M3斥候車
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M3斥候車
M3A1斥候車
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+開発と生産
新型軽戦車や戦闘車の開発が指示され、アメリカ陸軍自体が本格的な機械化に向け歩み始めた1933年、オハイオ州クリーヴランドのホワイト自動車は、アメリカ陸軍兵器局より4輪の偵察用装甲車の開発依頼を受けた。
この車両には「T7斥候車」(T7 Scout Car)の試作呼称が与えられ、1934年に試作車が完成した。
T7偵察車はホワイト自動車製の民間向け4輪駆動トラックのシャシーを流用し、これに新設計の装甲ボディを架設して製作された。
装甲ボディの装甲厚は前面が0.5インチ(12.7mm)、側面が0.25インチ(6.35mm)、後面が0.303インチ(7.7mm)とされ、後部車体の前後壁面にピントルマウントを設けて、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2と、同社製の7.62mm機関銃M1919A4がそれぞれ2挺ずつ装備された。
また装甲ボディの形状は箱型でオープントップ式とされ、必要に応じて上面に幌を張ることができた。
機関室には、オハイオ州カントンのハーキュリーズ発動機製の直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力75hp)が収められ、戦闘重量は3.49tとそれまでのT1、T2斥候車を大きく上回っていた。
完成したT7斥候車の試作車は、1934年7〜11月にかけてメリーランド州のアバディーン車両試験場での試験に供され、偵察車両としては充分な能力を備えているとの判断が下されて、「M1斥候車」(M1
Scout Car)として制式化され、76両が発注された。
少々未消化な部分が散見できるものの、後に大量生産が行われることになるM3斥候車の基本レイアウトは、このM1斥候車でほぼ完成していた。
加えて、1934年8月にはインディアナ州インディアナポリスのマーモン・ヘリントン社で、詳細は不明だがT7斥候車の各部を簡略化した改修型が試作され、試験では重量配分や出力/重量比、そして最大速度などオリジナルのT7斥候車を上回ると判断されたものの、結局生産に移行すること無く終わっている。
続いて1935年には、M1斥候車をより大型化したT9斥候車の開発計画を、ノースカロライナ州ヘンダーソンのコービット社が兵器局に提出した。
このT9斥候車は、コービット社製の1.5tトラックのシャシーを流用して製作され、M1斥候車に酷似した装甲ボディが架設されたが、装甲厚は全周0.25インチに改められた。
機関室に収められた「コービット・エイト」と呼ばれる、ペンシルヴェニア州ウィリアムズポートのライカミング発動機製の直列8気筒液冷ガソリン・エンジンは最大出力94hpを発揮し、それでいながら戦闘重量は3.58tとわずかな増加に留まったものの、路上最大速度は50マイル(80.47km)/hと決して充分とはいい難かった。
T9斥候車は試作車に続いて1両の生産型が製作され、1935年3〜8月にかけてアバディーン車両試験場での試験が実施された後、不整地走行能力はM1斥候車を上回ると判断されて1938年3月28日付で22両が発注され、「M2斥候車」(M2
Scout Car)として制式化された。
M2斥候車は機械化騎兵部隊の訓練用車両として使用されたが、続いてM2斥候車の改良型であるM2E1斥候車が製作された。
このM2E1斥候車は基本的にM2斥候車と同仕様であったが、車軸が強化型に換装され、操縦室の座席位置が下げられたのに加えて、後部車体の内壁上端部にスケートレールと、機関銃用のピントルマウントを新設した点が異なっていた。
M2E1斥候車は1937年9月からアバディーン車両試験場において、後述するM2A1斥候車およびT13斥候車との比較試験に供され、T13斥候車よりも優れるとの評価がなされたものの、結局試作車2両の製作に留まった。
M2E1斥候車と並行する形で開発が進められた、M2斥候車の改良型がM2A1斥候車で、乗員の防御力強化を目的に操縦室前面の装甲厚が0.5インチに増大され、さらに不整地における走行能力の強化を目的に4輪駆動式とされ、これは不整地での航続距離の増大にも繋がった。
併せて操縦手席側面の装甲板形状が改められて、M2E1斥候車と同様に後部車体の内壁にスケートレールと、機関銃マウントを設けるなどの改良が盛り込まれた。
さらにエンジンは、ハーキュリーズ発動機製のJXD 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力95hp)に換装され、路上最大速度は60マイル(96.56km)/hへと向上を見せている。
