LVT(A)4水陸両用自走榴弾砲
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+開発
アメリカ軍は、1944年1月31日〜2月6日にかけて行われたクェゼリン環礁に対する攻略作戦において、装軌式上陸用車両LVT(アムトラック)に加えて、それを直接支援する武装型LVT(アムタンク)を初めて実戦投入した。
この時投入されたアメリカ軍初のアムタンクLVT(A)1は、アムトラックの支援任務で活躍したものの、LVT(A)1の主武装である37mm戦車砲は日本軍が各所に構築した機関銃巣や山砲、速射砲等の掩蔽陣地を破壊するにも、集合して白兵突撃してくる日本兵の集団を制圧するにも、榴弾の威力が不足していることが判明した。
クェゼリン環礁での実戦経験は、アメリカ軍により陣地破壊力のある火砲の搭載がアムタンクにとって必要であることを認識させるに至ったが、LVT(A)1の開発メーカーであるペンシルヴェニア州フィラデルフィアのFMC社(Food
Machinery Corporation:食品・機械企業)は、この頃すでにアメリカ軍の要請に基づいて、対戦車能力に優れるLVT(A)1と行動を共にし、敵の陣地や歩兵を制圧するための大口径榴弾砲を搭載した火力支援型のアムタンクの開発を進めていた。
この火力支援型アムタンクの開発は1943年に入って開始され、その実用化はクェゼリン環礁攻略の後に急がされた。
「LVT(A)4」(Landing Vehicle Tracked (Armored) 4:装軌式上陸用車両(装甲型)4号)として制式化された本車は、1944年3月から量産が開始されたが、前述のようにLVT(A)4は当初、LVT(A)1と併用して運用することが構想されていた。
しかしアムタンク大隊からは、「LVT(A)1は全てLVT(A)4に交換して欲しい」との強い要望が寄せられたため、結果としてLVT(A)4は1944〜45年にかけて1,890両と、LVT(A)1の4倍近くの量が生産されるに至った。
それでも、部隊の要望通りアムタンク大隊の編制を全てLVT(A)4に切り替えたわけではなく、LVT(A)1は1945年の沖縄戦でも使われていた。
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+構造
LVT(A)1とLVT(A)4は車体については基本的に同一であったが、搭載する砲塔がLVT(A)1ではM5軽戦車のものだったのに対し、LVT(A)4ではM5軽戦車をベースに開発されたM8自走榴弾砲のものに変更された。
M8自走榴弾砲の砲塔はM5軽戦車のものより砲塔リング径が大きかったため、砲塔搭載のベースとして操縦室の後方に立ち上げられたデッキが、LVT(A)4では砲塔リング径の拡大に伴って大きくなった。
また、LVT(A)1では完全密閉式だった砲塔がLVT(A)4ではオープントップ式となり、主砲もLVT(A)1の53.5口径37mm戦車砲M6に代えて、牽引式の75mm榴弾砲M1A1の車載型である16口径75mm榴弾砲M3が搭載された。
75mm榴弾砲M3は極めて短砲身・低初速の榴弾砲であったが、榴弾の弾頭重量は6.5kgとLVT(A)1の37mm榴弾の8倍近い重さがあり、実際の破壊力も満足いくものだった。
LVT(A)4の砲塔内には車長の他に砲手、装填手の計3名が搭乗し、砲塔の装甲厚は前/側/後面がいずれも1インチ(25.4mm)、防弾鋳鋼製の主砲防盾の最厚部が1.5インチ(38.1mm)となっていた。
砲塔後部の上面にはリングマウントが取り付けられ、副武装としてユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2が装備されていた。
さすがに75mm榴弾砲を装備する大型砲塔を搭載しただけに、LVT(A)4の戦闘重量は40,000ポンド(18.144t)とLVT(A)1より4t近く重くなり、にも関わらず同一のパワープラントを用いていたことから、地上での最大速度はLVT(A)1の25マイル(40.23km)/hから15マイル(24.14km)/hに低下したが、作戦用途上に支障が出るものでは無かった。
しかし、1944年春に部隊配備された初期のLVT(A)4は、LVT(A)1の実戦投入以前に開発が取り組まれていたため、前線経験を反映した設計上の配慮が不充分であった。
第一に、元々M8自走榴弾砲の砲塔と主砲マウントには、M5軽戦車の砲塔に備わっていた動力式旋回装置やジャイロ式安定装置が装備されておらず、海面上で動揺するアムタンクの車体を射撃ベースにすると、目標への命中率がLVT(A)1よりも極めて悪くなってしまった。
第二は、M5軽戦車のものより大柄なM8自走榴弾砲の砲塔を搭載するために、LVT(A)1で重宝された砲塔後部左右の7.62mm機関銃M1919A4装備の旋回銃座があっさり廃止され、上陸後の支援戦闘でアムタンクが直面した日本兵の肉薄攻撃に対して、防御火力が全く不足する結果となったことである。
