1948年のイスラエル建国と共に創設されたイスラエル国防軍(IDF)は当初、ヨーロッパ各国で使い古されたアメリカ製のM4中戦車シリーズを買い集めることで戦車戦力を整備していったが、自走砲に関しては当初フランスからの導入を図った。 イスラエル軍が最初に装備した自走砲は、フランスから60両を購入したAMC105 105mm自走榴弾砲である。 この車両はフランスが1950年代初めに開発したAMX-13軽戦車の車体をベースとし、車体後部に密閉式戦闘室を設けてフランス製の23口径105mm榴弾砲M50を限定旋回式に搭載したもので、1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)に際してシナイ半島における戦闘に投入された。 加えて1960年代の半ばより、やはりフランスから断続的にアメリカ製のM7B1 105mm自走榴弾砲を合わせて購入して2個大隊に配備した。 このM7B1自走榴弾砲は元々第2次世界大戦中にイギリスが一旦アメリカから供与を受けたものの、後にカナダ製のセクストン25ポンド自走榴弾砲に装備改変した際に余剰になったためフランスに引き渡したものであった。 フランスは供与されたM7B1自走榴弾砲の内36両に対して1962年に、主砲の22.5口径105mm榴弾砲M2A1の砲身に改良を施して105mm榴弾砲M101用砲弾を発射できるよう改造していたが、イスラエルが購入したM7B1自走榴弾砲の一部の車両はこの改良型であった。 イスラエル軍は1967年までにM7B1自走榴弾砲の部隊配備を完了して、1973年の第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)に投入した。 その後、イスラエル軍はM7B1自走榴弾砲のエンジンをアメリカのカミンズ社製のVT8-460-B1 V型8気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力460hp)に換装し、併せてサスペンションをHVSS(Horizontal Volute Spring Suspension:水平渦巻スプリング・サスペンション)に改め、履帯も幅広型に変更する改修を実施したといわれる。 これらのM7B1自走榴弾砲は1990年末にイスラエル軍から退役したが、その時点で37両が残存していたといわれる。 前述のようにフランスから入手したAMC105およびM7B1自走榴弾砲を実戦に投入したイスラエル軍であったが、実戦での教訓からこれらの車両が装備する105mm榴弾砲は射程が不充分であることが指摘されたため、イスラエルは1950年代末期になってより長射程の大口径榴弾砲を装備する新型自走砲の国産開発に着手した。 しかし当時のイスラエルは自走砲を一から新規開発するには技術も経験も不足していたため、新型自走砲は主砲や車体の主要なコンポーネントを既存の外国製のものから流用して開発を進めることになった。 主砲については、当時フランスから導入されていた牽引式の155mm榴弾砲M50を車載化することになった。 この砲は戦後間もなくフランスが開発に着手し1950年に制式化したもので、砲身長比は30口径で砲身には多孔式の砲口制退機が取り付けられており、隔螺式閉鎖機と油気圧式復座装置を持っていた。 牽引砲の俯仰角は−4〜+69度で重量43kgの榴弾を使用した場合、砲口初速は650m/秒で最大射程は18,000m、発射速度は3〜4発/分というまずまずの能力を備えていた。 新型自走砲の車体については当時のイスラエル軍の主力MBTであり、M7B1自走榴弾砲のベースにもなっているM4中戦車シリーズの車体をベースに開発することになった。 これは、MBTと共通の車体を使用することで燃料、部品の調達や整備を容易にするためであった。 新型自走砲は車体後部に155mm榴弾砲を搭載する関係から、M4中戦車の車体をそのまま用いることは不可能だったため、元々車体後部に搭載されていたエンジンは車体前部右側に位置を変えることになった。 オリジナルの戦車型の場合、この部分には車体機関銃手兼副操縦手を収めていたのでスペース的には問題は無かった。 車体前面右側にあった車体機関銃は廃止され、代わりに換気用のヴェンチレイターが設けられた。 戦車型と同じく操縦手席は車体前部左側に配され、車体後部上面は大きく開口されて155mm榴弾砲M50が右寄りにオフセットして収められた。 155mm榴弾砲の周囲は装甲板で囲まれ、車体後端まで達するオープントップ式の大型戦闘室が形成された。 