+概要
イタリア陸軍は1941年に、当時開発中であったM14/41中戦車の車台を流用し、53口径長という長砲身の90mm高射砲を搭載する新型自走砲の開発計画をスタートさせた。
この新型自走砲計画は、東部戦線に派遣されていたイタリア第8軍の対戦車火力不足を補うために立てられたものであった。
主砲に採用された90mm高射砲M39/41は、イタリア海軍の艦艇砲をベースに開発された対空/対地の両用砲で、ドイツ陸軍が対戦車砲としても多用した8.8cm高射砲のイタリア版ともいうべきものであり、砲口初速はこちらの方が幾分高速で非常に優秀な火砲であった。
すでにトリノのランチア自動車製のランチア3RO 4×2トラックや、ミラノのブレーダ社製のブレーダ41 6×4トラックにこの砲を搭載して自走化が図られていたが、装輪式トラックでは不整地における機動性に欠けるため、戦車を車台とした新型自走砲の開発に踏み切ったのは当然の流れであった。
前述のように車台はM14/41中戦車のものが流用されたが、従来のセモヴェンテに比べて大口径の砲を搭載するため、そのままの形で車台を用いることはできず、足周りのコンポーネントを流用しただけで大幅に設計が変更された。
重量バランスの関係で車体後部に砲を搭載するため、機関室は車体中央部に移されており、車台も約28cm延長されている。
このあたりの要領はドイツ陸軍の自走砲と全く同じだが、ドイツ陸軍が乗員の防御を考慮して砲の周囲を戦闘室で囲んだのに対し、本車では前面25mm、側/上面10mm厚の装甲板を用いた、大型の防盾を装備しただけの簡単なものとされたのが大きな相違点となっている。
車体の装甲厚はM14/41中戦車と同じで前面が30mm、側面が25mm、上/下面が6mmとなっていた。
車体後部はオープントップとされ、車内に台座を設けて90mm高射砲を搭載しており、車長を兼ねる砲手と装填手が砲を挟む形で左右に配された。
この戦闘区画の床下部分は砲弾の収納庫に充てられたが、大柄な90mm砲弾を収納するにはスペース的にかなり苦しく、わずか6発を収めるのが精一杯であった。
砲弾は、車体後面左右に設けられたドアから取り出すようになっていた。
なお90mm高射砲の車載化に際しては、砲架が改められて全体的な小型化と全高の低減が図られ、左右各40度ずつの旋回角、−5〜+24度の俯仰角を持っていた。
面白いことに砲の両側に旋回・俯仰ハンドルと照準機が備えられており、砲手と装填手のどちらでも射撃を行うことが可能となっていた。
車体後面には、射撃時に車体を安定させるための駐鋤の類は全く備えられていないため、射撃精度にはやや問題があったのではないかと思われる。
機関室の前には操縦室が設けられ、操縦手と無線手がそれぞれ独立した席に収まり、専用のハッチが備えられていたが全高が低いために、乗車時には常にハッチを開けておかなければならなかった。
車体長が伸びたために、足周り部分の配置はM14/41中戦車とは全く異なり、起動輪と第1ボギー、第1ボギーと第2ボギーの間隔が広く取られているのに対し、90mm砲という重量物が載るため、第2ボギーと誘導輪の間隔は逆に狭くなっていた。
本車の開発は1942年初頭にはあらかた終了し、「セモヴェンテM41M da 90/53」として制式化されて、同年4月からトリノのフィアット社とジェノヴァのアンサルド社の手で生産が開始された。
生産は1943年6月まで続けられたが、主砲となる90mm高射砲の生産数が少ないことと、M14/41中戦車の車体に大きく手を加えなければならないため、わずか30両が完成したに留まった。
本車は、装甲が脆弱という問題はあったものの主砲の威力は大きなものがあり、徹甲弾(弾頭重量10kg)を用いた場合の砲口初速は840m/秒で、射距離460mで143mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができ、当時の連合軍戦車ならアウトレンジで撃破することが可能であった。
なお携行弾数が6発と少なかったため、本車に随伴する装甲弾薬車がL6/40軽戦車を改造して製作されており、この弾薬車に26発、弾薬車が牽引する2輪のトレイラーに40発の、計66発の90mm砲弾を運搬することができた。
セモヴェンテM41M da 90/53は、当初の目的であった東部戦線には派遣されず、唯一本格的な実戦に投入されたのは、1943年7月10日に連合軍がシチリア島に上陸した際であった。
シチリア島へはセモヴェンテM41M da 90/53を装備する第161、第162、第163の3個大隊が送られており、第161大隊が、第4リヴォルノ師団とドイツ第15機甲擲弾兵師団の一部部隊が守る島の中央部沿岸、第162大隊が島の西部、第163大隊が島の東部というように分散して配置されていた。
なお各大隊は本車を8両装備し、本車1両と弾薬車1両で構成される射撃班4個から成る中隊2個を編制し、各中隊には指揮/観測車として2両のカルロ・コマンドも配備されていた。
上陸した連合軍と砲火を交えたセモヴェンテM41M da 90/53は、その火砲の威力に見合う活躍もできないまま撃破されていき、生き残った車両は鹵獲された。
鹵獲されたセモヴェンテM41M da 90/53の内、車両登録番号RE5825の車両はメリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器試験場に送られて試験に供され、現在も同地のアメリカ陸軍兵器博物館に展示されている。
いずれにせよ、セモヴェンテM41M da 90/53はイタリアが生んだ最強の対戦車自走砲という評価が与えられる傑作車両で、生産数の少なさが最大の欠点であった。
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