LVT(A)5/LVT(A)6水陸両用自走榴弾砲
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LVT(A)5水陸両用自走榴弾砲
LVT(A)6水陸両用自走榴弾砲
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+LVT(A)4水陸両用自走榴弾砲の開発
アメリカ軍は、太平洋における日本軍勢力下の島嶼攻略戦で得られた戦訓から、装軌式上陸用車両LVT(アムトラック)に加えて、それを直接支援する武装型LVT(アムタンク)の必要性を認識し、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのFMC社(Food
Machinery Corporation:食品・機械企業)の手で、1943年に最初のアムタンクである「LVT(A)1」(Landing Vehicle
Tracked (Armored) 1:装軌式上陸用車両(装甲型)1号)が実用化された。
LVT(A)1は、M5軽戦車から流用された53.5口径37mm戦車砲M6装備の砲塔システムを搭載しており、高い対装甲威力を活かして日本軍戦車との戦闘において活躍することが期待されたが、半面、主武装である37mm戦車砲は日本軍が各所に構築した機関銃巣や山砲、速射砲等の掩蔽陣地を破壊するにも、集合して白兵突撃してくる日本兵の集団を制圧するにも、榴弾の威力が不足していた。
この事実は、LVT(A)1の初陣である1944年1月31日〜2月6日のクェゼリン環礁攻略戦において明らかになったが、アメリカ軍は事前にある程度LVT(A)1の榴弾威力の不足は認識しており、1943年からLVT(A)1と行動を共にし、敵の陣地や歩兵を制圧するための大口径榴弾砲を搭載した火力支援型のアムタンクの開発をFMC社に進めさせていた。
「LVT(A)4」(Landing Vehicle Tracked (Armored) 4:装軌式上陸用車両(装甲型)4号)として制式化された本車は、1944年3月から量産が開始されたが、前述のようにLVT(A)4は当初、LVT(A)1と併用して運用することが構想されていた。
しかしアムタンク大隊からは、「LVT(A)1は全てLVT(A)4に交換して欲しい」との強い要望が寄せられたため、結果としてLVT(A)4は1944〜45年にかけて1,890両と、LVT(A)1の4倍近くの量が生産されるに至った。
LVT(A)1とLVT(A)4は車体については基本的に同一であったが、搭載する砲塔がLVT(A)1ではM5軽戦車のものだったのに対し、LVT(A)4ではM5軽戦車をベースに開発されたM8自走榴弾砲のものに変更された。
M8自走榴弾砲の砲塔はM5軽戦車のものより砲塔リング径が大きかったため、砲塔搭載のベースとして操縦室の後方に立ち上げられたデッキが、LVT(A)4では砲塔リング径の拡大に伴って大きくなった。
また、LVT(A)1では完全密閉式だった砲塔がLVT(A)4ではオープントップ式となり、主砲もLVT(A)1の53.5口径37mm戦車砲M6に代えて、牽引式の75mm榴弾砲M1A1の車載型である16口径75mm榴弾砲M3が搭載された。
75mm榴弾砲M3は極めて短砲身・低初速の榴弾砲であったが、榴弾の弾頭重量は6.5kgとLVT(A)1の37mm榴弾の8倍近い重さがあり、実際の破壊力も満足いくものだった。
LVT(A)4の砲塔内には車長の他に砲手、装填手の計3名が搭乗し、砲塔の装甲厚は前/側/後面がいずれも1インチ(25.4mm)、防弾鋳鋼製の主砲防盾の最厚部が1.5インチ(38.1mm)となっていた。
砲塔後部の上面にはリングマウントが取り付けられ、副武装としてユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2が装備されていた。
さすがに75mm榴弾砲を装備する大型砲塔を搭載しただけに、LVT(A)4の戦闘重量は40,000ポンド(18.144t)とLVT(A)1より4t近く重くなり、にも関わらず同一のパワープラントを用いていたことから、地上での最大速度はLVT(A)1の25マイル(40.23km)/hから15マイル(24.14km)/hに低下したが、作戦用途上に支障が出るものでは無かった。
しかし、1944年春に部隊配備された初期のLVT(A)4は、LVT(A)1の実戦投入以前に開発が取り組まれていたため、前線経験を反映した設計上の配慮が不充分であった。
第一に、元々M8自走榴弾砲の砲塔と主砲マウントには、M5軽戦車の砲塔に備わっていた動力式旋回装置やジャイロ式安定装置が装備されておらず、海面上で動揺するアムタンクの車体を射撃ベースにすると、目標への命中率がLVT(A)1よりも極めて悪くなってしまった。