なお乗降の便を図って、車体後面の中央部に左開き式の乗降用ドアが設けられたのも特徴である。
ホワイト自動車で製作されたM2A1斥候車の試作車は、アバディーン車両試験場での試験を終えた後に「M3斥候車」(M3 Scout Car)として制式化され、1937年度会計予算において38両が発注されたのを皮切りに、1938年度会計予算で39両、1939年度会計予算で25両が発注されたが、その後の生産は改良型のM3A1斥候車に切り替えられている。
続いて1937年にマーモン・ヘリントン社は、ミシガン州ディアボーンのフォード自動車製の1.5t乗用車シャシーを用いたT13斥候車を製作した。
装甲ボディは、前作であるM2A1斥候車と共通するものが用いられたが、装甲厚は全周0.25インチに改められ、機関室には出力85hpのV型8気筒液冷ガソリン・エンジンが収められた。
また武装はM2A1斥候車と同様に、後部車体の内壁に設けられたスケートレールに機関銃用のピントルマウントが装着されたが、12.7mm重機関銃M2
1挺のみが標準装備とされた。
完成したT13斥候車の試作車は、アバディーン車両試験場においてM2E1斥候車とM2A1斥候車との比較試験に供されたが、採用されること無く終わった。
ただし州軍向けとして38両のT13斥候車が発注され、引き渡された完成車は訓練任務に供されている。
アメリカ陸軍向けの装輪式装甲車として、初めて大量生産が行われたM3斥候車ではあったが、実際にはわずか102両が完成したに過ぎなかった。
つまり戦力と呼べるような存在では無かったのだが、これは、生産初期の段階で改良型であるM3A1斥候車に生産が切り換えられたためで、決してM3斥候車の能力に問題があったわけではない。
この本格量産型であるM3A1斥候車は、基本的にはM3斥候車に準じる車両であったが、当然ながら一部に変化も確認できる。
まず車内容積の拡大を図って、兵員室にあたる後部キャビン部分の装甲ボディが拡大された。
この変更により、それまで車体側面に張り出していた板状の後部車輪フェンダーは姿を消し、装甲ボディ内に後部車輪が収まる形になった。
この車体拡大に合わせて操縦室も左右部分が拡大され、上方から見た場合、乗降用ドア部分がそれまでの直線から後方に傾斜した形状に変わった。
また車体形状ほどの変化ではないが、M3斥候車では装甲キャビン内壁のほぼ上端部に設けられていた機関銃マウント用のスケートレールが、M3A1斥候車では若干下がった位置に変更されており、これらの変化により両型の識別は極めて容易い。
さらに、M3A1斥候車では車体後面に設けられていた乗降用ドアが廃止され、装甲キャビン内のレイアウトも中央部に前後に2列ずつの座席を設け、左右に弾薬の収納箱が配されるというスタイルに変わった。
さらに、シャシー前端のバンパー中央部には超堤の便を図って回転式ローラーが新設され、外見からは分からないが超堤能力の向上を図って、前部車軸のバンパーに用いられているスプリングの取り付けローラーを、強化型に換えるといった改良も行われている。
またエンジンについても、M3斥候車と同じハーキュリーズ発動機製のJXD 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンながら、圧縮率を5.78から5.88に引き上げることで出力を95hpから110hpに向上させたタイプが搭載された。
さらに同社製のDJXDエンジン(出力81hp)もしくは、イリノイ州ハーヴェイのブダ発動機製の6DT-317エンジン(出力81hp)の、ディーゼル・エンジンを搭載したタイプのM3A1斥候車も作られている。
M3A1斥候車の生産型第1号車がいつ完成したかは不明だが、1939年10月13日付のOCM(装備委員会議事録)により、装備番号「15403」が与えられているのでそれに先立つことになる。
そしてM3斥候車に代わる形で、ホワイト自動車において1939年秋から生産が開始され、1944年3月の生産終了までに総数20,894両が完成した。
なお1945年2月1日付の記録によると、これらの完成車の内11,440両は、レンドリース法に従い各国に供与されており、そのうち判明しているのはイギリス向けとして6,987両、ソ連向けが3,310両、そして中国向けが104両で、残りは自由フランス軍などに引き渡されたのであろう。
M3/M3A1斥候車はアメリカ陸軍の機械化騎兵部隊を中心に配備されたが、指揮車や後方地域のパトロール、輸送部隊のエスコートなど多目的車としても使用されている。
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+構造
