●開発 第2次世界大戦に敗れたドイツは各連合国に占領され、独立国ではなくなってしまった。 連合国はドイツを再び戦争を起こすことの無い平和国家とするため、兵器の開発を禁止した。 こうして優秀なドイツの戦車技術も失われるかと思われたが、米ソの冷戦の勃発は事態を根本から変えた。 ソ連は自国の占領地域を「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)として独立させ、これに対抗してアメリカ、イギリス、フランスは3国の占領地域を「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)として独立させたのである。 1949年にアメリカ、イギリス、フランスを中心とする西側12カ国で結成されたNATO(北大西洋条約機構)は、ソ連を中心とする共産圏に対抗するために西ドイツの再軍備とNATOへの加盟を1955年に認めた。 西ドイツの再軍備にあたって各種装備は主にアメリカから供与されたが、戦車はM41軽戦車、M47戦車、M48戦車が引き渡された。 これらは戦後のアメリカ陸軍を支えた優秀な戦車であったがいかんせん基本設計が古く、すでに旧式化が始まっていた。 それに何より、西ドイツ陸軍の運用構想に合わなかった。 これらの戦車は将来戦場に不可欠と考えられたNBC防護能力を持っておらず、大柄で大重量過ぎると考えられたのである。 このため西ドイツ陸軍は自軍の運用構想に合致した30t級の新型MBT(主力戦車)を国産開発することを決定し、1956年11月23日に計画をスタートさせた。 ちょうど同じ頃、西ドイツ陸軍と同じくアメリカ製戦車を運用していたフランス陸軍も新型MBTの国産開発を計画していた。 戦車の開発には多大なコストが掛かるため、開発コストの低減のために両国は新型MBTを共同開発する方向で検討を重ね、1957年6月に「ヨーロッパ戦車」(Euro Panzer)あるいは「標準戦車」(Standard Panzer)と呼ばれる新型MBTの共同開発に関する協定が結ばれた。 1957年7月25日にまとめられた標準戦車の基本仕様は、以下のようなものだった。 ・戦闘重量30t級 ・出力/重量比30hp/t ・多燃料空冷エンジンの搭載 ・路上航続距離350km ・サスペンションはトーションバーか油気圧式 ・全幅3,150mm ・履帯接地圧9.8kg/cm2 ・2,000~2,500mの射距離で傾斜角30度の150mm厚RHA(均質圧延装甲板)を貫徹する能力を持つ ・近接距離からの20mm機関砲弾の直撃に耐える ・NBC防護能力 ・24時間の連続戦闘行動が可能 これを見ると火力と機動力が優先され、装甲防御力はあまり考慮されていなかったことが分かる。 これは当時フランスが開発を進めていた成形炸薬弾頭を持つ対戦車誘導ミサイルの発達で、戦車の装甲防御力がほとんど無意味になるという発想に基づくものであった。 その代わりに機動力が重視されていたが、これは高い機動力によって対戦車ミサイルを回避しようというものである。 この仕様についてはさらに協議が進められて1958年4月1日に最終的な合意が両国国防省で合意されたが、そこでは全幅がフランス案で3,100mm、西ドイツ案で3,250mmに変更されていた。 さらに同年9月には、イタリア陸軍も標準戦車計画に加わることが決まった。 ただしイタリア陸軍は開発そのものには直接には参加せずに、完成した車両を採用することになっていた。 標準戦車は共同開発とされたものの実際は共通の仕様を定めただけで、試作車の開発は独仏双方が別個に行うこととされた。 1959年5月6日、独仏両国での試作車の製作が開始された。 西ドイツは各企業が技術習得する意味もあってA、B2つのグループが各2両ずつの第1次試作車を製作することになった。 Aグループはポルシェ社を中心にアトラスMaK社、ユンク社、ルーター&ヨルダン社から成り、Bグループはルールシュタール社を中心としてラインシュタール・ハノマーク社、ラインシュタール・ヘンシェル社から成っていた。 ただし両グループが製作するのは車体だけで、砲塔部はヴェクマン社とラインメタル社で作られることになっていた。 1959年に両グループ共に実物大木製モックアップを製作し、続いて実車両の製作に移行した。 Aグループの試作車の製作は、1960年5月に開始された。 2両の試作車の内A1はユルゲンタールのユンク社で同年6月16日から、A2はキールのMaK社で8月27日からそれぞれ実作業が開始され1961年1月に完成した。 Aグループの試作車は「ポルシェ・タイプ723」と呼ばれ戦闘重量35t、主砲にはラインメタル社製の90mmライフル砲を装備し、ダイムラー・ベンツ社製のMB837A 4ストロークV型8気筒液冷ディーゼル・エンジンを搭載して路上最大速度65km/hを発揮可能であった。 一方、Bグループの2両の試作車の製作はB1をハノーファーのラインシュタール・ハノマーク社、B2をカッセルのヘンシェル社が担当した。 Bグループの設計も全体的なイメージはAグループとさして変わらなかったが大きな違いは足周りで、Aグループが片側7個の転輪をトーションバーで懸架したのに対して、Bグループは転輪が片側6個でそれを油気圧式サスペンションで支えていた。 