+概要
アメリカ陸軍におけるハーフトラックの歴史は、1925年に陸軍兵器局がフランスのシトロエン社からケグレス・ハーフトラック2両を購入したことに端を発する。
続いて1931年5月に、改良型であるケグレスP.17ハーフトラックを導入して試験を行った結果、装輪式トラックに比べて路外での走行性能が優れていることが確認されたため、アメリカ陸軍はハーフトラックを国産開発することを決め、ニューヨーク州ロチェスターのジェイムズ・カニンガム社に開発要求を出した。
カニンガム社は、民需用トラックをベースとして最初の試作車であるT1ハーフトラックを1932年12月に完成させたが、続いて、このT1ハーフトラックに一部改良を加えたT1E1ハーフトラックがイリノイ州のロックアイランド工廠で開発され、1933年1月16日に「M1ハーフトラック」として制式化された。
続いて、アメリカ陸軍は1933年からさらに本格的なハーフトラックの開発に着手し、リン、GMC、マーモン・ヘリントンの3社が開発に参画した。
この中から、インディアナ州インディアナポリスのマーモン・ヘリントン社が開発したT9ハーフトラックが有望視され、この車台をベースとして、M3偵察車の装甲ボディを載せた試作車が1938年に開発された。
これがT7ハーフトラックであるが、試験ではエンジンの出力不足が判明したため、1939年12月に機械化騎兵委員会の要求仕様に基づいて、イリノイ州シカゴのダイアモンドT自動車の手でエンジンの強化などを図った改良型のT14ハーフトラックが開発され、1940年8月に「M2兵員輸送・火砲牽引ハーフトラック」として制式化が行われた。
装輪式のM3A1偵察車をハーフトラックとしたようなスタイルにまとめられたM2ハーフトラックは、車体前部の操縦室に操縦手を含む3名が配され、車体後部の兵員室には7名が位置しており、歩兵1個分隊を運ぶことが可能だった。
本車は元々火砲の牽引用に開発されたため、兵員室内の前部左右には弾薬収納箱が装備されていた。
弾薬の積み降ろしは、兵員室左右側面の弾薬収納箱の位置に設けられた上開き式ハッチから行うようになっていた。
また車内の壁面上部には、ぐるりと取り囲むようにスケートレールが取り付けられており、ここに銃架を装着して各方向に自在に動かして射撃できるようになっていた。
しかしこのスケートレールがあるために、本車の発展型であるM3ハーフトラックのように兵員室後面に乗降用ドアを設けることができなかったため、兵員の乗降は操縦室の左右側面に設けられたドアから行うようになっていた。
M2ハーフトラックはM3ハーフトラックとコンポーネントの共用化が図られた結果、シャシーはもちろんのこと動力装置や走行装置なども、M3ハーフトラックと全く同じものが用いられている。
エンジンは、オハイオ州クリーヴランドのホワイト自動車製の160AX 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力147hp)、変速機は、ニュージャージー州サウスプレーンフィールドのスパイサー製作所製のSP3641(前進4段/後進1段)、操向機はオハイオ州カントンのティムケン社製のF35-HX-1、後部走行装置は同社製の56410-BX-67、履帯はT68E1ゴム製履帯が用いられた。
M2/M3ハーフトラックの後部走行装置は、フランスのケグレス・ハーフトラックと同じケグレス式サスペンションを採用していた。
これは4個の小転輪を2個ずつローラー・フレームで連結し、それをさらにボギー・アームによって懸架ブラケットに取り付けたもので、緩衝は2個の垂直コイル・スプリング(螺旋ばね)で行われた。
ドイツ軍のハーフトラックの後部走行装置と比べると単純な構造で、整備、修理、交換が容易であったが、反面緩衝能力は劣っていた。
また、ドイツ軍のハーフトラックでは前輪は単なる操向輪であったが、M2/M3ハーフトラックでは前輪にも動力が伝達されており、4輪駆動車の後輪を履帯走行装置に変更したような構造になっていた。
M2/M3ハーフトラックは、1940年10月17日に量産が公式に承認された。
M2ハーフトラック・シリーズの生産はホワイト自動車と、アラバマ州バーミンガムのオート・カー社が担当し、1941年5月から引き渡しが開始された。
