LVT1水陸両用兵員輸送車
|
|
+開発
第1次世界大戦終結後の1920年代からアメリカ合衆国は次の敵は日本になると考え、想定戦場は太平洋の各所に散らばる群島や、いくらか大きな陸地であると見なしていた。
ここを舞台にしての日米戦の基本的様相は、艦隊に護衛された輸送船団が軍部隊の戦略移動と補給を担い、広い海洋に散らばった日本の委任統治領土を含む島々へ、アメリカ軍が上陸作戦を繰り返しての争奪戦になることが当然であった。
上陸作戦における最大の問題は、揚陸部隊の無防備状態であった。
第1次世界大戦では1915〜16年にかけて、ダーダネルス海峡部のヨーロッパ大陸側トルコ領であるガリポリに対してイギリス連邦軍が大軍を投じて上陸作戦を敢行したにも関わらず、海岸部の高地に依って奮戦するトルコ軍に内陸への侵攻をガッチリと食い止められ、最終的には撃退されるという痛切な経験があった。
ガリポリ会戦は第1次大戦における唯一の本格的上陸作戦であると共に、近代的軍部隊による最初の海岸強襲戦であったため、アメリカ軍の中でも特に先乗り部隊として位置付けられてきた海兵隊はこの戦訓を重視し、上陸作戦を成功裏に進めるための支援装備の研究に1920〜30年代いっぱいに渡って熱心に取り組んだ。
そして1930年代後半期には上陸演習も繰り返され、その後に海兵隊が展開した上陸作戦の基本ドクトリンが確立されていくことになった。
こうした取り組みの中で、上陸作戦に用いられてきた旧態依然たる木製ボートに代わる近代的な上陸用舟艇の必要性が明確になって開発着手された他、支援用の水陸両用車両の研究開発も始まった。
クリスティー快速戦車の設計で有名なジョン・ウォルター・クリスティー技師も、75mm砲を搭載したM1923水陸両用戦車(実際はオープントップ式の自走砲)を試作したが、水上での機動性能に問題があり採用されなかった。
その後、全般的な軍縮指向の中で予算も削減されて、金のかかる具体的装備の開発が思うに任せなくなり、上陸作戦支援車両の研究も事実上頓挫した形で推移した。
しかし、この状況は思わぬ出来事で転換されていくこととなった。
そのきっかけは、1935年にフロリダ半島を襲ったハリケーンによる大水害である。
内陸に湖沼や低湿地の多いフロリダは、カリブ海名物のハリケーンが発生して襲う度に大きな物的・人的被害を出していた。
1935年の大型ハリケーンは例年以上の被害を出したが、この時に特に問題としてクローズアップされたのは、フロリダの低湿地や沼地では車両はもちろんのこと、救難用ボートも水草や粘土質の泥によって行動が妨げられ、増水して沼地と化した湿地帯の各所に孤立した被災者の救援活動が水が自然に引くまでの間、ほとんどお手上げ状態になってしまったことである。
ニューヨーク市のブルックリン大橋の設計者であるジョン・ローブリングの孫であるジョン・ローブリング2世と、その息子のドナルド・ローブリングの親子はこの事態を鑑みて、「水上はもちろんのこと、ボートでは着底して進めないような沼地でも自由に行動できる装軌式の水陸両用車両があれば、もっと容易に被災者を救助できるのではないか」と考えた。
そして私費を投じて、独自に装軌式水陸両用車両の開発に着手したのである。
優れた技術者の血を引くローブリング親子は、早くも1935年中に最初の試作車「アリゲイター」(Alligator:フロリダの湿地帯に多く生息するワニの一種)を完成させた。
このアリゲイターは全長7.3m、重量5.35tで車体は軽量なアルミニウム板で組み立てられ、水掻きの付いた履帯で水上でも軟弱地でも行動することができるというものだった。
しかしながら、水上での行動速度が人間の歩く速度と同等程度の3.5km/hしか出せず、ローブリング親子はこれに満足できなかった。
続いて履帯を強化すると共に、車体両側面に多数の鋼製ローラーを埋め込むように取り付けた履帯ガイドを持つスポンソンを浮力向上を兼ねて設け、車体全体も大型化した2番目の試作車も完成させた。
車体後部に配置された起動輪は、チェインでパワープラントから駆動力を得るようになっており、足周りは軟弱地を例外的に進むのが前提であるため、サスペンションは持たなかった。
重量3.95t、出力85hpのフォード自動車製ガソリン・エンジンを搭載し、水上での行動速度14km/hを発揮する試作第2号車の性能は、ローブリング親子にとって満足のいくものと思われた。
アリゲイター第2号車は1937年10月4日付の週刊「ライフ」に、「ローブリング氏のフロリダ救難用ワニ(アリゲイター)」と題して写真と共にレポートで紹介された。
そしてこの記事が、アメリカ海兵隊の上陸図上演習後の夕食会において話題になったのである。
部下から記事を示された海兵隊司令官のルイス・リトル将軍は、大いに興味をそそられた。