また変速・操向装置もAグループが5速シンクロメッシュ式の機械変速機だったのに対して、Bグループは8速遊星歯車式の流体変速機を採用していた。 エンジンについても一応Aグループと同じMB837Aディーゼル・エンジンが搭載されることになっていたが、ハノマーク社で新型の2ストローク多燃料ディーゼル・エンジンが開発されることになっていた。 Bグループによる試作車の製作作業はB1が1960年5月20日から、B2が同年7月9日から開始されたが軍への引き渡しは1961年9月にまで遅れてしまった。 これは流体変速機、油気圧式サスペンション、新型エンジンなどの開発に手間取ったためで、数多くの新機軸を盛り込んだことがかえって仇となってしまったわけである。 なお、これらの試作車の主砲は当初は前述したように90mmライフル砲であったが、1961年中に105mmライフル砲に変更されている。 この105mmライフル砲はフランスが開発中の「G弾」と呼ばれる新型HEAT(対戦車榴弾)を撃てるのが特徴で、ラインメタル社で開発される予定であった。 しかし当時すでに、イギリスの王立造兵廠が開発した105mmライフル砲L7が存在していた。 この砲はその後西側第2世代MBTの事実上の標準砲となったほど優れた戦車砲で、HEAT、APDS(装弾筒付徹甲弾)、HESH(粘着榴弾)など西ドイツ陸軍を充分に満足させられる多様な弾種が揃っていた。 Aグループの試作車にはL7砲を装備したヴェクマン社製の砲塔が、Bグループの試作車にはラインメタル社の試作砲を装備したラインメタル社製の砲塔が搭載された。 しかし結局、西ドイツ陸軍は新型砲を開発するコストとリスクを考えてL7砲を標準戦車の主砲に採用し、1962年秋に標準戦車用として1,500門を発注している。 なおこの砲は標準戦車の砲塔内で19度の俯角を確保するため砲尾の後端が削られており、このため改良型として「L7A3」の名称が与えられている。 またL7砲と共に、イギリス製の12.7mm照準銃による照準システムも一旦採用されている。 西ドイツ陸軍は標準戦車の開発を非常に急いでおり、第1次試作車が完成するとすぐ完成車体を使っての試験段階に移行した。 1961年1月16日、Aグループの試作車がトリーアにある第41兵器技術センターに納入された。 第41兵器技術センターは自動車と戦車の技術開発を担当しており、後に開発されたレオパルト2戦車もここで試験が行われている。 しかしトリーアは走行試験には充分だったが射撃試験には狭過ぎたため、メッペンに第91兵器技術センターが作られ射撃試験に充てられることになった。 1961年2月1日には第41兵器技術センターで西ドイツ陸軍当局による最初の領収検査が行われ、2月3日にはフランス、イタリア軍関係者に披露された。 正式試験は3月9日に始められたが、ほぼ同時にフランスのサトリでフランス側の試作車の試験が開始されている。 試験は非常に精力的に進められ、1962年1月31日までにAグループの試作車A1が6,256km、A2が9,738km、遅れて完成したBグループの試作車B1が4,486km、B2が4,997kmの試験を行っている。 試作車の完成を急いだため、この試験では色々な不具合が発生したといわれる。 試験は1962年4月に終了した。 西ドイツ陸軍はまだ第1次試作車が製作中であった1960年9月に、早くも第2次試作車の製作を発注した。 発注数はAグループに対して26両、Bグループに対して6両というもので、まだ競作の結論は出されてはいなかったものの結果を予想させるのに充分なものであった。 このためBグループは同年10月に、発注分6両の内2両を製作するだけで以後の開発を断念することにした。 Bグループの敗因はあまりに技術的冒険過ぎる設計を行い、それが原因となって開発スケジュールが著しく遅延したことであった。 Aグループの第2次試作車はユンク社9両、MaK社9両、ルーター&ヨルダン社8両の割り振りで製作された。 改良の結果、第2次試作車の設計番号は「ポルシェ・タイプ773」に変更されている。 原型のタイプ723からの改良点は多岐に渡っているが、主なものとしては前述したように105mmライフル砲L7A3の搭載、車体サイズの変更(幅が70mm広げられた)、操縦手席が車体前部左側から右側に移動した、前面装甲厚の50mmから70mmへの増厚、後面装甲厚の20mmから25mmへの増厚などである。 その結果タイプ773の戦闘重量は39tに増加したが、エンジンが原型のMB837Aを10気筒に増加させたMB838ディーゼル・エンジンに変更され出力が向上したことで路上最大速度は73km/hを発揮できた。 第2次試作車はユンク社の第1号車が1961年11月に完成し、ルーター&ヨルダン社の第1号車は同年12月に完成した。 その後1962年の春~夏にかけて次々と納入され、最後の3両が完成したのは同年12月のことであった。 これらを使ってメッペンで試験が開始されたのは、1962年1月2日のことであった。 同年9月には第2次試作車の内6両がミュンスターに送られ、第2戦闘兵科学校第93訓練大隊で部隊試験が行われている。 この数は、最終的に17両まで増やされている。 この部隊試験の過程で明らかになったのは、イギリス製105mmライフル砲の採用に伴って同時に採用された照準銃を用いた照準システムの不充分な性能であった。 