LVT(A)4の砲塔後部上面に装備された12.7mm重機関銃は防盾すら装着されておらず、高い位置にあることから操作する乗員は大変な危険に晒されることとなった。
その上、アメリカ軍自走砲の通例として、M8自走榴弾砲の砲塔は全周旋回式でありながら、砲塔内乗員の視界を優先してオープントップ式になっていたため、上陸後の近接支援戦闘に投入された場合、装甲で覆われていない砲塔上面が防御上の弱点となった。
頭上から降り注いでくる砲弾の破片や、榴弾の炸裂で吹き飛ばされてきた石礫で乗員が負傷したり、日本軍が多数装備していた八九式擲弾筒のような簡易な迫撃砲、さらには手榴弾等で大きな損害を受ける可能性があった。
しかしこれらの弱点にも関わらず、前線部隊は火力が強化されたLVT(A)4を可能な限り早期に実戦投入することを望んだ。
太平洋におけるアメリカ軍の「飛び石作戦」(太平洋に散在する日本軍勢力下の島嶼を攻略しながら日本本土に迫る作戦)は、いよいよ日本の生命線を直接脅かす島々の攻略に直面し、アメリカ海兵隊と陸軍の水陸両用戦部隊は、一層強力な火力を防御陣地に配置した、部隊規模の大きな日本軍と対決する段階になりつつあったからである。
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+戦歴
LVT(A)4の初陣は、1944年6〜7月のマリアナ諸島(サイパン、グァム、テニアンの各島で主に構成)の攻略戦だった。
第2海兵師団を支援する第2アムタンク大隊は、70両のLVT(A)4で編制されていた(18両編制の中隊4個と指揮官車)。
また、第4海兵師団を支援するために配置された陸軍の第708アムタンク大隊では、LVT(A)1とLVT(A)4が混成されていた。
同大隊では、4個のアムタンク中隊の内1個中隊(16両)がLVT(A)4で、残りの3個中隊と司令部車両(計52両)がLVT(A)1で編制されていた。
マリアナ諸島攻略作戦は、それまでの日本軍守備の島嶼占領に比べて格段に重要な戦略的意義があった。
最大の島であるサイパン島と近傍のテニアン島は、第1次世界大戦終結後に委任統治権が敗戦国ドイツから当時連合国の一員だった日本に引き継がれ、それ以来長期に渡って日本人が移住し開墾してきて、事実上の日本領というべき島であった。
同時に、アメリカ軍のB-29重爆撃機の出撃基地をサイパン島に確保するならば、日本の首都東京や工業地帯のある近畿、東海地方をその航続距離である約6,000km以内に収め、戦略爆撃を実施することが可能になる。
まさに日本にとって、「最後の防壁」というべき島々だったのである。
マリアナ諸島の戦略的意義は日本側も重々承知しており、その防備には特別に力を入れていた。
サイパン島には第43師団を主力とする18,518名の陸軍部隊と、海軍の第5特別根拠地隊を根幹とする地上戦闘兵力15,164名の計43,582名が守備隊を構成していた。
防御火力としては、20cm砲のような大口径砲を含む重砲29門、高射砲や対空機関砲103門、13mm機銃を含む重機関銃57挺が配置され、それまでアメリカ軍が島嶼攻略で直面したどの日本軍火力よりも強力だった。
その上、陸軍の戦車第9連隊を中心に71両の日本軍戦車が配置されていたのである。
これらの日本軍戦車は九七式中戦車や九七式中戦車改、九五式軽戦車、それに海軍の特二式内火艇で構成されていた。
この強力な防備(アメリカ軍は事前の航空偵察で掩蔽陣地の火砲を全て捉えきれず、防備火力については過小評価していたといわれる)に対して、アメリカ側はそれまで構築してきた上陸作戦システムをさらに大規模化して、事前の艦砲射撃・空爆の徹底した精密化、強襲上陸兵力の構成の強化、兵力の集積を行った。
マリアナ諸島攻略のための艦艇乗員を含む総兵力は166,000名に達しており、うち上陸部隊は師団4個と旅団1個の計127,571名(うちサイパン島攻略部隊は71,000名)であった。
揚陸艦隊の艦艇数は535隻に達しており、上陸作戦で部隊を搭乗させて海岸に殺到するアムトラック、アムタンクの総数は773両を揃えていた。
これまでの上陸作戦で最大の数である。
1944年6月15日、サイパン島に対して敢行された上陸作戦では、第2海兵師団の作戦区と第4海兵師団の作戦区では、アムタンクの投入方法が異なっていた。
第4海兵師団が担当した上陸区では、上陸第1波の全てを第708アムタンク大隊のLVT(A)1とLVT(A)4が担い、従来通り海岸近くの海上から水際の防御構築物に対して砲火を開き、以後に後続するアムトラック搭乗の上陸部隊と共に揚陸して支援を継続したが、第2海兵師団の上陸区では、上陸第1波をアムトラック(LVT2、LVT4)に分乗した歩兵部隊とLVT(A)4を混成させ、相互支援を図っていた。