1938年3月、海兵隊のジョン・カルーフ少佐がローブリング氏のもとを訪れ、アリゲイターの実働状況を視察すると共に、軍用に供する可能性について開発者と協議を行った。
その間、試作車購入や開発費用を予算計上するためのアメリカ海軍との折衝(海兵隊は予算面では海軍から独立しておらず、上陸作戦用資材の調達は海軍小型艦艇予算で賄われることになっていた)が行われたが、世界恐慌後に発足したルーズベルト政権下で軍事予算の緊縮方針が実施されており、海軍側からは色よい返事が得られなかった。
海軍としてはヨーロッパでの全体主義の勃興や、東アジアでの日本の勢力拡大に脅威を感じていないわけではなかったが、それだけに限られた艦艇整備予算を、彼らにとっては補助的な海兵隊装備のために割かれたくなかったのが本音であろう(海兵隊の上陸作戦指向とは戦略的な方向性が異なる、日本海軍との艦隊決戦指向をアメリカ海軍は保持していた)。
しかし、海兵隊の熱意は海軍の協力が得られないもとでも衰えず、結局1939年になって海兵隊装備調達委員長のエミール・モーゼス将軍の名義で、ローブリング氏との間にアリゲイターを軍用に改造した試作車製作をする業務に関する契約が締結された。
「クロコダイル」(Crocodile:フロリダ南部に生息するワニの一種、アリゲイターに比べて獰猛な性格)と呼ばれるようになった新しい試作車は、1940年5月に完成した。
すでに第2次世界大戦の幕は切って落とされ、ヨーロッパではドイツ軍によるデンマークやノルウェイ占領が成り、オランダ、ベルギー、フランスへの侵攻が始まった頃である。
クロコダイルは週刊「ライフ」に紹介されたアリゲイター第2号車と外見上の違いはほとんど無く、エンジンが出力95hpのマーキュリー社製ガソリン・エンジンに換装されていただけであった。
ヨーロッパの戦況の影響でアメリカ政府も戦争準備に入る方向に転換し、予算枠も大きく増やされるところとなった。
このため海軍も、海兵隊が独自に発注した装軌式水陸両用車両の開発に予算を付けることを決定し、出力120hpのリンカーン社製ガソリン・エンジンを搭載したクロコダイルの試作第2号車を発注した。
完成したクロコダイル第2号車は、1941年1月の艦隊上陸演習において実地試験を受けた。
結局、海軍はクロコダイル第2号車を「LVT1」(Landing Vehicle Tracked 1:装軌式上陸用車両1号)の呼称で制式採用することを決定し、車体構造を全て軟鋼製に変更した生産型200両の製造を発注するに至ったのである。
LVT1の構造を軟鋼製に変更したのは、大量調達するのにアルミニウム製では高価過ぎることと、軍用でハードな運用をして破損しても補修がやり易い等の点が考慮されてのことである。
しかし、ローブリング氏が経営するクリアウォーター社は会社の規模が小さいため大量生産の体制が取れず、LVT1の量産はペンシルヴェニア州フィラデルフィアのFMC社(Food
Machinery Corporation:食品・機械企業)が受注することになった。
同社の主任設計者であるジェイムズ・ホイト技師が軟鋼製車体の基本設計をやり直し、溶接・リベット接合構造の生産容易な設計に改めた。
なおFMC社はアリゲイターの開発途上からクリアウォーター社に協力し、部品製作を請け負っていたが、これまで車両製作を本業にしたことは無かった。
食品加工工場用の各種自動機械を製造していたFMC社にとって、LVT1は初めての軍用車両製作であったが、同社はLVTシリーズの製造を皮切りに、戦後はM113装甲兵員輸送車等の開発・生産を担うアメリカの主要なAFVメーカーの1つに発展していくこととなった。
LVT1は1941年6月に、最初の生産ロットがFMC社からアメリカ軍に引き渡された。
日本海軍がハワイ・オアフ島のパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発する半年前のことである。
なおLVT1は、部隊内ではしばしば「水陸両用トラクター」(Amphibian Tractor)の略語である「アムトラック」(Amtrac)、または「アリゲイター」と呼ばれた。
生産型のLVT1はエンジンをさらにパワーアップして、ハーキュリーズ自動車製のWXLC-3 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力146hp)を搭載した。
一旦量産が始まると、日米両国間の緊張が高まりつつあった時期だけに、LVT1は調達計画が大幅に増やされていった。
結局1941年中に72両、対日開戦後の1942年に851両、1943年に302両の計1,225両のLVT1が作られ、これらの内540両がアメリカ海兵隊、485両がアメリカ陸軍、残りの200両がイギリス連邦軍等に引き渡された。