この方式は主砲と弾道特性が同じ12.7mm照準銃で試射することで正確な照準を行うものであるが、そうはいうものの大砲と機関銃で完全に同じ弾道特性を発揮することは不可能で、照準銃の有効射程が1,500~1,800mだったのに対しL7砲の有効射程は2,000m以上あった。 これを活かすため西ドイツ陸軍は照準銃を捨て、基線長式照準機を採用することになった(実際にはこの試験の前の1961年末にはすでに改良を決定していた)。 1962年10月からメッペンで西ドイツ製試作車の西ドイツ、フランス、イタリア3カ国による共同試験が開始された。 この試験にはベルギー、オランダ、アメリカのオブザーバーも加わっていた。 なお全く同じ時期にフランスの試作車も、フランスのサトリとブルジュで3カ国共同試験に臨んでいる。 第2次試作車の部隊試験は1963年4月に終わり、7月11日には初めて一般に公開された。 まだ第2次試作車の試験が続けられていたが、西ドイツ陸軍は早々と増加試作車である0シリーズの生産を決定している。 0シリーズは50両が生産されることとされ、1961年7月には開発が始められている。 0シリーズの生産は、1962年10月に始められた。 各社別の生産数はユンク社17両、MaK社16両、ルーター&ヨルダン社17両である。 0シリーズの技術試験はメッペンで1963年6月から開始され、7月にはMaK社で寒暖の温度試験が行われた。 なお、0シリーズの設計番号は「ポルシェ・タイプ814」となっていた。 第2次試作車からの改良点はまず主砲用の基線長式照準機の装備で、それから車体・砲塔形状のリファイン、戦闘重量が40tに達したことに対応してダンパーが強化されたこと等である。 なおタイプ814の砲塔は、ラインメタル社とヴェクマン社で50%ずつ分け合って生産されている。 西ドイツ陸軍がタイプ814の生産を開始したことですでにほとんど意味は無くなっていたが一応標準戦車計画は生き残っており、1963年8~10月にかけてメッペン、ブルジュ、サトリでイタリアを監督官としてタイプ814とフランス製試作車の比較審査も行われている。 なお、この審査が行われる直前の1963年7月にはフランス陸軍は自国の試作車を「AMX-30」(AMX社製の30t級戦車)と命名しており、審査中の10月1日には西ドイツ陸軍も自国の試作車を正式に「レオパルト」(Leopard:豹)と命名している(レオパルト2戦車の制式化後レオパルト1に改称)。 この審査でレオパルト戦車はAMX-30戦車より戦闘重量が6t重いにも関わらず10%も速度が速く、18%も加速性が良かった。 しかしフランスの国防政策の変更と財政難で、フランス陸軍は1965年までいかなる戦車も購入することが不可能となった。 これにより標準戦車計画は完全に終わりを告げ西ドイツ、フランス両国は勝手に自分の好きな戦車を生産することになった。 なお両国の開発したどちらかの戦車を購入する方針であったイタリア陸軍は、こうしたトラブルに嫌気が差したのかレオパルト、AMX-30のどちらも購入せず、無関係なアメリカからM60A1戦車を300両(100両は輸入、200両はライセンス生産)導入している。 しかしその後1970年にイタリア陸軍はレオパルト戦車を導入する方針に転換し、1971年9月~1972年7月にかけて200両のレオパルト戦車を西ドイツから購入した。 その後イタリアはレオパルト戦車のライセンス生産権も取得し、1974~83年にかけて720両のレオパルト戦車がオート・メラーラ社でライセンス生産された。 さらにオート・メラーラ社ではレオパルト戦車のライセンス生産を手掛けた経験を活かし、後に「OF-40」(オート・メラーラ社とフィアット社の40t級戦車)というレオパルト戦車にそっくりな輸出用MBTも開発している。 レオパルト戦車の0シリーズの部隊試験は、1964年7月~1965年10月にかけてミュンスターの第93訓練大隊で行われた。 この試験の最初の段階でレオパルト戦車はスノーケル・キットを使って、ケルンの近くで深さ4.2mのライン川を潜水渡河しその性能をアピールした。 この試験はレオパルト戦車の基本設計の優秀さを証明したが、一方で細かい修正の必要性も明らかになった。 このため、全部で170カ所に上る設計変更が盛り込まれた。 1963年8月22日、1964年度予算でのレオパルト戦車の調達が西ドイツ議会で承認され1,500両の生産発注が行われた(後に937両を追加発注)。 生産の主契約社には、これまでレオパルト戦車の開発とは全く関係の無かったミュンヘンのクラウス・マッファイ社が指定された。 同時にレオパルト戦車の車体をベースに開発された戦車回収車、自走戦車橋、装甲工兵車の生産と少数のレオパルト戦車の生産はキールのクルップMaK社が行うことになった。 あまりにも唐突かつ劇的な変更のように感じられるが、単にクラウス・マッファイ社が他の企業よりも低コストで生産できることが判明したためらしい。 予算上無駄を省くためならば、今まで開発の中心にいた企業を退けることも辞さないというのはいかにもドイツらしい徹底振りである。 クラウス・マッファイ社は1965年9月にミュンヘンに新しい生産ラインを完成させ、レオパルト戦車の生産を開始した。 なお生産はもちろんクラウス・マッファイ社だけでできるはずも無く、砲塔はヴェクマン社、主砲はラインメタル社、エンジンはMTU社が担当し参加下請けメーカーは2,700社にも及んでいる。 