角型の装甲ボディを備えたM3/M3A1斥候車は、いかにも軍用車然としていたものの、その実態は4輪駆動トラックのシャシーに装甲ボディを架設したものに過ぎず、後に登場したM6装甲車やM8装甲車などの、新規に開発された専用シャシーを用いる装輪式装甲車とは一線を画する存在だった。
一部に強化などが施されてはいたものの、シャシーを含めた足周りは民生車そのもので、基本的なレイアウトは装甲ボディ以外民間向けのトラックに共通していた。
M3/M3A1斥候車のシャシーは、常識的なコの字型のフレームを左右に配して前後にバンパーを装着し、加えてフレームの内側に補強用のクロスメンバーを2カ所に配するという、通常のトラック向けシャシーと何ら変わらないレイアウトを採っていた。
シャシーの前部には、ハーキュリーズ発動機製のJXD 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量5,244cc)が補機類共々収められ、エンジンの前方に冷却ファンを間に挟み、ラジエイターを立てた状態で収容するという、これまた市販のトラックと何ら変わる所は無いスタイルであった。
ただしM3A1斥候車は生産の初期段階において、エンジンに関して3種類の選択肢が考慮された。
まず生産型第1号車は、試作車と同じハーキュリーズ発動機製のJXDガソリン・エンジンを備えて完成したが、続く第2号車は装備局からの要求に応じる形で、ブダ発動機製の6DT-317ディーゼル・エンジンを搭載して完成し、アバディーン車両試験場での試験に供され、1939年11月9日付のOCM15471において「M3A1E1斥候車」(M3A1E1
Scout Car)の呼称が与えられた。
さらにこれと並行する形で、ハーキュリーズ発動機が開発したDJXDディーゼル・エンジンが他のM3A1斥候車に搭載され、同じくアバディーン車両試験場において試験が実施された。
この両ディーゼル・エンジン搭載車の試験結果は良好だったようで、1940年7月3日付のOCM15948で100両のM3A1斥候車に搭載することが明文化された。
ただしエンジンを換装したとはいうものの、その制式呼称は「M3A1斥候車」のままとされ内訳に関しては不明だが、常識的に考えると50両ずつが、それぞれ異なるディーゼル・エンジンを備えて完成したと見るのが妥当であろう。
そしてこのディーゼル・エンジン搭載車は全て、第3軍傘下の部隊に配備されて運用試験が行われたが、その詳細に関しては不明である。
なお、ディーゼル・エンジン搭載車はガソリン・エンジンよりもトルクが高く高速回転なので、ガソリン・エンジン搭載車では1個だった12Vのバッテリーが2個に増え、併せて計器盤に設けられているバッテリーの操作スイッチも、2本が横に並ぶ形で配された。
そしてエンジンの始動ボタンとケーブルで結ばれ、エンジンの始動に際しては同時に24Vの電流が送られ、始動ボタンを離すと通常の12Vに戻るという方式が採られていた。
なお、バッテリーはガソリン・エンジン搭載車の場合、操縦室右側の乗降用ステップ前方に箱に収められた状態で装備されたが、ディーゼル・エンジン搭載車では左側ステップの前方に同じ状態で追加されたので、両型の識別点となっている。
さらにOCM15948において、M3A1斥候車のディーゼル・エンジン搭載型を「M3A2斥候車」(M3A2 Scout Car)として制式化するとの通達が出されたことを受け、ハーキュリーズ発動機は出力増大型のディーゼル・エンジンDWXDの開発に着手したものの、1942年3月12日付のOCM17919により計画の必要性が消失したとされて、開発中止が決定された。
実際に、このDWXDディーゼル・エンジンを搭載したM3A1E5斥候車(車両登録番号:609926)が試作されて、アバディーン車両試験場での試験に供されたものの、1942年4月20日付のOCM18134で、M3A1斥候車に対するディーゼル・エンジン搭載計画自体が破棄されてしまった。
しかし、完成したM3A1E5斥候車の試作車の試験はその後も続けられ、各種新装備のテストベッド車として様々な試験が実施されて、1944年初めにはスチュードベイカー車両試験場での存在が確認されている。
このような紆余曲折を経ながら、当初完成した100両のディーゼル・エンジン搭載型のM3A1斥候車は、運用試験終了後にホワイト自動車に戻されて、各種コンポーネントを他の生産車に供給して姿を消した。
エンジンの後方には、クラーク装備社の手になる非シンクロ式コンスタントメッシュ方式の230-F変速機(前進4段/後進1段)が直結され、さらに、その後方に配されたギア比1.00:1(高)、1.87:1(低)2段のトランスファーケースに駆動軸を伸ばし、アクセル社製のトランスファー(M3偵察車はT-32-9、M3A1偵察車は改良型のT-32-15)を介して、前後の車軸に動力が伝えられた。
