+概要
M3 75mm対戦車自走砲は、M3ハーフトラックの派生型の中で最初に実用化されたもので、「T12」の試作呼称で、ペンシルヴェニア州アードモアのオート・カー社の手で1941年に開発が開始された。
当時アメリカ陸軍は、50口径3インチ(76.2mm)高射砲M3を搭載する全装軌式の対戦車自走砲(後のM10対戦車自走砲)の開発を進めていたが、T12対戦車自走砲はこの全装軌式対戦車自走砲が完成するまでの繋ぎ役と考えられていた。
T12対戦車自走砲は、M3ハーフトラックの操縦室の背後に溶接組み立てによるシャシーフレーム直結の砲架を設け、ここに牽引型の36口径75mm野戦加農砲M1897A4の揺架から上を搭載していた。
75mm野戦加農砲M1897A4は、第1次世界大戦で活躍したフランスのAPX社(Atelier de Construction de Puteaux:ピュトー工廠)製の75mm野戦加農砲M1897を、アメリカで改良ライセンス生産したものであるが、この頃にはすでに旧式化していたため、廃物利用的な感覚で本車の主砲に転用されたわけである。
T12対戦車自走砲は1941年7月に増加試作車36両が発注され、これらを用いて試験を行った後1941年10月31日に、「M3 75mm自走加農砲」(75mm
Gun Motor Carriage M3)として制式化された。
第1生産ロットの車両は、M2A3砲架を用いた牽引型の75mm野戦加農砲M1897A4と同じ防盾を使用した。
しかし、これでは防盾が小さ過ぎて砲要員の防護が不充分であったため、1942年にはより防護に優れた大型の防盾に変更された。
M4中戦車の車体をベースとし、3インチ戦車砲M7を装備する全装軌式のM10対戦車自走砲の量産が1942年9月から開始されたため、M3対戦車自走砲の量産は1943年10月で打ち切られた。
M3対戦車自走砲の最終生産ロットはM2A3砲架の牽引砲のストックが底をついたため、旧式のM2A2砲架の牽引砲を使用して改造された。
この最終ロット分は「M3A1 75mm自走加農砲」として制式化されたが、M3A1ハーフトラックとは何も関連が無い。
M3対戦車自走砲は1941年に86両、1942年に1,350両、1943年に766両の合計2,202両がオート・カー社で生産された。
この中には、M3A1対戦車自走砲の生産数も含まれている。
M3対戦車自走砲は、1941年12月にフィリピンで日本軍相手に初の実戦を経験した。
数両のT12対戦車自走砲を含む、50両の対戦車自走砲が1941年11〜12月にかけて前線へと急送され、3個大隊から成る臨時野戦砲兵旅団を構成した。
日本軍のフィリピン侵攻に伴って、M3対戦車自走砲は直接火力支援と対戦車戦闘に重用された。
バターン半島における日本軍との戦闘において、ゴードン・ペック大尉の自走砲中隊は臨時戦車集団の支援に抜群の功績を示してその名を知られた。
1942年4月にバターン半島のアメリカ軍が降伏すると、日本軍は鹵獲したM3対戦車自走砲を修理して自軍編制に組み入れ、これらは1944〜45年のフィリピン奪還戦でアメリカ軍に砲火を浴びせている。
M3対戦車自走砲は、1942年にアメリカ陸軍に新編された戦車駆逐大隊の中核を成す兵器であった。
戦車駆逐大隊は当初M3 75mm対戦車自走砲8両、M5 75mm対戦車自走砲6両、M6 37mm対戦車自走砲4両を装備定数としていた。
これらの兵器の中で、M3対戦車自走砲以外の2つは部隊での評判が良くなかった。
M5対戦車自走砲は、クリートラック航空機牽引車に75mm野戦加農砲M1897A4を搭載したもので、その風変わりなデザインから「クリーク・トラック」と蔑称されていた。
アメリカ陸軍の戦車駆逐軍団本部はM5対戦車自走砲の部隊配備を拒んだため、代わりにM3対戦車自走砲が充当されることになった。
1943年1月の編制装備表では、M3対戦車自走砲の装備数は1個戦車駆逐大隊当たり36両となっていた。
もう1つのM6対戦車自走砲は、3/4tトラックの荷台に53.5口径37mm対戦車砲M3を搭載したものであったが、37mm対戦車砲は対装甲威力が低過ぎてドイツ軍戦車に歯が立たない上、ベース車体が装輪式トラックであるために不整地での機動力が低く、M6対戦車自走砲は部隊での評価が非常に低かった。