レオパルト戦車の第1次生産分は1965年9月に西ドイツ陸軍に引き渡され、1979年には生産が終了している。 現在ドイツ陸軍では後継のレオパルト2戦車シリーズが主力装備となっており、レオパルト1戦車シリーズは第一線から退けられ予備部隊の装備となっている。 海外のレオパルト1戦車採用国は非常に多くベルギー、オランダ、ブラジル、カナダ、チリ、デンマーク、ギリシャ、イタリア、ノルウェイなど地域を問わず広く輸出されている。 レオパルト1戦車がこれほど多くの国に採用された理由は車両の優秀性のみならず、クラウス・マッファイ社を始めとするドイツの関連企業が各国の要求に合わせて仕様を変更するといった細かい配慮をしたことも大きい。 |
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●構造 レオパルト1戦車の車体は、圧延防弾鋼板の全溶接構造となっていた。 装甲厚は前面上部70mm/60度、前面下部70mm/55度、側面上部35mm/40度、側面下部25mm/0度、後面25mm/2度、上面25~10mm、下面15mmとなっていた。 このようにレオパルト1戦車は大戦時のドイツ陸軍のティーガー重戦車やパンター中戦車よりも装甲が薄く、戦車砲の直撃に耐えられるほどの装甲防御力は備えていなかった。 これはレオパルト1戦車の開発当時、成形炸薬弾頭を備える対戦車誘導ミサイルの発達で戦車の装甲防御力が無意味になることが想定されていたため、レオパルト1戦車は20mm機関砲の直撃に耐えられる程度の装甲防御力しか要求されていなかったためである。 当時はいくら戦車の装甲を厚くしても対戦車ミサイルに対抗するのは難しいと考えられており、むしろ戦車の装甲を薄くして高い機動力を持たせることでミサイルを回避しようとしていた。 これはレオパルト1戦車だけでなく西側諸国の戦後第2世代MBT全般に見られた傾向であり、フランスのAMX-30戦車や日本の74式戦車も装甲防御力を犠牲にして機動力を重視した設計になっていた。 レオパルト1戦車の車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室という一般的なものであった。 操縦手席は車体前部右側にあり、上面には左側に開くスライド式ハッチが設けられていた。 操縦手用ハッチの前方には3基のペリスコープが用意されていたが、中央の1基は夜間操縦用の画像強化型ペリスコープに換装することが可能であった。 操縦手席の左側には主砲弾薬のラックと、NBC加圧フィルター・システムが装備されていた。 また、操縦手席の下面には脱出用ハッチが設けられていた。 車体中央部の戦闘室上には、105mmライフル砲を装備した全周旋回式砲塔が搭載されていた。 砲塔は車体と異なり防弾鋼の鋳造製で、天井部のみ圧延防弾鋼板の溶接製であった。 砲塔の装甲厚は前/側/後面とも60mmで、主砲防盾部は52mmであった。 砲塔内には3名が搭乗し主砲を挟んで右側前方に砲手、その後方に車長、左側に装填手が位置した。 砲塔上面右側には円形の車長用ハッチが設けられており、ハッチの周囲には外部の視察用に8基のペリスコープが配置されていた。 この内の1基は、夜間視察のための画像強化型ペリスコープに換装することが可能であった。 またハッチの前部には、車長用のTRP-2Aパノラマ式照準機(倍率4~20倍)が装備されていた。 これは任意の位置に設定しておけば砲塔が旋回しても固定されるようになっており、必要な場合には砲手にオーバーライドして照準することが可能であった。 砲塔上面左側にはやはり円形の装填手用ハッチが設けられており、前と左斜め前に各々ペリスコープが配置されていた。 装填手の左側にあたる砲塔側面には楕円形の小型ハッチが設けられており、砲弾の積み込みと空薬莢の排出に使用された。 メインの砲手用照準機はカール・ツァイス社製のTEM-2A基線長式測遠機で倍率16倍、合致式/ステレオ式切り替え式、最大有効距離は4,000mであった。 サブには主砲と同軸のTZF-1A照準機(倍率8倍)があり、さらに上面にペリスコープが設けられていた。 主砲防盾上にはXSM-30-U(後にXSM-30-Vに変更)白色光/赤外線投光機が装備されており、有効距離は白色光で1,500m、赤外線で1,200mとなっていた。 この投光機は、使用しない時は砲塔後部のボックスに収納された。 レオパルト1戦車の主砲には前述したように、西側の戦後第2世代MBTの標準武装となったL7系の51口径105mmライフル砲L7A3が採用されていた。 この砲はNATO規格の105mmライフル砲弾を全て使用でき、野外において約20分で砲身の交換が可能となっていた。 105mmライフル砲L7A3はAPDSを使用した場合砲口初速1,478m/秒、発射速度は10発/分で、レオパルト1戦車の初弾命中率は射距離1,000mで85%、2,000mで40%、第2弾でそれぞれ98%、75%となっていた。 105mm砲弾の携行数は60発でこの内42発が操縦手席左の弾薬ラック、3発が即用弾ラック、15発が砲塔内に収容された。 弾種の内訳は31発が対戦車用のAPDS、26発が対戦車/軟目標用のHESH、3発が発煙弾であった。 