+概要
M12 155mm自走加農砲は、アメリカ陸軍兵器局が機甲部隊の支援重砲兵用の自走砲として、1941年6月より開発を計画したものである。
本車は基本的に、第1次世界大戦時にアメリカ陸軍がフランスより購入した155mm加農砲GPF(アメリカ名:M1917)を、ミネソタ州のミネアポリス製鉄・機械製作所の手で国産化した38.2口径155mm加農砲M1918M1を、当時開発中であったM3中戦車の車台に搭載したものであった。
本車は「T6」の開発番号が与えられて、イリノイ州のロックアイランド工廠で試作車の製作が開始された。
T6自走加農砲の試作車は1942年2月に完成し、メリーランド州のアバディーン兵器試験場で試験が実施された。
そして試験では、陣地変換に要する時間が牽引砲に比べ約1/6で済ませることができ、自走砲の最大の利点を関係者に知らしめている。
T6自走加農砲はM3中戦車の車体を流用はしているが、巨大な155mm加農砲を搭載するため車体は大幅に改造されていた。
エンジンは車体後部から中央部に移され、車体後部は155mm加農砲と砲兵を収容する戦闘室スペースとされた。
といっても砲は巨大なため戦闘室には収まらず、車体上に剥き出しで取り付けられていた。
戦闘室の前面と左右側面は0.5インチ(12.7mm)厚の装甲板で囲まれていたが、その高さは兵員の腰ぐらいまでしかなく防御効果は低かった。
主砲の155mm加農砲M1918M1は限定旋回式で、旋回角は左右各15度ずつ、俯仰角は−3〜+30度となっていた。
この砲は重量42.96kgの榴弾を用いて最大射程は18,379mに達したが、分離装薬式のため発射速度は4発/分と遅く、車体に搭載できる砲弾と装薬は10発分に過ぎなかった。
車体後部には起倒式の駐鋤が取り付けられ、主砲射撃時にはこれを接地し衝撃を吸収するようになっていた。
T6自走加農砲は、機甲部隊の編制に本格的に着手したアメリカ陸軍が生み出した画期的な車両といえた。
本車こそ、野砲としては最も大口径に近い15cmクラスの長距離加農砲の自走化の先駆けであり、アメリカ陸軍が機甲部隊の装備体系を1つのシステムとして包括的に構想していたことの証であった(本車以降にドイツ陸軍のフンメル15cm自走榴弾砲が続く)。
しかし開発当初、発注者自身も大口径自走加農砲の用法についての理解が不透明で戸惑いがあった。
いずれにしろ、M3中戦車のコンポーネントを最大限活用したT6自走加農砲の性能は申し分無く、1942年3月にはまず50両が、ペンシルヴェニア州ピッツバーグのPSC社(Pressed
Steel Car:圧延鋼板・自動車製作所)に発注された。
そして同年8月に、「M12 155mm自走加農砲」(155mm Gun Motor Carriage M12)として制式化され、さらに50両の製作が追加発注された。
1942年9月にはM12自走加農砲の最初の生産型がロールアウトし、1943年3月までに全車が完成して軍に引き渡されている。
なお同時に、本車と組み合わせて使用するT14弾薬運搬車(後のM30弾薬運搬車)も同数生産された。
M30弾薬運搬車はM12自走加農砲から主砲を外しただけの車両で、40発分の砲弾・装薬とM12自走加農砲に乗り切れない操砲要員を収容した。
それぞれ100両ずつ調達されたM12自走加農砲とM30弾薬運搬車は、アメリカ陸軍の編制上の必要定数を満たしたため、これ以上の追加発注は行われなかった。
また当初、アメリカ陸軍ではこの車両を扱いかねて、一部の訓練用車両を残し、他は在庫のまま眠らせることになった。
しかし1943年12月にヨーロッパ反攻作戦が計画されると、強力な自走砲の必要性を認識したアメリカ陸軍は、これまで調達したM12自走加農砲の内74両をオーバーホール整備することを決定した。
そして1944年2〜5月にかけて、ペンシルヴェニア州エディストーンのBLW社(Baldwin Locomotive Works:ボールドウィン機関車製作所)にて整備が実施された。
こうして再整備されたM12自走加農砲を用いて6個野戦重砲兵大隊が編制され、1944年6月のノルマンディー上陸作戦(Operation Neptune:ネプチューン作戦)以降ヨーロッパ戦線に送られ、アメリカ陸軍機甲師団の支援重砲部隊の一翼を担って、ドイツ軍に巨弾を降らすことになった。
M12自走加農砲は、機甲師団に追随できる唯一の中口径野砲としてカーン攻防戦その他重要戦場で活躍し、兵士たちからは「キングコング」の愛称で呼ばれた。
しかし主砲が第1次世界大戦型の旧式野砲で、車体もすでに一線を退いたM3中戦車がベースで、しかも制式化後2年間も放置されていたため全体的に旧式化していた。
このため1944年初めには、後継のM40 155mm自走加農砲の開発が始められた。
M12自走加農砲は第2次世界大戦終結まで使用され、以後は新型のM40自走加農砲と交代していった。
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