+開発
迫り来る対日戦に備えて装軌式上陸用車両LVT1の大量調達を始めたアメリカ海軍/海兵隊は、その一方で運用上の問題点をまとめ、改良型LVTの開発に着手していた。
LVT1の生産メーカーであるペンシルヴェニア州フィラデルフィアのFMC社(Food Machinery Corporation:食品・機械企業)は第1生産ロットの引き渡し直後、海軍艦艇設計局の監督を受けながらLVT1の基本設計の見直しに取り掛かった。
この改良型LVTは「ウォーター・バファロウ」(Water Buffalo:水牛)と呼ばれたが、LVT1からの改善のポイントは運用寿命・耐久性と水上での安定性の向上であった。
そのためまず車体全体が大型化されることとなり、車体長を55インチ(1.397m)増やし、全幅も10インチ(0.254m)増すこととなった。
ウォーター・バファロウの最初の試作車は日米開戦とほぼ同時の1941年12月に完成したが、その後様々な運用試験が課されて、結局100カ所以上に渡る改善措置が施されることとなった。
その他の外見上現れた改良点は操縦室の上部構造の小型化、足周りの変更であった。
操縦室の上部構造はLVT1よりも低くされ、側面に大きな傾斜角が付けられた。
これに伴って上部構造前面の幅が狭くなったため、前面の視察窓の数がLVT1の3つから2つに減らされた。
この上部構造の小型化によって敵に狙われ易い操縦室の暴露面積を減少させることができ、また水上航行時の車体の安定性も向上した。
足周りは履帯の連結部が強度を増したダブルピン式になり、水掻きもLVT1の長く突き出たタイプから、逆さW字型のやや短めのものに変更されて全体的に運用寿命が延ばされた。
また鋼製ローラーを埋め込んだ履帯ガイド方式を止め、トーションバー(捩り棒)とゴムを併用したトーシラスティック式サスペンションで懸架した小転輪(片側11個)を露出させて、スポンソン部に取り付けるようにした。
スポンソン上部には、片側2個の上部支持輪が配置された。
これで、海岸部の小石や岩のゴツゴツした部分でも足周りを破損し難くなった上、海水による腐食にも強くなり整備もし易くなった。
もう1つの重要な改良点は、パワープラントをそっくりM3A1軽戦車のものに代えたことである。
車体後部の機関室には、アラバマ州モービルのコンティネンタル航空発動機製のW-670-9A 星型7気筒空冷ガソリン・エンジン(出力262hp)が搭載され、貨物・兵員室部分を貫いて推進軸が車体前部に渡され、操縦手席前方でオハイオ州モーミーのハーディ・スパイサー社製の機械式変速・操向機(シンクロメッシュ式、前進5段/後進1段)に連結された。
このシステムにより搭載貨物の形状が制限される場合が生じたが、概して壊れ易い駆動部分の修理がやり易くなるという利点もあった。
併せてM3A1軽戦車はアメリカ海兵隊の主要装備戦車でもあったので、パーツの共用化が図れる等兵站面でも有利といえた。
大出力エンジンを搭載したのに伴って燃料搭載量も増やされ、110ガロン(416リットル)となった。
「LVT2」(Landing Vehicle Tracked 2:装軌式上陸用車両2号)として制式採用されたウォーター・バファロウは、全長313インチ(7.95m)、全幅128インチ(3.251m)、全高98インチ(2.489m)、戦闘重量30,900ポンド(14.016t)とLVT1より一回り大型になった。
それに伴い搭載量も完全装備の兵員なら24名、貨物なら6,500ポンド(2,948kg)に増えた。
機動性能も向上し、最大速度は地上で20マイル(32.19km)/h、水上で7.5マイル(12.07km)/h、航続距離は地上で150マイル(241km)、水上で50マイル(80km)となった(航続距離を地上300マイル、水上200マイルとする資料も存在する)。
カタログデータで見る限り、LVT1に比べて画期的に運用性能がアップしたといえる。
自衛兵器もユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2と、7.62mm機関銃M1919A4を各1挺ずつ標準装備するようになったが、必要に応じて貨物・兵員室の内壁に設けられているガイドレール部に、2〜3挺の7.62mm機関銃を増設できた。
LVT2は1943年から1944年春にかけて2,963両が生産されたが、このうち同盟国に供与されたのは101両のみで、アメリカ海兵隊に1,355両、アメリカ陸軍に1,507両が引き渡された。
LVT2は1943年11月のタラワ環礁上陸作戦で初めて実戦投入され、LVT1と共に日本軍の熾烈な砲火の洗礼を受けることになった。