副武装は、ラインメタル社製の7.62mm機関銃MG1(後にMG3)が2挺装備されていた。 MG1/MG3は、第2次世界大戦中の1942年にグロースフース社が開発しドイツ軍で広く使用された7.92mm機関銃MG42を、戦後ラインメタル社がNATO標準の.30口径(7.62mm)に改めて改良した汎用機関銃である。 1挺は主砲と同軸、もう1挺は対空用として車長または装填手用ハッチ周囲のリングマウントに装備された。 また砲塔の左右側面後部には、電気発射式の76mm発煙弾発射機が各4基ずつ装備されていた。 この他車内には乗員の携行火器として、9mm機関短銃MP2(イスラエルのIMI社製の9mm短機関銃UZIの改良ライセンス生産型)も装備されていた。 車体後部の機関室は、防火隔壁によって戦闘室と分離されていた。 レオパルト1戦車のエンジンは、MTU社製のMB838CaM-500 V型10気筒多燃料液冷スーパーチャージド・ディーゼル・エンジンを採用していた。 このエンジンは排気量37,400cc、出力830hp/2,200rpmで、レオパルト1戦車は路上最大速度65km/hの機動性能を発揮した。 標準燃料はNATO F-54燃料で190リッターで100km走行することができ、レオパルト1戦車は車内に1,010リッターの燃料を搭載し路上航続距離は600kmとなっていた。 変速機はZF社(フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製の4HP-250自動変速機を採用しており、バイパス・クラッチ付きトルク・コンヴァーターとロック・アップ・クラッチ付き変速機の組み合わせであった。 ギアは前進4段/後進2段で、電気油圧制御でスムーズな変速が可能となっていた。 エンジンと変速機、そして冷却システムはパワーパックとして一体化されて機関室に収容されていた。 このパワーパックは20分で交換可能となっていて、整備性も高かった。 レオパルト1戦車のサスペンションはトーションバー(捩り棒)方式で、第1、第2、第3、第6、第7転輪には油圧式のショック・アブソーバーが取り付けられていた。 特徴的なのは各トーションバーのトラベル長が位置によって変えられていたことで、こうした細かい配慮が良好な走行性能に繋がっていた。 転輪はゴム縁付きの複列式転輪で片側7個となっており、片側3個の上部支持輪と組み合わされていた。 履帯は、定評あるディール社製のダブルピン/ダブルブロック式、ゴムブッシュ付きであった。 その他特殊装備としてはスノーケル装置があり、10分程度の準備で4mの潜水渡渉が可能となっていた。 このため、車内には2台の排水ポンプも用意されていた。 またエンジン火災に備えてフロンガスによる消火装置も装備されており、自動ないし操縦手による手動で作動させることができた。 |
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●改良型とその他の派生型 レオパルト1戦車には、数多くの改良型が存在している。 また生産後の既存車体に改良が加えられるだけでなく、各生産バッチで改良型が生産されたのも特徴的である。 これは、長期の改良計画に則った発達をレオパルト1戦車が遂げていったことの証といえよう。 レオパルト1戦車の各タイプは大きく分けるとレオパルト1、レオパルト1A1、以下A2、A3、A4、A5となっている。 ☆レオパルト1戦車 レオパルト1戦車の内最初の生産分の第1バッチから第4バッチまでは基本的に同一で、ごく些細な相違点しかない。 1965年9月~1966年7月にかけて生産された最初の400両が、第1バッチである。 これらの車両は第I軍団(北ドイツ)の各機甲師団、機甲擲弾兵師団のM47戦車に代替して配備された。 第2バッチは、1966年7月~1967年7月にかけて生産された600両を指す。 相違点は砲塔後端底部に小さな樋が取り付けられたのと、乗員用の予備通話システムのボックスが角型から丸型になったこと、砲塔リングを守る跳弾板が取り付けられたことぐらいである。 これらの車両は、第I軍団および第III軍団(中部ドイツ)の各師団に配備された。 第3バッチは、1967年7月~1968年8月にかけて生産された484両である。 相違点は、車体前後にフックが追加されただけである。 これらの車両は、第III軍団の各師団に配備された。 なお、第3バッチからは16両がベルギーに輸出されている。 第4バッチは、1968年8月~1970年2月(外国向けは含まず)にかけて生産された361両である。 相違点は、後部側面冷却グリルの格子形状が変更された程度である。 第4バッチのレオパルト1戦車は外国に多数輸出されておりベルギーが318両、オランダが468両、ノルウェイが78両、イタリアが40両をそれぞれ受領している。 ☆レオパルト1A1戦車 第4バッチの受領後1970年になって西ドイツ陸軍では、これまで生産されたレオパルト1戦車の改良計画が開始された。 これは戦闘能力を高めるのが目的で、最大の改良点として主砲にアメリカのキャディラック・ゲージ社製の砲安定化システムが追加された。 これによってレオパルト1戦車は走行間射撃が可能となり、初弾命中精度も向上している。 また主砲にはサーマル・スリーブが装着され、車体両側面にゴムと鋼板のスカートが装備されるようになった。 