第二は、M5軽戦車のものより大柄なM8自走榴弾砲の砲塔を搭載するために、LVT(A)1で重宝された砲塔後部左右の7.62mm機関銃M1919A4装備の旋回銃座があっさり廃止され、上陸後の支援戦闘でアムタンクが直面した日本兵の肉薄攻撃に対して、防御火力が全く不足する結果となったことである。
LVT(A)4の砲塔後部上面に装備された12.7mm重機関銃は防盾すら装着されておらず、高い位置にあることから操作する乗員は大変な危険に晒されることとなった。
その上、アメリカ軍自走砲の通例として、M8自走榴弾砲の砲塔は全周旋回式でありながら、砲塔内乗員の視界を優先してオープントップ式になっていたため、上陸後の近接支援戦闘に投入された場合、装甲で覆われていない砲塔上面が防御上の弱点となった。
頭上から降り注いでくる砲弾の破片や、榴弾の炸裂で吹き飛ばされてきた石礫で乗員が負傷したり、日本軍が多数装備していた八九式擲弾筒のような簡易な迫撃砲、さらには手榴弾等で大きな損害を受ける可能性があった。
しかしこれらの弱点にも関わらず、前線部隊は火力が強化されたLVT(A)4を可能な限り早期に実戦投入することを望んだ。
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+LVT(A)4水陸両用自走榴弾砲の初陣と改良型の登場
LVT(A)4の初陣は、1944年6〜7月のマリアナ諸島(サイパン、グァム、テニアンの各島で主に構成)の攻略戦だった。
サイパン島上陸作戦のDデイ(作戦決行日)においては、719両投入されたアムトラック/アムタンクの内、損失がわずか20両に留まった。
これは、アメリカ軍が幾多の上陸作戦を通じて向上させてきた作戦システムの完成によるところが大きかった。
しかし上陸海岸の複雑な地形や、当初過小評価した日本軍守備隊の実力に直面した上陸部隊は、内陸部での戦闘にアムタンクやアムトラックを支援車両代わりに投入することを要求したため、これに応じた弱装甲の水陸両用車両群は日本軍砲火に晒されて、大損害(アムタンク65両、アムトラック139両)を出している。
例えば第4海兵師団では、複雑な地形を利用して構築された日本軍の水際防御陣地をスピーディーに突破しようと、当初の作戦からアムトラックを装甲兵員輸送車代わりにして、上陸後もそのまま歩兵を載せて前進させ、アムタンクを支援車両として随伴させた。
この戦術は結局、地上での踏破能力が戦車より劣るアムタンク、アムトラックの機動性能の限界と、図体が大きいのに防御力が弱い車体が日本軍砲火の集中射撃を受けたため、次々に撃破され失敗した。
また第2海兵師団戦区では当初、アムタンクとアムトラックを従来戦術通りに用い、内陸部への進出は禁じていた。
しかし、日本軍の熾烈な反撃で膠着した戦線を打開するため、縦深2.5kmの「0-1ライン」(上陸初日の到達目標線)に向けて第4海兵師団と同様の戦術を用いた。
これも結局、迅速な成功をもたらすことは無かった。
アムタンク大隊の人的損失はこれまでになく大きく、陸軍第708アムタンク大隊はその奮戦に対して大統領感状を与えられたというものの、戦死・行方不明29名、負傷155名、海兵隊第2アムタンク大隊は戦死41名、負傷143名の損害を記録した。
アムタンクもアムトラックも、戦術教義上は海岸部を制圧しながら強襲揚陸を支援し、海岸のごく近い範囲で支援戦闘を行った後は海岸に留まるか、引き続く輸送任務に当たることになっていた。
しかし防御砲火が降り注ぎ、次々に上陸した歩兵部隊に損失が出る中、彼らを残したまま海岸に留まるということが、指揮官や将兵の間に精神的軋轢を生ずるのは明白だった。
また、「アムタンク」という呼称が火砲を搭載したその姿態と共に、「戦車である」との幻想を周囲に振り撒くことにもなり、前線で過度の期待を受けることにも繋がった。
アムタンクとアムトラックは、マリアナ諸島攻略戦の段階ではアメリカ軍の上陸作戦に欠かせない存在となっていたが、実戦の中ではより複雑な状況にも直面していかざるを得なかった。
それが、スマートには事が進まない戦争の現実だった。
マリアナ諸島で血で贖った教訓は、直ちにLVT(A)4の改良に繋がることとなった。
この改良は、LVT(A)4の後期生産車での仕様に採り入れられると共に、前線デポでの装備車両の改修という形でも具体化されており、これらは一括して「LVT(A)4
マリアナ・モデル」と通称された。
マリアナ・モデルの改修点は、ひとえに近接防御力の改善に集中していた。
LVT(A)4の後期生産車では、操縦室右側の副操縦手席の前方にブラウニング社製の7.62mm機関銃M1919A4を装備するボールマウント式銃架が新設された。
また外部視察能力を向上させるため、操縦室の前面に2基、左右側面に1基ずつ視察用ブロックを新設した車両も登場した。
さらに砲塔の左右側面にも視察用ブロックが取り付けられた他、砲塔後部上面の12.7mm重機関銃が廃止されて、代わりに防盾付きの7.62mm機関銃M1919A4を、砲塔の左右側面に設けられたピントルマウントに装備できるようにされた。
