+概要
M7 105mm自走榴弾砲は、アメリカ陸軍兵器局が機甲部隊を支援する機械化野戦砲兵の主要装備として、1941年6月より開発を計画したものである。
同時期に前後して企図された対戦車自走砲計画や、M12 155mm自走加農砲と同様に、当時のアメリカ陸軍の主力中戦車であったM3中戦車の車台をベースとする車両であった。
1941年10月、ペンシルヴェニア州エディストーンのBLW社(Baldwin Locomotive Works:ボールドウィン機関車製作所)に対して、「T32」の試作呼称でM3中戦車の車台を流用し、105mm榴弾砲を装備する自走榴弾砲の試作車2両の製作が指示された。
1942年初頭に完成したT32自走榴弾砲の試作車は、メリーランド州のアバディーン車両試験場でアメリカ陸軍の試験を受けた。
試験の結果は良好であったが、主砲の仰角があまり取れないことと対空火器の無いことだけが懸念された。
この結果、対空用として戦闘室前方右側へ、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2を取り付ける円筒形のマウントが設けられた。
このマウントの形状が教会の説教台に似ていたことから、M7自走榴弾砲を供与されたイギリス軍は本車に「プリースト」(Priest:司祭)という愛称を付けている。
T32自走榴弾砲は、M3中戦車の砲塔および車体右前面に配置された75mm戦車砲を取り払って、機関室より前方の車体上部に新たにオープントップ式の単純な戦闘室を設け、その前部右寄りに牽引式の105mm榴弾砲M2A1の砲架を、戦闘室のスペースに合うように切り詰めて固定具とするなどの改修を加えて、ほぼそのままの形で搭載していた。
105mm榴弾砲は限定旋回式で、旋回角は左が15度、右が30度となっていた。
105mm榴弾砲を搭載する車台としてはM3中戦車は充分に余裕があり、また戦闘室が単純な箱型だったこともあって戦闘室内の容積はかなり広く、7名の乗員と69発の105mm砲弾を搭載することが可能であった。
105mm砲弾は通常の榴弾の他に対戦車榴弾、発煙弾が用意されていた。
主砲の22.5口径105mm榴弾砲M2は、それまでの75mm加農砲に代わる野砲として1938年に開発された105mm榴弾砲M1の改良型で、1939年に制式化、翌40年に生産が開始されたものである。
弾頭重量14.98kgの榴弾を用いて発射速度は8発/分、最大射程は11,438mと当時としては優秀な火砲であり、第2次世界大戦後も西側各国で使用され、日本の陸上自衛隊にも装備されていた。
T32自走榴弾砲の生産型も、あっさりと最初の試作車のスタイルを踏襲した形でまとめ上げられ、1942年4月には「M7 105mm自走榴弾砲」(105mm
Howitzer Motor Carriage M7)として制式採用されている。
M7自走榴弾砲は制式化後、すぐにニューヨーク州スケネクタディのALCO社(American Locomotive Company:アメリカ機関車製作所)で生産が開始され、1942年中に2,028両が完成した。
その後生産ペースはダウンしたが、1944年10月までに同社で合計3,314両が完成している。
後期生産車ではM4中戦車と同じタイプのサスペンション・ボギーが用いられるようになり、小数にはM4中戦車と同じワンピース型のノウズ・カバーが使用されている。
1944年3月からは、M4A3中戦車の車台を使ったM7B1自走榴弾砲の生産が開始され、1945年2月までにペンシルヴェニア州ピッツバーグのPSC社(Pressed
Steel Car:圧延鋼板・自動車製作所)で826両が完成している。
続いて105mm榴弾砲の搭載位置を一段高くして、仰角を+65度まで取れるよう改修したM7B2自走榴弾砲が、オハイオ州ウォーレンのFMW社(Federal
Machine and Welder:機械・溶接企業連合)で1945年7月までに127両生産された。
これら3社合計のM7自走榴弾砲シリーズの総生産台数は、4,267両である。
M7自走榴弾砲は既存のM3中戦車の上部構造に、ほとんどそのまま野砲を搭載するような仕組みだったため生産は容易で、生産開始後わずか5カ月後の1942年9月に北アフリカのイギリス第8軍に90両が供与され、同年10月の第2次エル・アラメイン戦に投入されている。
その後も数百両が供与され、これらのM7自走榴弾砲は引き続きイギリス第8軍の自走野砲連隊に装備されて、イタリア戦線でも戦っている。
しかし、イギリス軍の装備体系には105mm榴弾砲が存在しないため、M7自走榴弾砲の105mm砲弾の供給はアメリカに頼らなければならず、弾薬の補給に支障が生じることがあった。
これを解決するため、イギリスはカナダ製のラム巡航戦車の車台を用いて、自軍の装備である25ポンド(87.6mm)榴弾砲を搭載する、M7自走榴弾砲と同様な自走榴弾砲「セクストン」(Sexton:寺男)を開発した。
1944年6月のノルマンディー戦以降は、イギリス軍は自走榴弾砲をセクストンに換装したためM7自走榴弾砲は余剰となり、105mm榴弾砲を撤去してカンガルー装甲兵員輸送車等に改造された。
アメリカ軍におけるM7自走榴弾砲の部隊配備は、チュニジアの機甲師団に配備されたのが最初である。
本格的な実戦投入はノルマンディー戦以後で、アメリカ陸軍機甲師団の自走野砲大隊に配属され活躍した。
なお同師団には、M7自走榴弾砲を18両持つ自走野砲大隊が3個含まれ、合計54両が配属されていた。
M7自走榴弾砲は使い勝手も良くて機械的信頼性も高かったが、ベースになったM3中戦車と同様にフロント・ドライブ/リア・エンジン型式を採ったため、戦闘室床下に長い推進軸を通さねばならず、105mm榴弾砲の仰角が+35度までしか取れないことが難点だった。
そのため榴弾を用いた場合の最大射程は10,400mに留まり、特にイタリア戦以降は斜面を使って車体そのものを傾けて仰角を増大させる方法が採られた。
車体下部はM3またはM4中戦車そのままなので、装甲厚も最大で4.25インチ(107.95mm)あり強力であったが、戦闘室の装甲厚はわずか0.5インチ(12.7mm)しかなかった。
しかも、初期生産車では戦闘室から砲弾ケースがはみ出しており誘爆の危険が高く、このため生産途中から、左右側面に砲弾ケースを保護するための起倒式装甲板が取り付けられた。
整備上は主力戦車と多くの部品が共通のため、また補給上は主力野砲と砲弾が共通のために、運用が容易な自走砲であった。
しかし105mm榴弾砲では軍団、軍レベルの大規模な作戦の主力野砲としては力不足であった。
その役割は、より大口径の砲を搭載するM12、M40、M43自走砲が担うことになる。
M7自走榴弾砲は第2次世界大戦終了後もアメリカ陸軍機甲師団に装備され、1950年6月に勃発した朝鮮戦争に投入されている。
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