足周りもそれまでのディール社製のD139E2ダブルピン履帯から、新型で取り外し式ゴムパッドの装着可能な同社製のD640Aダブルピン履帯に変更されている。 これに伴い、滑り止めのグローサー20枚が装甲防御を兼ねて車体前面に搭載されるようになった。 またNBC防護装置にも改良が施され、新しいスノーケル装置の装備で渡渉能力も強化されている。 夜間戦闘用にはこれまでのアクティブ赤外線暗視装置に代えて操縦手、車長共にパッシブ映像強化装置(スターライト・スコープ)が装備されるようになった。 これら一連の改修の結果戦闘重量は41.5tに増加したが、機動力には変化は無い。 これらの改修は1972年以降、既生産の車両に採り入れられた。 改修を施された車両は、「レオパルト1A1」に名称が変更されている。 さらにレオパルト1A1の防御力を向上させるため、ブローム&フォス社で砲塔に取り付ける増加装甲が開発された。 この増加装甲はゴムの内張りを持つ防弾鋼板製で、砲塔表面にはゴムの緩衝材を介して中空装甲式にボルト止めされた。 増加装甲は、砲塔側面から後面の収納スペースまで囲うようになっていた。 厚さは前方から後方にかけて次第に薄くなっており、厚い部分で20mm、薄い部分で10mm程度となっていた。 また主砲防盾にも、平面板を組み合わせた増加装甲が取り付けられた。 増加装甲板の一部は、エンジン整備などの便を考えて取り外せるようになっていた。 また、エンジンの吸気口には防塵用のフィルターが装着された。 これらの改修の結果、戦闘重量がレオパルト1A1の41.5tから42.4tに増加している。 改修は1975~77年にかけて行われ、改修後の名称は「レオパルト1A1A1」に変更されている。 さらにレオパルト1A1A1には1980年代以降、テレフンケン社製のPZB200パッシブ暗視装置が主砲防盾上、投光機の脇に取り付けられるようになった。 この装置はLLLTV(低光量テレビ)を中心としたシステムで、乗員は外部の状況を砲塔内のTVモニターを使って見ることができるようになった。 PZB200パッシブ暗視装置が搭載されたA1A1は、「レオパルト1A1A2」に名称が変更されている。 さらにSEM80/90ディジタル通信機が装備されたA1A1は「レオパルト1A1A3」、そしてA1A2は「レオパルト1A1A4」とそれぞれ呼ばれる。 ☆レオパルト1A2戦車 レオパルト1A1戦車の改良を初めから盛り込んで生産されたのが、レオパルト1戦車の第5バッチ前期型である。 第5バッチ前期型は1972年4月~1973年5月にかけて生産された232両で、本車は改良によって「レオパルト1A2」と呼ばれるようになった。 レオパルト1A2戦車の原型からの改良点はレオパルト1A1戦車で記述した主砲安定装置、サーマル・スリーブ、サイドスカート、NBC防護装置、スノーケル、改良型履帯、パッシブ暗視装置などである。 唯一オリジナルな改良としては、鋳造砲塔の装甲厚の増厚が行われている。 原型が60mmだったものが強化されたのだが、その値そのものは公表されていない。 レオパルト1A1A1戦車が同じぐらいの能力といわれるから、恐らく前面から側面にかけて20~10mm程度強化されたものと思われる。 レオパルト1A2戦車はほとんどが第6機甲擲弾兵師団に配属されて、デンマーク軍との共同演習に姿を現している。 またレオパルト1A2戦車に小改良を施したものが、「レオパルト1A2A1」と呼ばれている。 またSEM80/90ディジタル通信機が装備されたA2は「レオパルト1A2A2」、同時にPZB200パッシブ暗視装置も搭載されたA2A1は「レオパルト1A2A3」と呼ばれる。 ☆レオパルト1A3戦車 1973年5~11月にかけて110両生産された第5バッチ後期型は、レオパルト1A2戦車にさらに改良が盛り込まれたタイプである。 本車は全面的に設計を改めた砲塔を搭載していることが特徴で、名称も「レオパルト1A3」に改められている。 レオパルト1戦車の砲塔は丸みを帯びた鋳造製であったが、これは当時の戦車設計の常識といえた。 しかし西ドイツ陸軍は、この常識を覆す砲塔を作り上げたのである。 それは中空装甲(スペースド・アーマー)といわれる今に繋がる装甲方式を採用したもので、平面の装甲板が溶接で組み合わされた鋭角的デザインの砲塔であった。 中空装甲は装甲板と装甲板の間に隙間を設けたもので、それによって特に対戦車ミサイルや歩兵携行式対戦車ロケットなどの成形炸薬弾頭に対する防御を図ったものである。 なお中空装甲砲塔にしたおかげで内部スペースは1.5m2増加したというから、戦闘動作の面でもメリットがあったようである。 また装填手用ペリスコープが2基の固定式から旋回式に変わったことも細かな改良点で、砲塔以外ではレオパルト1A2戦車と特に相違は無い。 レオパルト1A3戦車は多くが第II軍団(南ドイツ)の第10機甲師団と、第III軍団の第12機甲師団に配属された。 またレオパルト1A3戦車に小改良を施したものが、「レオパルト1A3A1」と呼ばれている。 またSEM80/90ディジタル通信機が装備されたA3は「レオパルト1A3A2」、同時にPZB200パッシブ暗視装置も搭載されたA3A1は「レオパルト1A3A3」と呼ばれる。 ☆レオパルト1A4戦車 第5バッチの生産終了後、若干間が開いて第6バッチが1974年8月~1976年3月にかけて250両生産された。 