+概要
1939年の初頭にイタリア陸軍は初の自走砲の開発に着手し、1940年の初めにL3軽戦車の車体を流用した小型自走砲、「セモヴェンテL3 da 47/32」の試作車が完成した。
この車両は、L3軽戦車の上部構造を機関室の隔壁から前方の部分を取り外して、車体前部に47mm戦車砲を搭載した簡単なもので装甲板は無く、乗員の防御は全く考慮されていなかった。
車体自体が小型のため問題も多く、結局試作のみに終わった。
これに代わって1940年の初めに、L6/40軽戦車の車体を流用した自走砲の開発が開始された。
1941年初頭に試作車が完成し、試験の結果は満足すべきものであったため、「セモヴェンテL40 da 47/32」として制式化されて量産が開始された。
車体はL6/40軽戦車をベースにしており、砲塔を取り外して上面をオープントップの戦闘室とし、戦闘室左前面に32口径47mm戦車砲M35を限定旋回式に搭載していた。
砲の旋回角は27度で、俯仰角は−12〜+20度となっており、車内には70発の47mm砲弾を携行していた。
装甲厚は前面で30mm、側/後面で15mm、上/下面は6mmであった。
車体の右側には、原型となったL6/40軽戦車と同じく操縦手席が配置されており、前面には視察用スリットの付いた小ハッチが設けられていた。
車体の右側面には、操縦手の乗降用に右開き式の横長ハッチが設けられていた。
戦闘室上面は砲座部を除いて完全なオープントップとなっており、布製のカバーが掛かるだけで防御力は全く無い。
そのため戦闘時には乗員(特に操縦手以外)は、ヘルメットを着用することが多かった。
サスペンションは、リーフ・スプリング(板ばね)方式が多いイタリア軍戦車の中にあって、珍しくトーションバー(捩り棒)方式が採用されていた。
転輪は2個をペアにして、トーションバーに繋がれたアーチ型のサスペンション・アームで懸架する方式となっていた。
エンジンは、トリノのフィアット社製の18D 直列4気筒液冷ガソリン・エンジン(出力68hp)を搭載しており、同社製の18TL変速機(前進4段/後進1段)と組み合わされていた。
路上最大速度は36km/hで、路上航続距離は200kmとなっていた。
乗員は原型となったL6/40軽戦車が2名だったのに対し、セモヴェンテL40 da 47/32では装填手が乗車するため、1名増えて3名となった。
主砲の32口径47mm戦車砲M35は、オーストリアのベーラー社製の47mm歩兵砲をジェノヴァのアンサルド社でライセンス生産したもので、M13/40中戦車の主砲にも採用されている。
50mmクラスの戦車砲としては長砲身高初速の優秀な砲であり、徹甲弾(弾頭重量1.44kg)を用いて射距離500mで、垂直に立った43mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹する能力があった。
それを日本陸軍の九五式軽戦車よりもはるかにコンパクトな車体に搭載し、最大装甲厚30mmとそこそこの防御力も持っていたのであるから、セモヴェンテL40
da 47/32はイタリア陸軍最初の量産自走砲として充分な成功作だったといえるだろう。
本車の生産は1943年まで続けられ、数量は不明だが約300両が完成したと思われる。
1941年から歩兵および騎兵部隊の近接支援兵器として実戦配備が開始され、主に北アフリカ、シチリア島、イタリア本国で使用され連合軍相手に善戦したが、連合軍戦車の装甲が厚くなるに従って、主砲の47mm戦車砲の相対的な威力低下と共に徐々に戦闘力を失っていった。
1943年9月のイタリア降伏後は78両のセモヴェンテL40 da 47/32をドイツ軍が接収し、「シュトゥルムゲシュッツL6 mit 47/32
770(i)」の鹵獲兵器呼称を付与したが、すでにこの時期では火力、装甲とも第一線で用いるのには無理があり、内16両のみが1942年に編制された第12特殊戦車中隊に配備され、バルカン半島でパルチザンやゲリラなどの掃討作戦に投入されている。
残りの車両は、1944年にクロアチア陸軍に売却されている。
なお、本車の派生型として車内に無線機を増設し、主砲を外して代わりに、パイプを通じて8mmブレダM38機関銃を射撃することが可能なダミー砲を装備したL40指揮戦車(カルロ・コマンド)が存在するが、戦闘室後部にアンテナが2本立っていたので識別は容易である。
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