+概要
1940年から本格的に機甲部隊の編制を開始したアメリカ陸軍はその主力である戦車に加え、装甲防御力等を一段落とす代わりに戦車よりも強力な火力を持つ自走砲を支援用に装備するという、二本立ての装備構想を持っていた。
そして戦車の強敵たる敵戦車や対戦車砲等の駆逐は、強火力を発揮する自走砲(駆逐車)の役割とされた。
そうした構想の下に、主力戦車部隊や機械化歩兵部隊と行動を共にする駆逐車として開発されたのが、このM10 3インチ対戦車自走砲である。
本車に直接に繋がる最初の試作自走砲はT24およびT40であるが、いずれもM3中戦車の車台を利用し車体上部をオープントップ式の戦闘室として、3インチ高射砲M3を限定旋回式に搭載したものであった。
戦闘室をオープントップにしたのは、高い偵察能力により逸早く敵を発見することが自走砲の要件として求められたからで、以後、第2次世界大戦中に開発されたアメリカ陸軍の自走砲は皆オープントップ式となった。
その後、対戦車戦闘においては柔軟な戦術駆使が必要であるとの要求から、駆逐車は砲塔式(手動旋回)が望ましいとされ、さらに全高も抑えるべきと要望された。
これを受けて、ジェネラル・モータース社の子会社であるミシガン州デトロイトのフィッシャー車体製作所は、1941年11月にディーゼル・エンジン搭載型のM4A2中戦車の車台をベースに、T1試作重戦車(後のM6重戦車)の主砲である3インチ戦車砲T12を、オープントップの全周旋回式砲塔に搭載するT35対戦車自走砲の開発を開始した。
T35対戦車自走砲は1942年5月にメリーランド州のアバディーン車両試験場で射撃試験に供されたが、戦車駆逐部隊は車体高を低く側面を傾斜させるよう要求したため、改良型のT35E1対戦車自走砲が作られた。
T35の砲塔は円筒形の鋳造製だったが、T35E1では5角形の溶接製の砲塔に変更された。
このT35E1が、1942年6月に「M10 3インチ自走加農砲」(3inch Gun Motor Carriage M10)として制式化された。
M10対戦車自走砲の生産は開発を担当したフィッシャー車体製作所以外に、ミシガン州ディアボーンのフォード自動車でも行うことになり、フォード自動車で生産するタイプはガソリン・エンジン搭載型のM4A3中戦車をベース車台に用い、「M10A1
3インチ自走加農砲」(3inch Gun Motor Carriage M10A1)の制式呼称が与えられた。
M10対戦車自走砲は1942年9月〜1943年12月にかけて、フィッシャー車体製作所が管理する国営のグランドブランク工廠が4,993両を生産し、M10A1対戦車自走砲は1942年10月〜1943年9月にかけてフォード自動車が1,038両、1943年9〜11月にかけてグランドブランク工廠が675両を生産した。
M10/M10A1対戦車自走砲の総生産台数は、2社合計で6,706両である。
M10対戦車自走砲の上部車体は、ベースとなったM4中戦車より避弾経始の良好なデザインに変更されていたが、車体重量の削減のため装甲厚はかなり抑えられていた。
各部の装甲厚は車体前面が1.5インチ(38.1mm)〜2インチ(50.8mm)、側/後面が0.75インチ(19.05mm)〜1インチ(25.4mm)となっていた。
5角形をした砲塔の装甲厚は前面が2.25インチ(57.15mm)、側/後面が1インチとなっていた。
砲塔上面は、最前部のみ0.75インチの装甲板で覆われている以外大部分がオープントップで、乗員の防御を犠牲にして良好な視界を確保していた。
なお必要な時には増加装甲板を取り付けられるよう、砲塔/車体の各部にはボルトがあらかじめ設けられていたが、車体側面や砲塔側面のものは後期になると未装着のまま送り出されるようになった。
砲塔の形状は内部容積を拡大した後期型と前期型の2種類があり、また砲塔後部の平衡錘も生産時期によって3種類作られている。
エンジンは、M10対戦車自走砲がジェネラル・モータース社製の6046 2ストローク直列12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力410hp)、M10A1対戦車自走砲がフォード自動車製のGAA
4ストロークV型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力500hp)を搭載していた。
主砲はM6重戦車と同じ3インチ戦車砲M7を採用しており、M5砲架を介して取り付けられていた。
この3インチ戦車砲M7は3インチ高射砲M3を戦車砲に改修したもので口径76.2mm、50口径長、APC(被帽徹甲弾)を使用した場合砲口初速792m/秒、射距離1,000ヤード(914m)で88mm、2,000ヤードで75mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた。
さらにHVAP(高速徹甲弾)を使用した場合砲口初速1,036m/秒、射距離1,000ヤードで135mm、2,000ヤードで98mmのRHAを貫徹することができた。
M10対戦車自走砲の初陣は1943年3月のチュニジア戦線で、自由フランス軍によって使用されたものだった。
その後逐次太平洋戦線、ヨーロッパ戦線に投入された。
イタリア戦線では歩兵支援任務が主体で、ドイツ軍戦車との砲撃戦は稀であった。
1944年6月のノルマンディー上陸作戦(Operation Overlord:大君主作戦)以後は、ドイツ軍戦車との本格的な対戦車戦闘が期待されたが、M10対戦車自走砲の主砲である3インチ戦車砲M7は、ドイツ軍のティーガー戦車やパンター戦車に対して威力不足であることが明らかになったため、従来通り歩兵直協任務に使用された。
M10対戦車自走砲は1943年中期以降イギリス軍に合計1,648両が供与され、それまで使用していた装輪式のディーコン6ポンド(57mm)対戦車自走砲に代わって対戦車部隊に配備された。
イギリス軍に供与されたM10対戦車自走砲は全てディーゼル・エンジンを搭載したタイプで、ガソリン・エンジン搭載型のM10A1は供与されなかった。
イギリス軍はM10対戦車自走砲に「M10 3インチ自走砲架」(3inch Self-Propelled Mount M10)の制式呼称を与え、イタリア戦とフランス戦に投入した。
すでにイギリス軍には、M10対戦車自走砲が装備する3インチ戦車砲M7を装甲貫徹力で大きく上回る、牽引式の17ポンド(76.2mm)対戦車砲が配備されていたため、イギリス軍に配備された当初、M10対戦車自走砲はそれほど有効な兵器とは評価されていなかった。
M10対戦車自走砲が注目されるのは、ノルマンディー上陸作戦以後である。
上陸後には大規模な戦車による機動戦が想定され、牽引式の大型対戦車砲では作戦の速度に追随できそうもなく、さらに海岸から揚陸するにも自走式の方が便利だったからである。
しかし、やはり主砲の3インチ戦車砲M7は威力不足が指摘されたため、イギリス軍はM10対戦車自走砲に17ポンド対戦車砲を搭載して火力の強化を図ることにした。
イギリス軍に供与されたM10対戦車自走砲の内、1945年4月までに1,017両が主砲を58.3口径17ポンド対戦車砲Mk.Vに換装しており、この換装車には「M10C
17ポンド自走砲架」(17pdr Self-Propelled Mount M10C)の制式呼称が与えられた。
M10C対戦車自走砲は、やはり17ポンド対戦車砲をM4中戦車に搭載したファイアフライ中戦車と共に、強力なドイツ軍の猛獣戦車シリーズに対抗する切り札として名声を博した。
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