+開発
12月7日(ハワイ時間)に日本海軍がハワイ・オアフ島のパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した1941年にLVT1(Landing Vehicle Tracked 1:装軌式上陸用車両1号)を採用後、他国には見られない上陸作戦用の装軌式水陸両用車両を装備したアメリカ軍はLVT1の装備化後、運用経験から改良すべき箇所があることを認識した。
それは何よりも車内レイアウトの問題で、LVT1では車体前部に操縦室、車体中央部に貨物・兵員室、車体後部に機関室を配していたが、操縦室と機関室に挟まれた貨物・兵員室は、海上で輸送船から貨物や兵員を載せ替えることに不便は無かったものの、上陸後に貨物や兵員を車体側面部から降ろさなければならず、不便極まりなかった。
特に、重い装具を身に着けた上陸作戦に従事する兵士が、高い側面部をもたもた降りなければならないことは、不便どころか戦場では大変に危険であることが明白だった。
こうしたことから、早くからLVT1の設計を根本的に見直す必要性を唱えていたイリノイ州シカゴのボーグ・ワーナー社(ローブリング親子がアリゲイターを軍用化する際に協力した企業で、自動車用の歯車部品メーカー)はアメリカ海軍からの指示を受け、1942年8月には最初の試作LVTを完成させた。
ボーグ・ワーナー社が製作した最初の試作LVTは「モデルA」と呼ばれるもので、オープントップの貨物・兵員室部分に着脱式デッキを取り付けた上、そこにM3軽戦車の砲塔を搭載することができるという、いわばアムトラック(LVT)とアムタンク(武装型LVT)のコンバーチブル型というべきものだった。
大変にユニークな発想だったが、海軍当局にとって当時の主力アムトラックであったLVT2や、それをベースに開発されつつあったアムタンクLVT(A)1を併用することに比較しての優位性が感じられないために、量産は見送られてしまった。
ボーグ・ワーナー社はこの経験から、LVT本来の性能をあらゆる面で向上させることに設計努力を集中し、1943年に入って大型化した2番目の試作LVT「モデルB」を製作した。
モデルBはLVT1、LVT2のように車体後部に機関室を設ける代わりに、車体両側のスポンソン内にそれぞれ、ジェネラル・モータース社の子会社であるミシガン州デトロイトのキャディラック社製のシリーズ42 V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力148hp)と、M5軽戦車のものを流用した前進4段/後進1段の自動変速・操向機を収め、車体中央部の貨物・兵員室部分の容積を最大限増やすと共に、車体後部に車両や兵員の積み下ろしに便利なランプドアを設けていた。
一方LVT1、LVT2の開発・生産メーカーである、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのFMC社(Food Machinery Corporation:食品・機械企業)も、1943年7月から新型LVTの開発に着手していた。
後に「LVT4」(Landing Vehicle Tracked 4:装軌式上陸用車両4号)として制式採用されることになるFMC社の新型LVTは、機関室を車体前部の操縦室の後方に移すことで、やはり車体後部にランプドアを設置していたが、このランプドアのアイデア自体はボーグ・ワーナー社のモデルBの方が先に採用していた。
またモデルBはそれまでのLVTと異なり、操縦室を思い切って車体最前部に配置するレイアウトを採用した。
このようなレイアウトを採用したおかげで、モデルBは同様に車体後部にランプドアを設けたFMC社のLVT4と比較して、全長で2フィート(約61cm)ほど大きかったに過ぎないが、貨物・兵員室部分の長さは4フィート以上も大きかった。
モデルBは1943年8月に完成後、カリフォルニア州のペンドルトン海兵隊キャンプにおいて運用試験が実施され、概して好評を博した。
貨物・兵員室の容積が拡大されて、ジープのような車両や野砲の搭載が容易になったことのみならず、自動変速・操向機の採用により、海上から海岸に乗り上げる際に必要だったコツのいるギア操作を不要とし、操縦手の負担を減らす効果があったのも評価された。
