L5軽戦車
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+概要
第1次世界大戦中盤の1916年9月15日にイギリス陸軍が初めて戦車を実戦に投入し、続いて1917年からフランス陸軍やドイツ陸軍も戦車を実戦投入したが、この新兵器の活躍に刺激を受けたイタリア陸軍は大戦後期に戦車部隊の創設を計画した。
そして同盟国であるフランスと交渉を持ち、取り急ぎシュナイダー突撃戦車20両の購入と、ルノーFT軽戦車100両のノックダウン生産を決定した。
当時のイタリア軍需工業界は軍用トラックや装甲車等の生産経験こそ有していたが、装軌式車両の生産経験はほとんど無かったため、最初にノックダウン生産で腕慣らしをしようと目論んでいたのである。
だが現実は戦時下であることも手伝ってわずか2両のシュナイダー突撃戦車と、生産見本用のルノーFT軽戦車の完成車3両が購入できただけで、ノックダウン生産用部品の供給は完全に滞ってしまった。
このような事態に直面して、イタリア国防省はルノーFT軽戦車をノックダウン生産という過程を踏まずに、直接コピー生産することを決断した。
そして国防省の主導下、国内有数の工業メーカーであるフィアット社を中心に、アンサルド社やブレダ社等が参加した戦車生産推進企業連合体が立ち上げられ、同時に1,400両もの一括大量発注が行なわれた。
計画によれば、1919年の中旬ぐらいからイタリア陸軍への完成車の引き渡しが始まることになっていたが、第1次世界大戦が1918年11月に終結してしまったため発注はキャンセルとなった。
しかし、国内軍需産業育成の観点からすれば例えそれが外国製戦車のコピーであっても、国産初の戦車を生産することは重要な意義があると考えられたため、規模の大幅縮小とはなったが計画自体は継続され、1920年6月に最初の試作車が完成した。
そして早くも1921年にはまだ量産体制が整っていなかったにも関わらず、本車は「Carro d'assalto Fiat 3000 Mod.21」(フィアット3000突撃戦車 1921年型)として制式化された。
本車は外見こそ原型となったルノーFT軽戦車に酷似していたが、エンジンを横置きに搭載するなど異なる部分も多かった。
その後、フィアット3000突撃戦車1921年型は約2年間に渡って運用試験や生産ラインの整備が行なわれ、1923年にようやく量産が開始されて100両が完成した。
しかし名前こそ「突撃戦車」と勇ましいものの、武装は全周旋回式砲塔に2連装で装備された6.5mmSIA M1918機関銃だけであり、誰の目から見てもあまりに脆弱であった。
そこで、フィアット3000突撃戦車の砲塔にヴィッカーズ・テルニ社製の40口径37mm対戦車砲を搭載する研究が始められ、1929年に試験車両が完成し1年間に渡る実用試験の後、1930年に「Carro
d'assalto Fiat 3000 Mod.30」(フィアット3000突撃戦車 1930年型)として制式化され52両が生産された。
なお1921年型を「フィアット3000A」、1930年型を「フィアット3000B」と呼ぶ場合もある。
全周旋回式砲塔に40口径37mm戦車砲M30を搭載したフィアット3000突撃戦車1930年型は、当時のイタリア陸軍としては強力な戦車であったが砲塔には車長たった1人しか乗っておらず、37mm戦車砲の装填、照準、発射を全て1人で行なわなければならない上、戦車全体の指揮も彼の責任でありどう考えてもこなしきれるものではなかった。
また1921年型と同じ砲塔に無理やり37mm戦車砲を搭載したため、砲は右側に大きくオフセットして搭載され、車長は砲塔内左側の狭い空間で作業をしなければならなかった。
これに伴って、1921年型では砲塔後部にあった観音開き式の乗降用ハッチが1930年型では後部左寄りに移され、1921年型では砲塔上部中央にあった車長用キューポラも1930年型では左側にオフセットされた。
また武装の強化と共に、1930年型ではエンジンの出力も1921年型の45hpから63hpに強化された。
イタリア陸軍はこうして完成したフィアット3000突撃戦車1930年型を、すでに1921年型を装備していた部隊に対して1930年型が1、1921年型が2の割合になるように配備を進めた。
本家のルノーFT軽戦車が第1次世界大戦後に各国に輸出されたのと同様に、フィアット3000突撃戦車も1930年までにアルバニア、リトアニア、アビシニア、リビア等に輸出された。
これらの国々に輸出された車両は、時期的に全て1921年型であったと思われる。
またデンマーク、ギリシャ、スペインにも試験車両が送られてテストを受けたが、結局採用には至らなかった。
1930年代の後半になって、イタリア陸軍は戦車名称と制式番号の整理に伴った変更を実施した。