LVT1は1941年夏に調達を開始した当初から、幾つかの弱点が判明していた。
これは元々淡水の湖沼や河川、低湿地での活動を前提にしていた車両を海洋、海岸地帯で運用することにしたことから生じた問題であった。
履帯と足周り、パワープラントの耐久性で、フロリダの低湿地から海水と様々な条件の海岸での上陸活動へと想定する活動域が変わったことにより、運用時間にしておよそ200〜300時間が耐久限界とされた。
海水に含まれる塩分が履帯や鋼製ローラーを腐食させる速度が早かった上、固い地表の海岸で行動すると容易に履帯の水掻きが折損すると共に、連結部も切れた。
鋼製ローラーに至っては、海水による腐食で錆び付いてしまえばお手上げに近い状態になってしまった。
貨物や兵員を搭載すればなおさら足周りやパワープラントへの負担も増し、民生用のエンジンや変速・操向機もハードな運用ですぐにダメになってしまうものだった。
実際、後述するように運用に際してはまさに消耗品と言って良いほど、LVT1は任務遂行と引き換えに急速にリタイアしたのである。
また、風波の影響が激しい海上で行動すると前後にローリングし易いきらいがあり、天候によっては運用に問題が出る場合があった。
それでも、着岸からすぐに内陸に進んでいける能力を持つLVT1は、上陸用舟艇はもとより他のあらゆる装備に代えられない重要な役割を果たすことが可能だった。
そして、後述するガダルカナル反攻上陸作戦での輸送任務に投入されて以降、太平洋戦域での反攻作戦の初期におけるアメリカ軍の活動の成功に大きく貢献することになるのである。
|
+構造
生産型のLVT1はクロコダイル第2号車よりエンジンがさらに強化されており、オハイオ州カントンのハーキュリーズ自動車製のWXLC-3 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力146hp)と、同州モーミーのハーディ・スパイサー社製の前進3段/後進1段の機械式変速機、クラッチ・ブレーキ式操向機を組み合わせたパワープラントを搭載していた。
箱型の車体は軟鋼板の溶接・リベット接合構造で全長258インチ(6.553m)、全幅118インチ(2.997m)、全高97.5インチ(2.477m)となっていた。
車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が貨物・兵員室、車体後部が機関室となっており、車体重量は17,300ポンド(7.847t)であった。
地上での最大速度は12マイル(19.31km)/h、水上では6.1マイル(9.82km)/hを発揮し、航続距離は地上150マイル(241km)、水上60マイル(97km)となっていた。
操縦室の上部には後方のみオープンとした軟鋼製の上部構造が設けられており、前面に3つの大きな視察窓が配置され、左右側面にも1つずつ小さな窓があった。
操縦室内には正副操縦手に加え、必要な場合指揮官の計3名が搭乗した。
車体中央部の貨物・兵員室はオープントップ式で、完全装備の兵員20名か雑貨物4,500ポンド(2,041kg)を搭載することができた。
操縦室の上部構造の上面中央には機関銃用のピントルマウント、貨物・兵員室の内壁にもピントルマウントを取り付けるレールが設けられており、通常はユタ州オグデンのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2と、7.62mm機関銃M1919A4を各1挺ずつ装備した。
しかしながらLVT1は車体も上部構造もあくまで非装甲なので、これらは強襲上陸用の支援兵器というより緊急時の自衛兵器というべき位置付けだった。
調達当初のLVT1の想定任務は艦艇から海岸、そして海岸部から前線地区への物資・人員の輸送であり、強襲上陸作戦の先頭に立って行動することは考慮されていなかったのである。
足周りはローブリング氏が考案したものをそのまま受け継いで、車体側面後部に起動輪を配置し、小転輪と浮力確保を兼ねた足周りを支えるスポンソンの周囲を、水掻き付きの履帯が回転する構造になっていた。
スポンソンの両側には乗降のための足掛けの窪みが初期には前後に3カ所ずつ、後期には2カ所ずつ設けられていた。
兵員が搭乗する場合、ここから車内によじ登るわけである。
履帯の張度の調節は、車体側面前部の誘導輪を前後させて行うようになっていた。
燃料タンクは足周り関係の内側の車体側面部に配置されており、ここに80ガロン(303リットル)のガソリンを搭載した。
|
+戦歴
LVT1の開発は太平洋戦争開戦という事態を迎え、誠に時宜に適ったものであったことが明白となり、前述のように開戦後の1942年には851両へと生産量が跳ね上がった。