LVT(A)4 マリアナ・モデルはその後パラオ諸島、フィリピン、硫黄島、沖縄の攻略に投入され、太平洋戦争末期の戦いで奮戦した。
サイパン島での戦訓から、アムタンクを戦車と同様の突破戦闘に投入することは無かったが、硫黄島、沖縄では上陸後は後方よりの火力支援用として固定火点に配置されたり、残敵掃討戦などに限って地上戦闘で歩兵部隊の直接支援に投入された。
また上陸時の火力発揮については、日本軍がマリアナ諸島の攻防戦以後に水際迎撃戦から、内陸部での持久戦術にその防御戦術を転換したため、性能向上が焦眉の課題になっていたわけでは無いが、LVT(A)4後期生産車の一部にジャイロ式主砲安定装置が導入され、75mm榴弾砲の移動時や洋上における射撃精度の向上が図られた。
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+LVT(A)5/LVT(A)6水陸両用自走榴弾砲の登場
1945年3月にはLVT(A)4 マリアナ・モデルの仕様を標準化し、砲塔と主砲に安定装置を装備化したタイプが、「LVT(A)5」(Landing Vehicle Tracked (Armored) 5:装軌式上陸用車両(装甲型)5号)としてアメリカ軍に制式採用され、同年8月の日本の降伏までの間に269両がFMC社で生産された。
LVT(A)5は外見上はLVT(A)4の最後期生産車とほぼ同様であったが、LVT(A)5では主砲のスリーブカバーの上部に角形の平衡錘が追加装備され、これが両者の明確な識別点となっている。
また、LVT(A)5は砲塔が動力旋回式になったため砲塔後部バスル内に油圧ポンプが追加装備され、車体上面の前後に設けられたボラードの形状等も変化していた。
さらに、LVT(A)4では戦闘室内の右後方に1基のみ備えられていたAPU(補助動力装置)が、LVT(A)5では左右の後方に合計2基装備されるようになった。
LVT(A)5は太平洋戦争における実戦には投入されなかったが、1950年代に入るまで一部のLVT(A)4と共に温存され、1950年6月に勃発した朝鮮戦争に投入された。
朝鮮戦争に投入されたLVT(A)5は、車体前部を浮航性能の改善のため大型化したデッキと一体化したデザインに改修し、機関室部も冷却効率の向上を図るためデッキと同じ高さに立ち上げていた上、砲塔上部に周囲を視察するための視察用ブロックを配した装甲カバーを取り付けた。
この改修型は「LVT(A)6」とも呼ばれたが、朝鮮戦争の転換点となった1950年9月の仁川上陸作戦にアメリカ海兵隊が投入した他、地上戦闘でも第1海兵師団によって自走榴弾砲の代わりに使用されている。
太平洋戦争で残存したLVT(A)4の一部は、フランス軍に供与されてインドシナ戦争でメコン・デルタ地帯の戦闘に投入されたり、オーストラリア軍や中国の国民党政府軍にも供与された。
オーストラリア軍は、太平洋戦争末期のボルネオ島奪回作戦にLVT(A)4を投入し、国民党政府軍は戦後の国共内戦で使用した後、多くのLVT(A)4を人民解放軍側に鹵獲されてしまっている。
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<LVT(A)5水陸両用自走榴弾砲>
全長: 7.95m
全幅: 3.251m
全高: 3.112m
全備重量: 18.144t
乗員: 6名
エンジン: コンティネンタルW-670-9A 4ストローク星型7気筒空冷ガソリン
最大出力: 262hp/2,400rpm
最大速度: 24.14km/h(浮航 11.27km/h)
航続距離: 241km(浮航 161km)
武装: 16口径75mm榴弾砲M3×1 (100発)
7.62mm機関銃M1919A4×3 (6,000発)
装甲厚: 6.35〜38.1mm
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<参考文献>
・「パンツァー2008年7月号 太平洋戦線で日本軍と戦ったアメリカ海兵隊のLVT水陸両用装軌車(2)」 高橋昇
著 アルゴノート社
・「世界の戦車イラストレイテッド15 アムトラック 米軍水陸両用強襲車両」 スティーヴン・ザロガ 著 大日本絵
画
・「グランドパワー2004年1月号 アメリカ軍の装軌式上陸車輌-LVTシリーズ(3)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(3) 装軌/半装軌式戦闘車輌:1918〜2000」 デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
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