この機構によりM3/M3A1斥候車は4輪駆動を可能としたが、2輪駆動に切り替えることはできず、ドイツ陸軍の4輪装甲車のような前、後輪の操向機構は備えていない。
悪くいえば極めて平凡な機構だが、反面コストの低減や、高い整備性と信頼性などを備えていたことは間違いないだろう。
なお変速機のギア比は1速が5.000:1で、以下2速が3.070:1、3速が1.710:1、4速が1.000:1、そして後進が5.830:1であった。
M3/M3A1斥候車の懸架装置には、これまた民生トラックと同じく常識的なリーフ・スプリング(板ばね)が前後車軸に装着され、車軸端には8.25×20インチで12層のコンバットタイヤが装着された。
M3斥候車のトレッドは前/後輪とも63.75インチ(1.619m)、最小旋回直径は29.25フィート(8.915m)、M3A1斥候車のトレッドは前輪が63.25インチ(1.607m)、後輪が65.25インチ(1.657m)、最小旋回直径は57フィート(17.374m)で、前/後輪とも、圧搾空気を用いて操縦手のペダル踏み量を低減するバキュームサーボ機構が装備されていたが、これは当時の車両としては珍しい例でもあった。
なお、トランスファーケースを跨いで左右に分ける形で2個の燃料タンクが置かれ、合わせて204リットルのオクタン価72の燃料が収容された。
またM3A1斥候車の生産型では、前作であるM3斥候車には未装備だった傾斜地向けの装備として、前部バンパーに旋回可能なローラーが標準装備された。
M3/M3A1斥候車の装甲ボディは前部に機関室を配し、その後方を操縦室を含めたキャビンとしており、機関室の前面に配された4枚の開閉式装甲シャッターを含めて、全周0.25インチ厚の均質圧延装甲板をリベット接合して構成され、前輪の大きく湾曲したフェンダーのみ0.5インチ厚のプレス製とされた。
操縦室のウィンドウは、中央の支柱で左右に分かれた通常の透明ガラスが用いられたが、戦闘時を考慮して、上開き式の0.25インチ厚の開閉式装甲板が備えられていた。
開閉式装甲板の左右中央部には、視界を確保するために長方形のスリットが設けられていたが、その開口部には上下スライド式の装甲蓋を備えていた。
なお通常時の走行に際しては、開閉式装甲板は上方に跳ね上げられて、ボンネット上部に設けられた起倒式の支柱3本で水平位置に固定された。
なお、支柱の飛び出しを避けるために右側の2本の支柱は左に倒され、左側の支柱は右に倒された。
また、操縦室の左右には前開き式の乗降用ドアが設けられていたが、左右にウィンドウは無く、ドア上部を下方に倒れる起倒式として、その中央部にスリットを設けて視界を得るという方式が採られた。
このスリット部分にも、前面と同様にスライド式の装甲蓋が装着されていた。
M3/M3A1斥候車が備える武装は、全て車体後部の装甲キャビン内に収められた。
装甲キャビンの内壁には、全周に渡って機関銃マウント用のスケートレールが備えられており、このレールに専用のピントルマウントを介して、12.7mm重機関銃M2と7.62mm機関銃M1919A4が各1挺(標準)ずつ装着された。
併せてキャビン内には12.7mm重機関銃弾750発と、7.62mm機関銃弾8,000発がそれぞれ収められ、加えて自衛用として、コネティカット州ブリッジポートのオート・オードナンス社製の11.4mm短機関銃M1928A1/M1A1と、その弾薬540発を収容していた。
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+派生型
アメリカ陸軍は大量生産とはいえないまでも、曲がりなりにもある程度が生産されたM3斥候車の汎用性を高めるために、迫撃砲を搭載する火力支援型の開発を計画した。
まず最初に製作されたのは、マーモン・ヘリントン社の手になる4輪乗用車に、4.2インチ(107mm)迫撃砲M1を搭載したT5自走迫撃砲であった。
この車両は迫撃砲搭載のために車体後部が後方に延ばされ、その延長部に4.2インチ迫撃砲M1が載せられた。
また自衛用として、後部座席と延長部の間に支柱を立てて7.62mm機関銃M1919A4が1挺装備された。
なお必要に応じて、迫撃砲は車体後方に引き出して車外からの射撃を可能としていたが、このため車体後面の中央部にはドアが設けられていたようである。
T5自走迫撃砲による試験を経て、後にこの4.2インチ迫撃砲M1はM3斥候車の生産型に搭載され、「T5E1」の試作呼称が与えられた。