機動性能面においては、貨物等の満載時は元々の搭載量が大きいこともあってLVT2よりやや劣る面もあったが、燃費効率は良く、ほぼ同一の行動半径をより少ない燃料で動き回ることができた。
しかしながら、モデルBは構造面でやや複雑なきらいがあったことや、追加装甲について海軍や海兵隊側から注文が出たため、生産型への改良と量産準備に時間が掛かった。
結局、「LVT3」(Landing Vehicle Tracked 3:装軌式上陸用車両3号)として制式採用後、実際に生産が始まったのは1944年3月からで、前線での消耗を見越してパーツ備蓄を図りながら完成車を温存したこともあり、戦場での初陣は翌45年春の沖縄侵攻作戦からだった。
「ブッシュマスター」(Bushmaster:中南米に生息する大型の毒ヘビ)の通称で呼ばれたLVT3は、1944年から日本の敗戦までに2,964両が生産された。
一方、ボーグ・ワーナー社のLVT3よりかなり遅れて開発がスタートしたFMC社のLVT4は、開発期間を短縮するために前作LVT2の基本設計をベースに開発を進め、兵員の迅速な乗降を可能とすべく、車体後部にウィンチ開閉式のランプドアを導入するために機関室を操縦室の後方に移し、それに伴って生じる問題に焦点を当てて対策を採ることに作業努力を集中させた。
そのおかげでLVT3に先んじて1943年末に「LVT4」として制式採用され、量産に入るという短期間での開発に成功した。
このためLVT4の生産数が大戦型LVT中最大の8,351両に達したのに対し、先に開発がスタートしたLVT3は1/3程度の生産数に留まったのである。
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+構造
LVT3の外見上の最大の特徴は、エンジンを含むパワープラントのほとんどを車体両側のスポンソン内に収めたことに伴って、操縦室を車体最前部に配置していた点である。
そのためやや、最初のLVTであるLVT1の車体形状に戻った感がある。
LVT3の操縦室内には中央部に操縦手席、その右隣に副操縦手席が配置されていた。
操縦室上部構造の前面には中央の着脱式ウィンドウシールドを含め3つ、両側面には1つずつ視察窓が配置されていたが、追加装甲を取り付けるとこれらは全て装甲板に覆われてしまい、外部視察は上部構造の上面中央に設置された旋回式ペリスコープで行うことになる。
LVT3の固有武装としては、操縦室上部構造の上面後端に設けられたピントルマウントに、ユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2を1挺、貨物・兵員室の両側面に設けられたピントルマウントに、同社製の7.62mm機関銃M1919A4を各1挺ずつ備えるようになっていた。
しかし、これは前線で射手を防護するために防盾を追加したり、機関銃を連装装備にする等必要と考えられる形態に変更することが可能だった。
LVT3の空荷での全備重量は29,600ポンド(13.426t)で、積載状態での最大浮航可能重量は38,600ポンド(17.509t)であるから、9,000ポンド(4,082kg)の兵員・物資の搭載が可能ということになる。
追加装甲を操縦室や車体の前/側面に取り付けた際の全備重量は32,500ポンド(14.742t)で、この場合の搭載可能重量は6,100ポンド(2,767kg)まで下がる。
LVT3の足周りは、ダブルビン結合の水掻き付き履帯を用いるフロントドライブ式ユニットを用いており、サスペンション方式は、ゴムと鋼製バーを併用した捩ればねによるトーシラスティック式サスペンションを採用していた。
機動性能は陸上では、平坦地での最大速度17マイル(27.36km)/h、水上では浮航最大速度6マイル(9.66km)/hであった。
沖縄、琉球諸島の占領作戦で第6海兵師団が用いて初めて実戦投入されたLVT3は、しかしながら日本側の戦術転換(水際迎撃作戦から内陸地での持久戦闘へ)もあって、タラワ等で見られたような激しい敵前上陸戦闘が生じず、一部のアムタンクを除きアムトラック群は内陸部の戦闘に投入されなかったため、LVT3は銃火に晒されることもほとんど無く、洋上から海岸部を結ぶ輸送任務に従事することに終わった。