アメリカ海兵隊に引き渡されたLVT1は試験運用と基幹要員の養成を経て、1942年2月16日には第1水陸両用トラクター大隊が、続く3月18日には第2水陸両用トラクター大隊が編制され、それぞれ第1、第2海兵師団に配属された。
同年9月には第3海兵師団創設と共に、同師団配属の第3水陸両用トラクター大隊も編制されている。
なお前述のように「水陸両用トラクター」は、部隊内では「アムトラック」の略語で呼ばれることが多かった。
各アムトラック大隊の基本的編制は要員500名、30両ずつのLVTを装備する中隊3個と本部中隊(LVTが10両)で、LVTの装備定数は100両とされていた。
海兵師団は3個海兵連隊から成っていたため、上陸作戦においては各連隊に1個ずつLVT中隊を割り当てることを想定していた。
アムトラック大隊が初めて実働したのは、1942年8月のガダルカナル反攻上陸作戦においてだった。
ここでは第1、第2アムトラック大隊が沖合から海岸部、あるいは内陸のジャングル内の軟弱地に対する補給活動に従事した。
この時は、ごく一部のLVT1が前線で戦闘員を輸送する任務に使われ、2両が日本軍との戦闘で失われたという。
一方、大西洋戦域においても同年11月、連合軍がフランス領北アフリカに上陸した「松明作戦」(Operation Torch)で、大西洋艦隊所属海兵軍団のLVT1が用いられた他、同じ頃北ソロモン諸島のブーゲンビル島で、創設間もない第3アムトラック大隊が洋上から海岸部までの補給任務に当たった。
1942年後半期に開始されたLVT1の運用で、かねてから予想されていたとはいえ、すぐに直面することになったのは損耗度の高さだった。
海水による腐食に加え、サスペンションも無く長い水掻きの付いた履帯から成る足周りの破損の多さ、オーバーワークに弱いエンジンや変速・操向機のおかげで、LVT1は消耗品としての実態を露わにした。
第3アムトラック大隊は、通常定数より多い124両のLVT1をもってブーゲンビル島で延べ23,000tもの補給物資を運ぶ功績を挙げたが、上陸以来の運用3週間で実働可能車がわずか29両に減ってしまったほどであった。
しかしLVTは概して用兵側の期待通りの活躍をし、特に太平洋戦域における上陸作戦には欠かせない装備であると見なされるようになった。
|
<LVT1水陸両用兵員輸送車>
全長: 6.553m
全幅: 2.997m
全高: 2.477m
全備重量: 7.847t
乗員: 3名
兵員: 20名
エンジン: ハーキュリーズWXLC-3 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 146hp/2,400rpm
最大速度: 19.31km/h(浮航 9.82km/h)
航続距離: 241km(浮航 97km)
武装: 12.7mm重機関銃M2×1
7.62mm機関銃M1919A4×1
装甲厚:
|
<参考文献>
・「パンツァー2008年5月号 太平洋戦線で日本軍と戦ったアメリカ海兵隊のLVT水陸両用装軌車(1)」 高橋昇
著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年7月号 太平洋戦線で日本軍と戦ったアメリカ海兵隊のLVT水陸両用装軌車(2)」 高橋昇
著 アルゴノート社
・「パンツァー2022年6月号 Landing Vehicle Tracked Photo Album」 白石光 著 アルゴノート社
・「世界の戦車イラストレイテッド15 アムトラック 米軍水陸両用強襲車両」 スティーヴン・ザロガ 著 大日本絵
画
・「世界の戦車メカニカル大図鑑」 上田信 著 大日本絵画
・「グランドパワー2003年11月号 アメリカ軍の装軌式上陸車輌-LVTシリーズ(1)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 米英軍戦闘兵器カタログ Vol.4 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版
・「アメリカ・イギリス陸軍兵器集 Vol.2 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(3) 装軌/半装軌式戦闘車輌:1918〜2000」 デルタ出版
・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
・「世界の戦車パーフェクトBOOK 最新版」 コスミック出版
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
|