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+戦歴
LVTは、当初からアメリカ海兵隊が上陸作戦において想定した役割について、狙った通りの働きをブーゲンビル、ガダルカナル等での活動で示した。
しかし、戦況の推移はLVTに新たな任務を与えることとなった。
敵前強襲上陸への投入である。
アメリカ軍はガダルカナル島を始めとするソロモン諸島での反攻作戦に成功後、太平洋に散らばる環礁や島に存在する日本軍の基地を強襲、占領しながら飛び石で日本本土に向けて侵攻する戦略を採ることになっていた。
1943年半ば以降にこの戦略を具体化していくに当たって、上陸作戦の技術的問題として浮上したのが、マーシャル諸島やギルバート諸島等、日本軍が基地を置いている島々の多くが遠浅のサンゴ環礁に取り巻かれており、ここをどうクリアして敵前上陸するかであった。
サンゴ環礁は水深0.5〜1m程度のゴツゴツした浅瀬を形成しており、それが島の周囲1〜2kmにも渡って暗礁として取り巻いていた。
ここに上陸用舟艇で歩兵を投入した場合、水深が浅い上に足元の悪いサンゴ環礁を兵士たちは、腰から胸まで水に浸かりながらモタモタと歩いて海岸まで進まなければならないことになる。
これでは、水際の防御陣地に配置されているであろう日本軍の重機関銃や火砲の恰好の標的になってしまい、想像を超える死傷者が出ることは明白だった。
タラワ環礁のベティオ島占領を任務として割り当てられた第2海兵師団は、環礁の浅瀬を突破するためにLVTを運用することを決定した。
同師団に配属されていた第2水陸両用トラクター(アムトラック)大隊は、ソロモン諸島での輸送任務で消耗していたが、ニュージーランドでの再編制中に配備定数100両のLVT1の内75両が整備再生された。
さらに、アメリカ本土で生産されたばかりのLVT2が50両新たに配属されることとなり、大隊は125両のLVTを擁することとなった(ただし、50両のLVT2は作戦に間に合わせるために、要員と共に直接アメリカ本土から戦場に輸送されて、そこで合流することとなった)。
第2アムトラック大隊の指揮官H.C.ドリューズ少佐はLVTを強襲上陸に使用した場合、敵銃火を浴びることが必至であると考え、ニュージーランドにおいて厚さ9mmのボイラー用鋼板を調達し、LVT1の操縦室上部構造の前面と左右側面に取り付けた。
軟鋼製のLVTは、重機関銃はおろか小銃弾の直射にすら耐えることが困難であるからである。
なお戦場で合流するLVT2も、アメリカ本国で操縦室上部構造の前面に鋼板を追加した。
また、全てのLVTに1挺の12.7mm重機関銃と2挺の7.62mm機関銃が取り付けられた。
こうしたドリューズ少佐の措置は先見の明があるものだったが、タラワにおける日本軍の砲火は彼らの予想を超える強力なものだった。
1943年11月20日に敢行されたタラワ強襲上陸は、その後のアメリカ海兵隊による上陸戦闘の基本手法を確立していくテストケースとなったが、3,000名以上の死傷者を出す凄惨な戦闘は、アメリカ軍はもとよりアメリカ国民にも大きなショックを与えるものとなった。
タラワ環礁のベティオ島への上陸は突撃1〜3波がLVTで、同4〜5波が上陸用舟艇(歩兵揚陸用LCVPと戦車揚陸用LCM)を使って行われた。
さらに詳細を述べると突撃1波にLVT1を42両、2波にLVT2を24両、3波(上陸各中隊本部を輸送)にLVT2を21両投入している。
残り25両のLVT1は弾薬、食料等の補給品を搭載して輸送艦内に待機していた。
これは上陸部隊が海岸線を平定後、継続する戦闘に必要な補給品を速やかに届けるためだったが、併せて強襲上陸の際に予想されるLVTの消耗に備えて、必要な場合に人員輸送に切り替えることをも視野に置いての措置だった。
LVTは輸送艦から発進後、海兵を載せた別の輸送艦に接舷して各車10数名ずつを支援兵器(7.62mm機関銃チームや60mm迫撃砲チーム)と共に載せ、あらかじめ掃海された環礁への侵入集合地点に移動した後、各波ずつ島の北岸の指定上陸地点(レッド1〜3の3区画で、それぞれを各1個海兵大隊が分担)に殺到した。
要塞化された小島の海岸に対する強襲上陸は、アメリカ海兵隊/海軍にとって初めての経験であった。
タラワ環礁を守備する日本海軍の第3特別根拠地隊は、横須賀鎮守府第6特別陸戦隊と佐世保鎮守府第7特別陸戦隊の計2,619名の将兵を主力とし、他に第111設営隊と第4施設部派遣隊が擁する朝鮮人労務者と技術要員等約2,200名から成っていた。
ベティオ島は東西に約4km、幅は最も広い所で600m、面積わずか2.6km2の小さなサンゴ岩礁で、島の中央には1,000m滑走路が配置されていた。