元々M3斥候車は、装甲キャビン内に6名の兵員を収容できるように設計されていたため内容積が大きく、装甲キャビンの内壁に備えられている機関銃マウント用のスケートレールを撤去して、内部に迫撃砲と操作員用の座席2基、左右への弾薬箱などが収められた。
またM3斥候車は当初から、車体後面の中央部に左開き式の大きな乗降用ドアが設けられていたので、迫撃砲を簡単に引き出すことができた。
期日は明らかにされていないが、T5E1自走迫撃砲はアメリカ陸軍に制式採用されて、「M2 4.2インチ自走迫撃砲」(4.2in Mortar Motor
Carriage M2)の制式呼称が与えられた。
ただし、その生産数に関しては不明である。
続いて1935年には、アメリカ陸軍騎兵部隊から機械化騎兵向けとして、81mm迫撃砲M1を搭載する装輪式自走砲の開発が要求された。
この要求に応える形で、装輪式装甲車への81mm迫撃砲搭載に関する研究が開始され、1937年には4輪駆動式0.5tトラックのシャシーに、81mm迫撃砲を収める装甲ボディを架設した装輪式自走砲の開発が検討されたものの、新規開発より既存の車両を流用する方が得策との判断が下されて、M3斥候車への81mm迫撃砲搭載が決定され「T1」の試作呼称が与えられた。
当然ながら前述のT5/T5E1自走迫撃砲と同様に、T1自走迫撃砲は車外からの迫撃砲射撃も可能とされていた。
そして1940年5月16日付のOCM15805において、改良型のM3A1斥候車への81mm迫撃砲搭載が明文化されたが、後により不整地走行能力に優れる半装軌式のM3ハーフトラックを、81mm自走迫撃砲のベース車体とするよう方針が変更され、これは同年10月に「M4
81mm自走迫撃砲」(81mm Mortar Motor Carriage M4)として制式化された。
そしてM3A1斥候車への81mm迫撃砲搭載は、結局実ること無く終わっている。
M3/M3A1斥候車の装甲ボディは、操縦室と後部キャビン共々オープントップだったが、弾片などにより乗員が被弾するとの危惧から、開口部を覆った防御力強化型が試作された。
それが、1940年10月3日付のOCM16161によるM3A1E2斥候車である。
まず最初にカバーの木製実大モックアップが製作され、審査が実施された。
この木製モックアップでは、平板の周囲にコの字型に細板を取り付けてカバーとし、装甲キャビンの後端に短い支柱を立てて操縦室のウィンドウの上に載せるという、極めて単純なスタイルが採られた。
側面に少々隙間は生じるものの、操縦室と装甲キャビンの上方は完全にカバーされ、確かに効果はありそうである。
しかし審査では、このままの状態では機関銃の射撃角が大きく制限されてしまうとの指摘が出され、加えて前方の視界不良も問題視された。
このため、0.25インチ厚の鋼板を用いて製作された実物のカバーは上方に持ち上げられ、さらにカバーの周囲はヒンジを介して上方に跳ね上げることが可能とされて、周囲への射撃の便の向上が図られた。
期日は不明だが、鋼板製のカバーを装着したM3A1E2斥候車(車両登録番号:W-601944)は、1941年にアバディーン車両試験場で6カ月間の試験が実施された。
そして、この試験を終えた後に提出された報告書では、0.25インチ厚の鋼板では防御力が不充分で、しかしながらカバーの装甲厚を増加すると重量が増大して、走行性能に悪影響を及ぼすとされた。
このため、1942年1月8日付のOCM17611においてM3A1E2計画の中止が通達され、M3A1斥候車の上方防御は具現すること無く終焉を迎えた。
しかし、実際にM3/M3A1斥候車が戦場で運用されると、オープントップでは乗員が被害を被るという問題が多発したため、前線部隊の手で様々な上方防御措置が採られることとなった。
M3A1E2斥候車に続いて試作されたのがM3A1E3対戦車自走砲で、アメリカ陸軍騎兵部隊の主力装備であるM3A1斥候車の火力支援を目的として、53.5口径37mm対戦車砲M3を搭載したのがその変化である。
開発に関する詳細は不明だが、1940年11月14日付のOCM16261において「M3A1E3」の試作呼称が与えられているので、それ以前から開発が開始されていたことは間違いない。
37mm対戦車砲M3は、操縦室直後にあたる装甲キャビンの中央部に3脚式の支柱を設け、T6砲架を介して搭載された。
なお、M3A1E3対戦車自走砲の試作車に供されたのはM3A1斥候車の生産型第130号車で、「W-60653」の車両登録番号が与えられていた。
1940年末もしくは1941年初めにアバディーン車両試験場で試験が実施され、その評価に応える形で砲架が改良型のM25砲架に換装され、搭載位置もやや後方に移されるなどの改良が図られた。
