+概要
1914年に第1次世界大戦が勃発して間もなく、イギリスやフランスを中心とする連合軍と、ドイツを中心とする中央同盟軍は、共に有効な攻撃を行えないままに例を見ない塹壕戦に突入した。
互いが敵の塹壕に対して砲兵の援護を受けながら攻撃を行い、一進一退を繰り返す膠着状態に陥ってしまったことへの対処として、イギリス軍は新型兵器「戦車」を考案することとなる。
イギリス軍最初の生産型戦車であるMk.I戦車は1916年9月に初めて実戦投入され、続いて翌17年4月にはフランス軍もシュナイダーCA1突撃戦車、5月にはサン・シャモン突撃戦車を実戦投入した。
これら連合軍の戦車を戦場で目の当たりにしたドイツ軍も、急遽本格的に戦車開発を進め、1918年3月には最初の生産型戦車であるA7V突撃戦車を戦場に送り出し、戦車が地上戦における主役の座を確立させつつあった。
一方、イギリスやフランスからの執拗な参戦要請を渋々ながら受け入れて、1917年4月6日にドイツに対して宣戦布告したアメリカは、この世界的な趨勢を鑑み、同年7月から陸軍は戦車に関する研究に着手し、その結論として重、軽の2種類の戦車開発を要求する運びとなった。
この内重戦車開発に際しては、イギリスとフランスに協力する形で開発が進められ、「Mk.VIII戦車」として制式化されて1,500両の生産が計画された。
しかし1919年11月にドイツが降伏したことで、数両が完成した時点で本格的な生産に入ること無くMk.VIII戦車計画は終了した。
それでも、それまでに完成した100両分のコンポーネントはアメリカが引き取り、1919〜20年にかけて国内で最終組み立てを行い、「リバティー」(Liberty:自由)重戦車として部隊配備された。
一方、重戦車の開発着手にわずかに遅れてアメリカ戦争省は、陸軍から要求された軽戦車の開発を、1918年半ば頃よりミシガン州ディアボーンのフォード自動車と契約を結んで開始した。
この計画には「3t特別牽引車M1918」なる呼称が与えられ、そのレイアウトは忠実ではないものの、フランス軍のルノーFT軽戦車を踏襲していた。
もっとも、3t戦車の呼称が与えられたが、その戦闘重量は約2.8tとやや軽量だった。
フォード3t戦車は車体前部右側に操縦室を配して、その上方に周囲に視察用のスリットを備えた固定式の操縦手用キューポラを設け、車体前部左側には箱型の張り出しに収める形で車長兼機関銃手を配し、車体後部を機関室とする配置が採られた。
車体の装甲厚は全周0.5インチ(12.7mm)で、床板のみ0.25インチ(6.35mm)とされ、当時としては常識的なリベット接合方式が採られた。
ただし武装は、前述したようにルノーFT軽戦車とは異なり砲塔ではなく、車体前部左側に箱型の張り出しを設けて、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の7.62mm液冷重機関銃M1917またはM1919を1挺、ボールマウント式銃架を介して装備した。
武装の射角は左側に21度となっており、銃身の破損を防ぐために周囲を装甲スリーブで保護していたため、実際の口径より銃身がかなり太く見えた。
なお操縦手席の前面と機関銃手席の上面には、それぞれ後ろ開き式の角型ハッチが装着されていた。
また当初から武装は、張り出しの前面装甲板と砲架を変更することで、37mm戦車砲への換装を可能としていた。
フォード3t戦車は開発・生産コストを抑えるため、当時フォード社が大量生産を行っていた各種自動車用のコンポーネントが可能な限り流用されており、パワープラント関係は同社製の乗用車「フォード・モデルT」のものが流用された。
車体後部の機関室には、フォード・モデルT 直列4気筒液冷ガソリン・エンジン(出力20hp)を2基並列に結合し、後方に前進2段/後進1段の遊星式手動変速・操向機が結合されて、後方配置の起動輪を駆動した。
しかし、エンジンの出力がルノーFT軽戦車に若干劣る程度で、戦闘重量は半分以下にも関わらず、最大速度は整地で8マイル(12.87km)/hと、ルノーFT軽戦車の20km/hに大きく水を開けられていた。
変速・操向機の後方には前方にラジエイター、後方に冷却ファンがそれぞれ置かれ、機関銃手席の後方に17ガロン(64.35リットル)容量の燃料タンクを収めて、整地で34マイル(54.72km)を走行できたが、これもルノーFT軽戦車の65kmには劣っていた。
サスペンション方式は前後に直径12.9cm、幅5.6cmの小転輪3個を配したボギーを前後に配し、ボギー間の上方にあたる車体側面に装着されたリーフ・スプリングでボギーを吊るという、少々非効率なスタイルが採られた。
また、車体の側面上部には履帯を支える上部支持輪2個が、リーフ・スプリングを介して前後に配された。
なお後方配置の起動輪は、直径36.2cmで周囲に10枚の歯を備えて履帯を駆動し、前方配置の誘導輪は直径54.7cm、幅5.6cmとサイズこそ若干異なるものの、ルノーFT軽戦車と全く同じレイアウトにまとめられた。
履帯はシングルピン式で幅11.3cm、ピッチ長11.3cmの、左右に転輪ガイド板を備える鋳鋼製平板が用いられ、片側40枚の履板で構成されてその接地長は90.1cmと、これまたルノーFT軽戦車と大差ない。
なお車体後方には、ルノーFT軽戦車に倣ってか塹壕突破を助ける尾橇が、4本の補助支柱共々装着されていた。
1918年10月には、試作車1両が運用試験のためにフランスへ送られた。
フォード3t戦車は決して優れた戦車では無かったものの、戦争省はその単体コスト4,000ドルという安価さと生産の容易さに魅かれたのか、1919年初めにフォード社と15,000両という大量の発注契約を結び、生産が開始された。
しかしその直後にこの契約は見直され、わずか15両が完成した時点で残りの発注はキャンセルされてしまった。
|