その際フィアット3000突撃戦車は「軽戦車」に分類され、新たに「L5」(”L”はLeggero=軽いの頭文字、”5”は5t級の戦車であることを示す)のシリーズ番号が付与されると共に、各型式は1921年型が「L5/21」、1930年型が「L5/30」と表わされることになった。
またこの時期には100両生産されたL5/21軽戦車の内の90両の武装を、6.5mmSIA M1918機関銃からより強力な8mmフィアットM35またはブレダM38機関銃へと換装する改修も実施されている。
当初は、L5/21軽戦車の全車の武装を37mm戦車砲M30に換装してL5/30規格とすることも考慮されたのだが、機関銃と戦車砲では砲架構造が全く異なる上、この頃にはイタリア陸軍内部でも旧式と見なされていた同車に対して、すでに生産を中止した砲架の再生産を行なってまで37mm戦車砲を搭載する価値は無いと判断され、代わりに砲(銃)架の小改造だけで実行が可能な、最善と思われる火力強化が行なわれたという次第である。
イタリアが第2次世界大戦に参戦した1940年6月10日の時点でも、少数のL5軽戦車シリーズが現役で部隊配備されており、フランス侵攻時は本国で留守番役だったものの、1940年秋からのギリシャ侵攻では少数が実戦投入されている。
1943年7月に実施された連合軍のシチリア島上陸作戦でも、島内に配備されていた2個戦車中隊がL5軽戦車シリーズで編制されており、その内1個中隊は車体を壕に埋めたダグイン戦法で戦い、もう1個中隊は通常通り運用された。
1943年9月8日のイタリア降伏後、生き残ったL5軽戦車シリーズはイタリアに駐留していたドイツ軍に接収され、後方警戒用ではあったが第2次世界大戦末期まで実戦部隊で使用された。
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<L5/21軽戦車>
全長: 3.73m
全幅: 1.67m
全高: 2.20m
全備重量: 5.9t
乗員: 2名
エンジン: フィアット 4ストローク直列4気筒液冷ガソリン
最大出力: 45hp
最大速度: 21km/h
航続距離: 95km
武装: 6.5mmSIA M1918機関銃×2(後に8mmフィアットM35またはブレダM38機関銃×2)
装甲厚: 6〜16mm
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<L5/30軽戦車>
全長: 3.73m
全幅: 1.67m
全高: 2.20m
全備重量: 5.9t
乗員: 2名
エンジン: フィアット 4ストローク直列4気筒液冷ガソリン
最大出力: 63hp
最大速度: 24km/h
航続距離: 88km
武装: 40口径37mm戦車砲M30×1 (68発)
装甲厚: 6〜16mm
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<参考文献>
・「パンツァー2014年10月号 第一次大戦の戦車総覧 初登場した地上戦の主役達」 荒木雅也 著 アルゴノー
ト社
・「パンツァー2001年9月号 第2次大戦のイタリア軍戦車(1) L5系軽戦車」 白石光 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年4月号 輸入戦車による日本機甲部隊のあゆみ(3)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2020年5月号 イタリア戦車 その誕生と苦難の歩み」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「パンツァー2010年1月号 世界最初の近代戦車 ルノーFT17(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2021年7月号 イタリア軍写真集(4)」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2012年9月号 ソ連軍軽戦車の系譜(1) 黎明期の軽戦車(1)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 イタリア軍用車輌」 嶋田魁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2000年4月号 イタリア陸軍(1) イタリア軍の軍用車輌」 嶋田魁 著 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「ビジュアルガイド WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著 学研
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