しかし試験では、M3A1斥候車に37mm対戦車砲を搭載すること自体の意義が薄れたのに加えて、37mm対戦車砲搭載による重量増加で走行性能が低下し、さらにシルエットが高くなることで遠方からでも発見され易くなることも問題と判断が下され、期日は不明だが1941年にM3A1E3計画は破棄された。
一方ドイツ陸軍は第2次世界大戦中に、半装軌式のSd.Kfz.250およびSd.Kfz.251装甲兵員輸送車に、ドイツのラインメタル・ボルジヒ社製の45口径3.7cm対戦車砲PaK36を搭載した火力支援型を実戦化しており、アメリカとドイツの両陸軍の考え方の違いが興味深い。
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<M3斥候車>
全長: 5.144m
全幅: 2.041m
全高: 2.057m
全備重量: 4.518t
乗員: 2名
兵員: 6名
エンジン: ハーキュリーズJXD 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 95hp/3,000rpm
最大速度: 96.56km/h
航続距離: 402km
武装: 12.7mm重機関銃M2×1 (750発)
7.62mm機関銃M1919A4×1 (8,000発)
装甲厚: 6.35〜12.7mm
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<M3A1斥候車>
全長: 5.626m
全幅: 2.032m
全高: 1.994m
全備重量: 5.625t
乗員: 2名
兵員: 6名
エンジン: ハーキュリーズJXD 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 110hp/3,200rpm
最大速度: 88.51km/h
航続距離: 402km
武装: 12.7mm重機関銃M2×1 (750発)
7.62mm機関銃M1919A4×1 (8,000発)
装甲厚: 6.35〜12.7mm
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<M2 4.2インチ自走迫撃砲>
全長: 5.144m
全幅: 2.041m
全高: 2.057m
全備重量: 3.479t
乗員: 5名
エンジン: ハーキュリーズJXD 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 95hp/3,000rpm
最大速度: 96.56km/h
航続距離: 402km
武装: 4.2インチ迫撃砲M1A1×1
7.62mm機関銃M1919A4×1
装甲厚: 6.35〜12.7mm
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<参考文献>
・「パンツァー2000年1月号 ソ連・ロシア装甲車史(6) 装甲車の黄金時代の終焉」 古是三春 著 アルゴノート
社
・「パンツァー2001年1月号 M8装甲車の総て その開発から構造、派生車まで」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー2016年11月号 M3ハーフトラック・シリーズ・インアクション」 水野靖夫 著 アルゴノート社
・「パンツァー2019年9月号 M3A1 SCOUT CAR」 吉村誠 著 アルゴノート社
・「戦闘車輌大百科」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2020年3月号 赤の広場のソ連戦闘車輌写真集(3)」 山本敬一 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2014年1月号 第2次大戦 アメリカ装輪装甲車」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2019年2月号 米軍装輪装甲車開発史」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 米英軍戦闘兵器カタログ Vol.4 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版 ・「アメリカ・イギリス陸軍兵器集 Vol.2 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(4) 装輪式装甲車輌:1904〜2000」 デルタ出版
・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版 ・「世界の戦車パーフェクトBOOK」 コスミック出版
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