第3根拠地隊は、この島の海岸部に椰子の丸太を組んで高さ約1mの防潮堤を築き(戦車に対する障害物も兼ねていた)、各所に高射砲や山砲、機関銃を配置した掩蔽陣地が構築されていた。
作戦終了後にアメリカ海兵隊が調査したところ、簡易トーチカを含めて500カ所以上の強化火点が作られていたという。
島の西端には、大口径の20cm要塞砲と旧式巡洋艦から降ろした14cm艦砲が各4門配置され、他に八八式7cm野戦高射砲8門、12.7cm連装高射砲4基、四十一年式7.5cm山砲4門、九二式7cm歩兵砲12門、九四式3.7cm速射砲9門、九三式13mm連装機銃4基、九三式13mm単装機銃27挺、九二式7.7mm重機関銃4挺が防備火器として布陣していた。
その他に、37mm戦車砲を搭載する九五式軽戦車7両(8両説もあり)も隠蔽されて配置されていた。
ベティオ島の防備状況を綿密に調査したアメリカ海軍は、上陸以前の徹底した艦砲射撃と空母艦載機による爆撃により徹底して日本軍の防御陣地を叩き、LVTに便乗した強襲部隊が上陸する直前まで、小型火力支援艇LCS(S)4隻によるロケット砲を用いた制圧射撃を海岸部に加えて、日本側の組織的抵抗力を奪う戦術を採ることとした。
しかし結果として、この上陸前砲爆撃が有効に行われなかったことが、上陸部隊とLVTに甚大な損害を強いる原因となった。
上陸前3時間に渡り、旧式戦艦3隻の巨砲も加わった17隻の艦艇による艦砲射撃も、信管セットの微妙なミスや爆発の衝撃を吸収し易いサンゴ岩礁と、その性質を利用した日本軍陣地のために効果が薄く、大型の火砲と若干の高射砲を破壊したものの、掩蔽壕に配置された重機関銃類は無傷だった。
また、戦艦に臨時に設けられた作戦管制室の無線機器が主砲発射の衝撃で故障したために、航空機による攻撃も地表が砲撃による煙に覆われた時点で行われたため成功しなかった。
午前9時過ぎ、艦砲射撃が停止された後に突撃1波のLVT1がベティオ島の北岸に殺到した。
当初日本側の砲火は散発的だったが、岸から200m以内に到達した時点で機関銃や小銃が火蓋を開いた。
前述の原因のため多くの日本軍火点は健在で、巧みに十字砲火となるように配置された機関銃はLVT1の非装甲の車体を瞬く間に穴だらけにしていった。
車体側面部に配置されたガソリンタンクを貫徹されて炎上したり、機関室内を破壊されて擱座するLVT1が続出した。
第1陣の海兵隊員たちが海岸に辿り着きアメリカ軍側の支援砲火が弱まると、日本軍の高射砲や野砲の砲座、13mm機銃を据えた火点が次々に復旧され、暗礁の浅瀬を往復するLVT1やLVT2を狙い撃ちし始めた。
LVTは、途中で擱座した僚車に搭乗していた海兵たちを収容して輸送するため、海岸部と暗礁部を往復していたが、この間にも野砲と高射砲の命中弾を受けて破壊されたものがあり、死傷者も続出した。
第2アムトラック大隊長のドリューズ少佐も、LVT上で指揮を執っている最中に高射砲弾の直撃を受け戦死した。
上陸初日、突撃4波以降でM4中戦車や軽戦車が上陸してくるまで、LVT群は自衛用の機関銃を乱射して反撃する以外に、海岸の各所を掃射するように配置された日本軍火点に対してお手上げの状況が続いた。
結局LVT群は、ベティオ島全体が制圧されるまでの3日間に渡り浅瀬を往復して補給活動に従事したが、その間に驚異的な戦意を発揮する日本軍火点から野砲弾や13mm、7.7mm機関銃弾を浴びせられて、炎上したり沈没したりする損害が多発した。
島が制圧されるまでの間、野砲や高射砲で破壊されたLVTは35両、機関銃弾によって失われたものが26両で、その他に地雷や日本兵の肉薄攻撃によるものを含め、全体の72%にあたる90両が失われてしまった。
生き残ったLVTはたったの35両で、第2アムトラック大隊の要員の死傷者は166名(戦死63名、負傷103名)に達した。
これは同大隊の649名の26%に上る損耗率で、第2海兵師団全体の損耗率22%を上回るものだった。
タラワ環礁への上陸作戦はアメリカ海兵隊にとっても、あるいはアムトラック大隊にとっても、予想以上に凄惨な業火であったといえる。
しかし高い損耗率とはいえ、LVT無しに上陸用舟艇から下りた海兵隊員たちが長い浅瀬を歩いて渡ったなら、損害はこんなもので済まなかった−というより、上陸作戦そのものの成否すら危うかったに違いない。
タラワの戦いは、大隊長ドリューズ少佐を含む多くのアムトラック大隊将兵の血塗れの奮闘の中で、成功が保障されたといえた。
そしてこの戦いを契機に、アメリカ軍の上陸戦術にとってLVTは欠くべからざるものとなったのである。
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