幾つかの大隊ではM6対戦車自走砲から37mm対戦車砲を取り外し、M3ハーフトラックに積み替えていた。
1942年11月に実施された北アフリカ反攻作戦(Operation Torch:松明作戦)開始前の時点で、アメリカ陸軍の6個戦車駆逐大隊の内、新型のM10対戦車自走砲が配備されていたのは1個大隊だけであり、残りの5個大隊はM3対戦車自走砲をもって作戦に臨んだ。
M3対戦車自走砲は、壊滅的な損害を喫したシジブジおよびカセリーヌ峠付近の激戦に投入された。
アメリカ陸軍はM3対戦車自走砲の戦いぶりを失敗と判定したが、その主たる原因は対戦車自走砲が当初想定されていたものとは異なる、不適切な任務に投入されたことによるものであった。
AGF(Army Ground Force:アメリカ陸軍地上軍)はその報告書で、「第601および第701戦車駆逐大隊は、総じてその設計目的とは異なる任務に投入された。
それらは歩兵随伴支援、突撃砲としての強攻、戦車に随伴しての突撃砲兵任務といったものであり、また縦深防御ではなく警戒線防御が命じられた」と事情を明らかにしている。
M3対戦車自走砲に当初想定された任務とは、隠蔽された射撃陣地による敵戦車の待ち伏せであり、この方法を採ることでこそ弱装甲をカバーできたのである。
M3対戦車自走砲の名誉挽回のチャンスは、1943年3月に訪れた。
第601戦車駆逐大隊は、エル・ゲタール付近のアメリカ第1歩兵師団に対する、ドイツ第10機甲師団の戦車100両による猛攻を撃退してみせたのである。
同大隊は21両のM3対戦車自走砲を失ったのと引き換えに、ティーガーI戦車2両を含むドイツ軍戦車30両破壊の戦果を挙げたとしている。
戦車駆逐大隊の一部は、1943年7月のシチリア島上陸を目指したハスキー作戦時にM3対戦車自走砲を受領した。
しかし、すでにM10対戦車自走砲が対戦車任務に優れた功績を示していたことで、M3対戦車自走砲は専ら火力支援任務に用いられた。
ハスキー作戦後には、M3対戦車自走砲が第一線の戦車駆逐大隊で戦うことは無くなり、M10対戦車自走砲により装備変換されていった。
1943年の後半に、アメリカ陸軍は1,360両のM3対戦車自走砲を改造してM3A1ハーフトラックへと戻すことを命じており、実際に戦車駆逐大隊に引き渡されたM3対戦車自走砲は842両を超えなかったといわれる。
アメリカ陸軍ではお役御免になったものの、M3対戦車自走砲はアメリカ海兵隊では使用を続けられ、1944年夏のサイパン島上陸作戦を皮切りに活躍した。
各海兵師団は、M3対戦車自走砲を12両装備していた。
M3対戦車自走砲は海兵隊では「SPM」(Self-Propelled Mounts:自走砲架)と呼ばれ、直協火力支援に用いられた。
サイパン戦の初期の戦闘では、M3対戦車自走砲は本来の任務である対戦車戦闘に投入され、1944年6月16〜17日にかけて敢行された日本軍第九戦車連隊による夜襲攻撃を撃退するのに役立った。
ヨーロッパの戦場では旧式兵器と成り下がっていたものの、M3対戦車自走砲が装備する75mm加農砲は、装甲の薄い日本軍の九五式軽戦車や九七式中戦車相手には未だ充分な威力を示したのである。
M3対戦車自走砲は、ペリリュー島攻略や沖縄作戦にも投入された。
M3対戦車自走砲は、同じくM3ハーフトラックをベースとするT48 57mm対戦車自走砲とは異なり、レンドリース供与にはあまり回されなかった。
M10対戦車自走砲が戦車駆逐大隊の主力装備となると、余剰となったM3対戦車自走砲は170両がイギリス陸軍に送られ、装甲車連隊の重火器小隊に配備された。
イギリス軍において、M3対戦車自走砲は生産メーカーの名を採って「75mm対戦車自走砲オート・カー」と呼ばれた。
イギリス陸軍におけるM3対戦車自走砲の初陣は、1943年のチュニジア戦における王立竜騎兵連隊によるものであった。
また、イギリス陸軍はイタリア戦線でもM3対戦車自走砲を広く用いた。
1944年のフランス戦線に配備されたM3対戦車自走砲の数は少なく、これも次第に損耗して消えていった。
また自由フランス軍はアメリカからM10対戦車自走砲を受領する前に、北アフリカにおいてM3対戦車自走砲を用いて訓練を実施している。
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