本車はレオパルト1A3の改良型で、「レオパルト1A4」と呼ばれる。 レオパルト1A4のA3との相違点は、新しいFCS(射撃統制システム)が搭載されたことである。 このFCSはテレフンケン社製の弾道計算機とカール・ツァイス社製のステレオ式測遠機、車長用の赤外線暗視装置付きPERI-R12安定化照準機から成る。 外形的には車長用ペリスコープがこれまでの小さな潜望鏡状から、がっちりした塔状になったのが目立つ程度である。 ただし新しいFCSはサイズが大型化したため、その搭載スペースを稼ぐため主砲弾薬搭載数がそれまでの60発から55発に減らされている。 レオパルト1A4戦車は第10機甲師団の他、戦車学校にも配属された。 ☆レオパルト1A5戦車 1980年代に入って、さらにレオパルト1戦車を改良する研究が進められた。 その目的はレオパルト1戦車の生存性を向上させると共に、2000年以降も高い戦闘能力を維持することであった。 レオパルト1戦車は元々ソ連のT-55中戦車やT-62中戦車などの戦後第1、第2世代MBTに対抗するために作られた戦車であるが、今や敵はT-64、T-72、T-80戦車などの戦後第3世代MBTとなっていた。 レオパルト1戦車の改良しなければならない点は夜間戦闘能力、発射速度/命中精度の向上、走行間射撃能力の強化などであった。 そのため赤外線サイト、新型FCS、新型105mm砲弾の導入などが検討された。 競作試験の結果1983年12月にクルップ・アトラス・エレクトロニク社製のEMES18 FCSが採用され、ヴェクマン社が主契約社となって改修が進められることになった。 改修は1986年10月~1992年9月にかけて1,339両のレオパルト1戦車シリーズに対して実施され、新たに「レオパルト1A5」の名称が与えられた。 レオパルト1A5戦車に採用されたEMES18 FCSは、レオパルト2戦車用に開発されたEMES15 FCSから派生したもので多くのコンポーネントが共通となっていた。 外観的には砲塔上面右側に装甲カバー付きの赤外線暗視装置、レーザー測遠機が組み込まれた統合光学照準機が設けられ、元のTEM-2A基線長式測遠機は撤去され砲塔両側面の開口部はカバーで塞がれた。 弾道計算機は、車長席の下部に収納された。 これはレオパルト2戦車の弾道計算機と同じもので、レオパルト2戦車の120mm滑腔砲の弾道特性から105mmライフル砲の特性にプログラムの修正が施されていた。 弾道データは、7種類の弾種について4,000mの射程距離まで得られた。 計算機の制御パネルは、砲手席上に装備されていた。 車長用のTRP-2A照準機はそのままだが、EMES18のカバーをクリアーするために少し背が高くなった。 砲手用のTZF-1A照準機もそのままであった。 また新しい105mm砲弾としてラインメタル社製のDM23、DM33 APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)が採用され、装甲貫徹力が大きく向上した。 またレオパルト1A1A1戦車に採用されたブローム&フォス社製の増加装甲も、砲塔に装着された。 このレオパルト1A5戦車にSEM80/90ディジタル通信機を装備したものは、「レオパルト1A5A1」と呼ばれる。 ☆レオパルト1A6戦車 レオパルト1A5戦車の実用化後も、レオパルト1戦車のさらなる改良が計画された。 BWB(Bundesamt für Wehrtechnik und Beschaffung:連邦武器購入庁)は1986年12月18日にクラウス・マッファイ社に対して、2両のレオパルト1戦車を使用して「Pz.Abw.K.W.90」(Panzerabwehr-Kampfwagen 90:90年代型装備戦車)と呼ばれる改修を施すことを指示した。 この改修は主砲をレオパルト2戦車と同じラインメタル社製の44口径120mm滑腔砲Rh120に換装する他、新型FCSの装備、砲塔・車体への増加装甲の取り付け、IRシグネチュアーの減少といったもので、1987年に第2バッチと第5バッチの2両のレオパルト1戦車を用いて改修が行われた。 この後第41兵器技術センターではさらに4両のレオパルト1戦車を追加改修し、全部で8両のレオパルト1戦車を使用した比較試験が行われた。 その内訳は2両が比較のための原型、3両が上記の改修車、さらに3両はそれに加えて砲塔上面と車体前部にも増加装甲を装着した車両であった。 しかしこれらの試験は有効なデータを提供はしたが、改修コストが高いことや120mm滑腔砲の俯仰角が充分に取れない等の理由で結局Pz.Abw.K.W.90改修(改修車には「レオパルト1A6」の名称が与えられる予定だった)は実現しなかった。 ☆ゲーパルト対空自走砲 「ゲーパルト」(Gepard:チーター)対空自走砲はレオパルト1戦車の車体設計を流用して製作された新規車体に、スイスのエリコン・ビューレ・コントラヴェス社(現ラインメタル・ヴァッフェ・ムニツィオーン・シュヴァイツ社)製の90口径35mm対空機関砲KDAを連装で装備した背の高い全周旋回式砲塔を搭載した対空車両である。 砲塔の前部には円形の追尾レーダー、砲塔上部後方には横長の捜索レーダーが装備されており、こうした形式の対空自走砲の嚆矢となった本車はドイツ陸軍だけでなくベルギー陸軍とオランダ陸軍でも採用されている。 ☆ローラント対空ミサイル・システム 本車はレオパルト1戦車ベースのベルゲパンツァー2戦車回収車の車体に、ドイツとフランスが共同開発したローラント対空ミサイルの発射機とFCSを搭載した対空車両である。 ゲーパルト対空自走砲と共にドイツ陸軍の前線防空の要になるシステムとしてクルップMaK、ブローム&フォス、ユーロミサイルの3社によって提案された。 すでに旧式化しているため新型のローラント2システムへの改修も計画されたが、実行には移されなかった。 レオパルト1戦車の派生型としてはこの他に砲兵観測車、ベルゲパンツァー2戦車回収車、装甲工兵車がある。 さらにFFG社が開発を進めているマインブレイカー2000も、レオパルト1戦車の車体をベースにした地雷除去車両である。 小規模な国際紛争の多発とPKOの増加を背景として、人員に代わって地雷除去任務を遂行するシステムとして期待されている。 |
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<レオパルト1戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.25m 全高: 2.613m 全備重量: 40.0t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 10~70mm |
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<レオパルト1A1A1/A2戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.41m 全高: 2.613m 全備重量: 42.2t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 10~70mm |
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<レオパルト1A3戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.41m 全高: 2.613m 全備重量: 42.4t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 10~70mm |
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<レオパルト1A4戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.41m 全高: 2.764m 全備重量: 42.4t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 10~70mm |
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<参考文献> ・「パンツァー2006年12月号 ヨーロッパ随一の戦車メーカー クラウス・マッファイ・ヴェクマン」 林磐男 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年12月号 MTU社の戦車用ディーゼル・エンジン(1)」 林磐男 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年6月号 レオパルト1戦車 インアクション」 中川未央 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2000年3月号 レオパルト1 vs AMX30戦車」 齋木伸生 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2003年11月号 レオパルト1戦車の近代化」 鈴木浩志 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2006年6月号 レオパルト1A5 vs M60A3」 三鷹聡 著 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート9 レオパルト1と第二世代MBT」 アルゴノート社 ・「世界のAFV 2021~2022」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2015年7月号 レオパルト1の開発と構造」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後~現代編」 デルタ出版 ・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「世界の主力戦闘車」 ジェイソン・ターナー 著 三修社 ・「新・世界の主力戦車カタログ」 三修社 ・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社 ・「戦車名鑑 1946~2002 現用編」 コーエー |
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