これは、近接防御火力が乏しいLVT(A)4の弱点に着目してのものと思われる。
上陸部隊は海兵隊の各大隊単位で編制され、第2海兵師団では各大隊の上陸第1波当たり、アムトラック12両とアムタンク18両(1個中隊)で構成し、アムタンクは上陸部隊の中央と両翼にそれぞれ1個小隊(6両)を配置した。
サイパン島上陸作戦においては、アムトラックおよびアムタンク大隊の損失が強襲上陸時に少なかった半面、その後の支援戦闘で大きかったのが特徴であった。
Dデイ(作戦決行日)においては、719両投入されたアムトラック/アムタンクの内、損失がわずか20両に留まった。
これは、アメリカ軍が幾多の上陸作戦を通じて向上させてきた作戦システムの完成によるところが大きかった。
しかし上陸海岸の複雑な地形や、当初過小評価した日本軍守備隊の実力に直面した上陸部隊は、内陸部での戦闘にアムタンクやアムトラックを支援車両代わりに投入することを要求したため、これに応じた弱装甲の水陸両用車両群は日本軍砲火に晒されて、大損害(アムタンク65両、アムトラック139両)を出している。
例えば第4海兵師団では、複雑な地形を利用して構築された日本軍の水際防御陣地をスピーディーに突破しようと、当初の作戦からアムトラックを装甲兵員輸送車代わりにして、上陸後もそのまま歩兵を載せて前進させ、アムタンクを支援車両として随伴させた。
この戦術は結局、地上での踏破能力が戦車より劣るアムタンク、アムトラックの機動性能の限界と、図体が大きいのに防御力が弱い車体が日本軍砲火の集中射撃を受けたため、次々に撃破され失敗した。
また第2海兵師団戦区では当初、アムタンクとアムトラックを従来戦術通りに用い、内陸部への進出は禁じていた。
しかし、日本軍の熾烈な反撃で膠着した戦線を打開するため、縦深2.5kmの「0-1ライン」(上陸初日の到達目標線)に向けて第4海兵師団と同様の戦術を用いた。
これも結局、迅速な成功をもたらすことは無かった。
アムタンク大隊の人的損失はこれまでになく大きく、陸軍第708アムタンク大隊はその奮戦に対して大統領感状を与えられたというものの、戦死・行方不明29名、負傷155名、海兵隊第2アムタンク大隊は戦死41名、負傷143名の損害を記録した。
アムタンクもアムトラックも、戦術教義上は海岸部を制圧しながら強襲揚陸を支援し、海岸のごく近い範囲で支援戦闘を行った後は海岸に留まるか、引き続く輸送任務に当たることになっていた。
しかし防御砲火が降り注ぎ、次々に上陸した歩兵部隊に損失が出る中、彼らを残したまま海岸に留まるということが、指揮官や将兵の間に精神的軋轢を生ずるのは明白だった。
また、「アムタンク」という呼称が火砲を搭載したその姿態と共に、「戦車である」との幻想を周囲に振り撒くことにもなり、前線で過度の期待を受けることにも繋がった。
アムタンクとアムトラックは、マリアナ諸島攻略戦の段階ではアメリカ軍の上陸作戦に欠かせない存在となっていたが、実戦の中ではより複雑な状況にも直面していかざるを得なかった。
それが、スマートには事が進まない戦争の現実だった。
マリアナ諸島で血で贖った教訓は、直ちにLVT(A)4の改良に繋がることとなった。
この改良は、LVT(A)4の後期生産車での仕様に採り入れられると共に、前線デポでの装備車両の改修という形でも具体化されており、これらは一括して「LVT(A)4
マリアナ・モデル」と通称された。
マリアナ・モデルの改修点は、ひとえに近接防御力の改善に集中していた。
LVT(A)4の後期生産車では、操縦室右側の副操縦手席の前方にブラウニング社製の7.62mm機関銃M1919A4を装備するボールマウント式銃架が新設された。
また外部視察能力を向上させるため、操縦室の前面に2基、左右側面に1基ずつ視察用ブロックを新設した車両も登場した。
さらに砲塔の左右側面にも視察用ブロックが取り付けられた他、砲塔後部上面の12.7mm重機関銃が廃止されて、代わりに防盾付きの7.62mm機関銃M1919A4を、砲塔の左右側面に設けられたピントルマウントに装備できるようにされた。
LVT(A)4 マリアナ・モデルはその後パラオ諸島、フィリピン、硫黄島、沖縄の攻略に投入され、太平洋戦争末期の戦いで奮戦した。
サイパン島での戦訓から、アムタンクを戦車と同様の突破戦闘に投入することは無かったが、硫黄島、沖縄では上陸後は後方よりの火力支援用として固定火点に配置されたり、残敵掃討戦などに限って地上戦闘で歩兵部隊の直接支援に投入された。
また上陸時の火力発揮については、日本軍がマリアナ諸島の攻防戦以後に水際迎撃戦から、内陸部での持久戦術にその防御戦術を転換したため、性能向上が焦眉の課題になっていたわけでは無いが、LVT(A)4後期生産車の一部にジャイロ式主砲安定装置が導入され、75mm榴弾砲の移動時や洋上における射撃精度の向上が図られた。