基本的なコンセプトは、アメリカが第2次大戦中にM3/M4中戦車をベースに開発したM12、M40などの155mm砲搭載自走砲とよく似ており、イスラエルがこれらの自走砲を参考にして開発を進めたことが窺える。 戦闘室後面には観音開き式の大型ハッチが設けられており、戦闘時にはハッチを開放して弾薬の装填作業を行うようになっていた。 またハッチの下の車体後面装甲板は後方に水平に倒せるようになっており、弾薬の装填や乗員の乗降の際にステップとして利用された。 戦闘室内には主砲を挟んで左側に砲手、右側に車長が位置し、砲手の後方には装填手が配された。 主砲の砲架下側には主弾薬庫が設けられており19〜20発の155mm砲弾を収容したのに加え、戦闘室の左右側面後部にもそれぞれ16発の155mm砲弾を収容する補助弾薬庫が設けられていた。 主砲の俯仰角と左右の旋回角は公表されていないが、砲自体が右寄りにオフセットして搭載されているため左右で旋回角が異なることは間違いなく、写真で見る限り最大仰角は+50度を越えている。 戦闘室前部の左右内側には機関銃のマウントが装着されており、7.62mm機関銃FN-MAGもしくは12.7mm重機関銃M2を任意に装着することができた。 また必要に応じて戦闘室上面の開口部には、カンヴァスを装着することも可能であった。 戦闘室の床とフェンダーとの間にできた車体側面の空間は収納スペースとして利用されており、戦闘室側面の下側には収納スペースの小ハッチが片側4個並んでいた。 新型自走砲の車体に流用されたのは、3分割式のディファレンシャル・カバーとVVSS(Vertical Volute Spring Suspension:垂直渦巻スプリング・サスペンション)を持ち、他のM4中戦車シリーズよりも車体が長いM4A4中戦車であったが、イスラエル軍のM4A4中戦車はオリジナルのクライスラー社製のA57マルチバンク・ガソリン・エンジンから、M4/M4A1中戦車と同じコンティネンタル社製のR-975 星型9気筒空冷ガソリン・エンジンに換装していた。 また自走砲に転用するにあたって、ディファレンシャル・カバーから後方にあたる車体上部は新たに設計されたものに替わり、操縦手用ハッチも中央に旋回式ペリスコープを備え、前部にヒンジを持つ角型のものに変更されている。 また、主砲の砲身下にあたる車体上面には起倒式のトラヴェリング・クランプが装着されていた。 新型自走砲は「M50 155mm自走榴弾砲」としてイスラエル軍に制式採用されて1963年から部隊への配備が開始され、第3次中東戦争(6日戦争)が勃発した1967年から実戦に投入されている。 また翌68年よりM50自走榴弾砲のエンジンをVT8-460-B1ディーゼル・エンジンに換装し、併せてサスペンションをHVSSに、履帯を幅広型に変更する改修が実施された。 このエンジン換装に伴いM50自走榴弾砲の車体前部はさらに持ち上げられた形状に改められ、機関室前方にあたる部分に大型のラジエイターを収めて、この部分にあたる車体構造の前面に吸気用グリルが新設されるなどかなりの外観的な変化が生じた。 このためオリジナルのエンジン搭載車を「M50 Mk.1」、エンジン換装車を「M50 Mk.2」として分類することもある。 エンジン換装型のM50自走榴弾砲は1973年のヨム・キプール戦争から実戦に投入されたが、その後間もなくアメリカからM109 155mm自走榴弾砲や、M110 8インチ(203mm)自走榴弾砲といった近代型自走砲が導入されたことを受けて順次退役が進められ、1990年代半ば頃には実戦部隊から姿を消した。 しかし、今なお120両程度のM50自走榴弾砲が予備装備として保管されているといわれている。 |
<M50 Mk.2 155mm自走榴弾砲> 全長: 6.10m 全幅: 2.98m 全高: 2.80m 全備重量: 31.0t 乗員: 8名 エンジン: カミンズVT8-460-B1 4ストロークV型8気筒液冷ディーゼル 最大出力: 460hp/2,600rpm 最大速度: 航続距離: 武装: 30口径155mm榴弾砲M50×1 (52発) 7.62mm機関銃FN-MAG×2 (2,000発)、または12.7mm重機関銃M2×2 (1,000発) 装甲厚: |
<参考文献> ・「グランドパワー2006年2月号 イスラエル軍のシャーマン(2)」 箙浩一 著 ガリレオ出版 ・「世界の軍用車輌(2) 装軌式自走砲:1946〜2000」 デルタ出版 ・「パンツァー2013年10月号 イスラエル国防軍の現状」 永井忠弘 著 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート18 メルカバとイスラエルMBT」 アルゴノート社 |