾砲M1A1は、アメリカ独自の設計になる軽量、小型、分解・組み立ての容易な山砲であった。
この砲はロバの背に載せて運搬できるように設計されており、後に空挺部隊でも使われた。
M8自走榴弾砲の砲塔に搭載した場合、75mm榴弾砲の俯仰角は−20〜+40度となっており、砲塔内にはこの砲を挟んで右側に装填手、左側に砲手が位置していた。
砲身の外周には保護スリーブが取り付けられており、一見するとかなり砲身が太く見えるが、実際の砲身は見かけよりもかなり細かった。
75mm榴弾砲M1A1は最大射程8,687mで高性能榴弾の他、対戦車用の成形炸薬弾(HEAT)、煙幕弾が発射できた。
この他に自衛用の武器として、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2が、砲塔上面後方右寄りに設置されたピントルマウントに装着されていた。
弾薬搭載数は75mm砲弾が46発、12.7mm機関銃弾が400発となっていた。
また、M8自走榴弾砲の後期生産車では車体側面の装甲スカートが標準装備となり、砲塔側面にはグローサーが装着されるようになった。
M5軽戦車譲りの優れた機動性能と適度な武装と、それに相応しい防御力を持ったM8自走榴弾砲は使用者に大変好評を博し、1943年中期以降イタリア戦線や北西ヨーロッパ戦線、それに太平洋戦線でも使用された。
ヨーロッパ戦線では中戦車大隊の本部中隊に配属され、山砲の曲射弾道の特性を活かした支援砲火を発揮した。
しかし、ドイツ兵が市街や塹壕陣地に篭もるようになると75mm榴弾砲では1発の威力が不足に思われ、後にM7 105mm自走榴弾砲や、1944年春以降に就役が開始されたM4中戦車の105mm榴弾砲搭載型に代替されることになる。
さらにM8自走榴弾砲は車体が小柄なため、搭載できる弾薬が少ないという欠点もあった。
そのため、通常は後方に弾薬運搬トレイラーを牽引していた。
M8自走榴弾砲はアメリカ軍以外では、イギリス軍や自由フランス軍部隊でも使用され、イギリス軍では米墨戦争の英雄であるウィンフィールド・スコット将軍に因んで、「ジェネラル・スコット」と称された。
またフランスにはさらに戦後も、アメリカ軍の余剰車両が追加して供与されている。
これらのM8自走榴弾砲は戦後、他のアメリカ軍供与のAFVと共に、1945〜54年にかけてフランスとヴェトナムが戦った第1次インドシナ戦争にも投入され、その後フランス軍が去った後、さらに南ヴェトナム軍がこれを引き継いで1960年代前半期まで使用していた。
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