1945年3月にはLVT(A)4 マリアナ・モデルの仕様を標準化し、砲塔と主砲に安定装置を装備化したタイプが、「LVT(A)5」(Landing
Vehicle Tracked (Armored) 5:装軌式上陸用車両(装甲型)5号)としてアメリカ軍に制式採用され、同年8月の日本の降伏までの間に269両がFMC社で生産された。
LVT(A)5は太平洋戦争における実戦には投入されなかったが、1950年代に入るまで一部のLVT(A)4と共に温存され、1950年6月に勃発した朝鮮戦争に投入された。
朝鮮戦争に投入されたLVT(A)5は、車体前部を浮航性能の改善のため大型化したデッキと一体化したデザインに改修し、機関室部も冷却効率の向上を図るためデッキと同じ高さに立ち上げていた上、砲塔上部に周囲を視察するための視察用ブロックを配した装甲カバーを取り付けた。
この改修型は「LVT(A)6」とも呼ばれたが、朝鮮戦争の転換点となった1950年9月の仁川上陸作戦にアメリカ海兵隊が投入した他、地上戦闘でも第1海兵師団によって自走榴弾砲の代わりに使用されている。
太平洋戦争で残存したLVT(A)4の一部は、フランス軍に供与されてインドシナ戦争でメコン・デルタ地帯の戦闘に投入されたり、オーストラリア軍や中国の国民党政府軍にも供与された。
オーストラリア軍は、太平洋戦争末期のボルネオ島奪回作戦にLVT(A)4を投入し、国民党政府軍は戦後の国共内戦で使用した後、多くのLVT(A)4を人民解放軍側に鹵獲されてしまっている。
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<LVT(A)4水陸両用自走榴弾砲 初期型>
全長: 7.95m
全幅: 3.251m
全高: 3.112m
全備重量: 18.144t
乗員: 6名
エンジン: コンティネンタルW-670-9A 4ストローク星型7気筒空冷ガソリン
最大出力: 262hp/2,400rpm
最大速度: 24.14km/h(浮航 11.27km/h)
航続距離: 241km(浮航 161km)
武装: 16口径75mm榴弾砲M3×1 (100発)
12.7mm重機関銃M2×1 (400発)
装甲厚: 6.35〜38.1mm
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<LVT(A)4水陸両用自走榴弾砲 後期型>
全長: 7.95m
全幅: 3.251m
全高: 3.112m
全備重量: 18.144t
乗員: 6名
エンジン: コンティネンタルW-670-9A 4ストローク星型7気筒空冷ガソリン
最大出力: 262hp/2,400rpm
最大速度: 24.14km/h(浮航 11.27km/h)
航続距離: 241km(浮航 161km)
武装: 16口径75mm榴弾砲M3×1 (100発)
7.62mm機関銃M1919A4×3 (6,000発)
装甲厚: 6.35〜38.1mm
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<参考文献>
・「パンツァー2008年7月号 太平洋戦線で日本軍と戦ったアメリカ海兵隊のLVT水陸両用装軌車(2)」 高橋昇
著 アルゴノート社
・「パンツァー2024年9月号 水陸両用部隊の火力支援車輌 LVT(A)-1/(A)-4」 遠藤慧 著 アルゴノート社
・「パンツァー2022年6月号 Landing Vehicle Tracked Photo Album」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー2011年11月号 武装型LVTシリーズ」 大竹勝美 著 アルゴノート社
・「世界の戦車イラストレイテッド15 アムトラック 米軍水陸両用強襲車両」 スティーヴン・ザロガ 著 大日本絵
画
・「世界の戦車メカニカル大図鑑」 上田信 著 大日本絵画
・「グランドパワー2004年1月号 アメリカ軍の装軌式上陸車輌-LVTシリーズ(3)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 米英軍戦闘兵器カタログ Vol.4 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版
・「アメリカ・イギリス陸軍兵器集 Vol.2 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(3) 装軌/半装軌式戦闘車輌:1918〜2000」 デルタ出版 ・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
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