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+戦後の改修
1945年8月15日に日本が降伏して太平洋戦争が終結したことに伴い、その時点でアムタンク、アムトラックの戦時量産計画はキャンセルされた。
そして戦地で消耗したアムトラックは現地処分(解体か放置)されることになり、未だ生産された内の大多数がアメリカ国内のストックヤードに残されていたLVT3が、同様にストックされていたLVT4と共に戦後のアムトラック大隊の主要装備と位置付けられ、戦訓に基づく改修を受けて部隊配備されるところとなった。
戦後最初のLVT3改修型は、従来は必要の都度取り付けていた追加装甲板を標準装備とし、操縦室上部構造への装甲追加時に塞がれていた操縦手席の視察窓に装甲ハッチを取り付けた上、上部構造の左右側面にも視察ブロックを追加して外部視察能力を向上させた。
武装面でも、副操縦手席にはLVT4の後期生産車と同様に、7.62mm機関銃を装備するボールマウントを追加し、操縦室上面の12.7mm重機関銃にも箱型の防盾を取り付けるようになった。
なお防盾を取り付ける場合、操縦室上面の武装パターンは上面左側に12.7mm重機関銃1挺か、上面左側に7.62mm機関銃、上面右側に12.7mm重機関銃を各1挺の2種類があった。
1949年、中国における国共内戦の激化(同年中に、蒋介石が率いる国民党は台湾に敗走し、毛沢東が率いる共産党が大陸側の支配権を掌握)や、ヨーロッパでの冷戦激化を受けてアメリカ軍は装備の近代化を図ることとなり、海兵隊は保有するLVT3のうち、運用頻度が少なかった1,200両を選んで本格的な改修を行うこととした。
アラバマ州モービルのコンティネンタル航空発動機が受注したLVT3の改修作業は、車体側面部を立ち上げながら、貨物・兵員室部分の上面全体を覆う観音開き式の装甲カバーを追加し、操縦室上部構造の後部中央に7.62mm機関銃1挺を装備する完全密閉式の旋回銃塔を新設することであった。
これらの改修は、太平洋戦争での反攻作戦初期からの戦訓に立ち返り、敵前上陸作戦における水際戦闘で見られた榴散弾や手榴弾による被害を防ぐために行われたものである。
改修の結果LVT3の重量は390kgほど増えたが、搭載可能重量は2,767kgを維持した(搭載貨物を含めた最大重量は39,200ポンド(17.781t))。
なおこの改修を受けた車両には、LVT3C(接尾記号の”C”はCovered:カバー付きの頭文字)の呼称が与えられた。
折も折、LVT3Cは1950年6月に朝鮮戦争が勃発したのに対応して、直ちに第1海兵師団所属の第1アムトラック大隊に配備され、同年9月の仁川(インチョン)上陸作戦に投入されて戦勢挽回の任を担った他、続く漢江(ハンガン)渡河侵攻作戦でも活躍した。
共産側が中国義勇軍(人民志願軍)を投入して大攻勢に立った局面では、北朝鮮東部の興南(フンナム)港からの撤退作戦でも力を発揮する等、朝鮮戦争において大いに活用された。
その際注目すべきことは、単に上陸作戦時やその前後の補給活動での運用のみならず、限定的ながら漢江反撃作戦においては渡河後もAPC(装甲兵員輸送車)として活用され、戦車と随伴した歩兵部隊のスピーディーな展開と進撃に貢献したことである。
事実上、LVT3やLVT3Cは後のM113 APCの先駆け的な役割を朝鮮戦争で演じたといえる。
以上のように目立たないが重要な役割を演じたLVT3は、朝鮮戦争における運用でその多くが消耗され(程度が比較的良かった車両はそのまま残されて韓国軍に引き渡されるか、台湾の中華民国軍に供与された)、再生修理ではコストが掛かり過ぎるとの理由から、戦線から引き揚げられた車両のほとんどが廃棄処分されて解体されるか、射爆場の標的としてその生涯を終えている。
LVT3とLVT3Cは、その構造的特徴の面でも実際の活躍の面でも、第2次世界大戦型LVTと戦後型LVTの橋渡し的な位置を占めたものといえる。
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