基本形となったM2ハーフトラックはホワイト自動車が1941年に3,141両、1942年に3,410両、1943年に1,872両、オート・カー社が1941年に424両、1942年に1,325両、1943年に1,243両生産しており、総生産数は11,415両である。
またM2/M3ハーフトラックを北アフリカ戦に投入した結果、M2ハーフトラックのスケートレールは、射界外に目標を突如発見した場合に機関銃の取り回しが極めて面倒であり、M3ハーフトラックの車体中央に据えられたピントルマウント式機関銃架は、兵員輸送中は銃口が兵士の間近にあるために危険が大であることが判明した。
このため、M2ハーフトラックの操縦室上部右側にM32リングマウント式機関銃架を装着した試作車が、「M2E6」の呼称で1943年4月に製作され試験に供された。
この試験結果を基に、M32リングマウント式機関銃架に改良を加えたものが、1943年5月に「M49リングマウント式機関銃架」として制式化され、M2/M3ハーフトラックに装着されることになった。
このM49リングマウント式機関銃架を装着したM2/M3ハーフトラックは、それぞれ「M2A1ハーフトラック」、「M3A1ハーフトラック」として制式化され、1943年10月から生産が開始された。
M2A1ハーフトラックは1943年に987両、1944年に656両生産されており、総生産数は1,643両である。
またM2ハーフトラックは、レンドリース法によってイギリス連邦やソ連にも供与されることになったため、レンドリース仕様の車両がイリノイ州シカゴのインターナショナル・ハーヴェスター社で開発された。
レンドリース仕様のM2ハーフトラックは、M3ハーフトラックのレンドリース仕様であるM5ハーフトラックと共通の車体が用いられ、前部フェンダーは平板で形成され車体後端が湾曲されていた。
またエンジンも、インターナショナル・ハーヴェスター社製のRED-450-B 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力143hp)に換装された。
この車両は1942年2月に「M9ハーフトラック」として制式化され、インターナショナル・ハーヴェスター社で1943年に2,026両生産された。
さらに、M9ハーフトラックにM49リングマウント式機関銃架を装備したM9A1ハーフトラックも開発され、インターナショナル・ハーヴェスター社で1943年に1,407両生産された。
M2ハーフトラックはM3ハーフトラックに比べて兵員室の容積が狭い上、内部に弾薬収納箱が張り出していたために使い勝手が悪く、M3ハーフトラックに対戦車自走砲、自走榴弾砲、対空自走砲など数多くの派生型が存在したのに比べ、極少数の派生型しか存在しない。
これがM2ハーフトラックの兵員室内に、フランスのブラン社製の81mm迫撃砲をアメリカでライセンス生産した14.9口径81mm迫撃砲M1を搭載した、M4/M4A1
81mm自走迫撃砲である。
本車の任務は81mm迫撃砲M1と迫撃砲弾を運搬することのみで、射撃は通常は81mm迫撃砲を地面に降ろしてから行うこととされていたが、緊急時における車上からの射撃を可能とするために底盤の固定具が設けられていた。
81mm迫撃砲M1は通常は後ろ向きに搭載されたがこの方式は乗員に不評で、一部の車両では底盤の向きを変えて前方へ射撃できるように改造していた。
81mm迫撃砲弾は、車内に96発が搭載された。
また副武装として、車内の壁面上部に取り付けられたスケートレールに、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の7.62mm機関銃M1919A4を1挺装備していた。
M4自走迫撃砲は1940年10月に制式化され、1942年10月までにホワイト自動車で572両が生産された。
さらに、迫撃砲の発射衝撃による金属疲労に耐えられるようにシャシーを強化し、迫撃砲の旋回角を拡げるために底盤の固定方法を改良したM4A1 81mm自走迫撃砲が開発され、1942年12月に制式化された。
M4A1自走迫撃砲は、1943年5〜10月にかけてホワイト自動車で600両が生産された。
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