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+ショット戦車
イスラエルは建国当初、各国で使い古されたアメリカ製のM4シャーマン中戦車シリーズを、スクラップの名目で買い取って再生して機甲部隊の主力MBTとし、さらに1950年代中期から後半にかけて、M4中戦車の改良型であるM50スーパー・シャーマン戦車を開発、戦力化した。
しかし、敵対するアラブ諸国にソ連製のT-54/T-55中戦車や、重装甲をもって鳴るIS-3重戦車が大量に供給されるようになると、さすがのスーパー・シャーマン戦車も威力不足の色を隠せなくなってしまった。
そこでイスラエルは、M4中戦車シリーズに代わる機甲部隊の主力MBTとして、イギリス陸軍の戦後第1世代MBTであり、多くの国に輸出されてベストセラーとなったセンチュリオン戦車を取得することを決めた。
イスラエルは、1960年にイギリスから60両の中古のセンチュリオンMk.5戦車を導入して以来、使用国で退役したセンチュリオン戦車シリーズも買い集め、自国で改修して今日まで使用を続けている。
しかしイスラエル陸軍に導入された当初、センチュリオン戦車に対する運用側の評価は散々なものであった。
イギリスのロールズ・ロイス社製のミーティアMk.IVB V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力650hp)と、DBE社(David Brown
Engineering:デイヴィッド・ブラウン工業)製の、メリット・ブラウンZ51R手動変速・操向機(前進5段/後進2段)で構成されたセンチュリオン戦車のパワーパックは、イギリスを中心とする西ヨーロッパでの運用を前提に開発されたものであるため、暑熱と細かい砂塵に溢れた中東の砂漠地帯には適応できなかったのである。
ヨーロッパでは信頼性の高さで折り紙を付けられたセンチュリオン戦車のパワーパックも、中東の砂漠地帯ではミクロ単位の微細な砂塵で立ち所に消耗し、度々パワーパックの総取り替え、大整備を要した。
またラジエイターの砂詰まりによるオーバーヒートや、下り勾配などでの空冷ブレーキ・ドラムの過熱による事故も頻発し、乗員を悩ませた。
そしてセンチュリオン戦車の主砲である、イギリスの王立造兵廠製の66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲Mk.IIは、遠距離になるにつれて着弾散布界が急速に広がる傾向があり、広漠地戦闘が前提の射距離1,500m以上での射撃訓練、(FCS(射撃統制装置)が貧弱なアラブ側のソ連製MBTをアウトレンジする目的で実施)では、戦車サイズの標的に対する命中率が50%を切り、スーパー・シャーマン戦車にもはるかに劣ることが戦車兵たちの不評を買った。
これに加えてスーパー・シャーマン戦車は、信頼性と燃費が良好なアメリカのカミンズ社製の、VT8-460-B1 V型8気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力460hp)を搭載していたのに対し、センチュリオン戦車が搭載していたミーティア・ガソリン・エンジンは燃費が悪いために航続距離が短く、しょっちゅう故障するために、本車への搭乗を忌避する戦車将校も出る始末だった。
またガソリン・エンジンであったため、火災の危険性が高いという欠点もあった。
しかし、イスラエル陸軍機甲部隊創設の立役者で師団長だったイスラエル・タル少将は、センチュリオン戦車の余裕ある頑丈な車体と砲塔の構造に着目し、有効な活用の方途を見出した。
彼はイギリス本国のセンチュリオン戦車が、主砲を強力な105mm戦車砲L7に換装していることに目を付け、イスラエル陸軍のセンチュリオン戦車にもこの砲を搭載すると共に、動力関係の改修・交換を実施して性能向上が図れると考えた。
そして参謀本部に提案して技術要員のイギリスへの派遣と、105mm戦車砲L7の買い付けの実現に漕ぎ着けたのである。
そうした折、1961年10月にシリアがエジプトから分離独立すると、反イスラエル色の特に強い同国は国境地帯のゴラン高原で、イスラエル軍に盛んに挑発砲撃を仕掛けてきた。
高原西側下の国境地帯にはイスラエルの開拓農場(キブツ)があり、農作業中の労働者や国境警備隊員に多数の死傷者が出たが、国連の制止もあって航空攻撃その他の本格的な反撃ができず、イスラエル国民は苛立ちを募らせていた。
当時、ゴラン高原はシリア軍によって全体が要塞化されており、かなり高い位置に点在するバンカーに砲兵や旧ドイツ軍のIV号戦車を配置して、イスラエル側の有効射程外から自由自在に撃ち下ろせる態勢にあった。
タル少将はここに急遽、105mm戦車砲L7搭載のセンチュリオン戦車を投入することとし、数両が緊急改造されて現地に派遣された。
そしてシリア軍の砲撃時、その火点を次々に直射によって破壊し、その効果が実証されたのである。
その後1961年後半には、90両の105mm戦車砲搭載型センチュリオン戦車の購入がイギリスと契約された。
またイスラエル陸軍が所有する、既存の20ポンド戦車砲搭載型のセンチュリオン戦車も、順次105mm戦車砲への換装作業が進められた。
新しく主砲に採用されたイギリス製の51口径105mm戦車砲L7A1は、ソ連陸軍のT-54中戦車が装備する56口径100mm戦車砲D-10Tに対抗するために、RARDE(Royal
Armaments Research and Development Establishment:王立武器研究開発局)が開発し、1959年より王立造兵廠のノッティンガム工場で量産が開始されたもので、センチュリオン戦車以外に西ドイツ陸軍のレオパルト1戦車、アメリカ陸軍のM60戦車、日本の陸上自衛隊の74式戦車など、多くの西側第2世代MBTの主砲にも採用された優秀な戦車砲であった。
弾頭重量5.79kgのAPDS(装弾筒付徹甲弾)を使用した場合、砲口初速1,470m/秒、有効射程1,800m、射距離1,000mで330mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
また、イスラエル陸軍の105mm砲搭載型センチュリオン戦車は、イギリス本国の105mm砲搭載型に比べて弾薬収納スペースが拡張されており、105mm砲弾の搭載数はイギリス本国の車両が64発なのに対して、イスラエル陸軍の車両は72発に増加していた。
なおイスラエル陸軍では、主砲を20ポンド戦車砲から105mm戦車砲L7に換装したセンチュリオン戦車に、「ショット」(Sho't:ヘブライ語で「鞭」を意味する)の呼称を与えている。
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+ショット・カル/ベン=グリオン戦車
1967年にはセンチュリオン戦車が搭載するミーティア・ガソリン・エンジンを、火災の危険性が低く燃費が良いディーゼル・エンジンに換装する決定がなされた。
3種類のエンジンによる比較試験が行われた結果、アメリカのコンティネンタル自動車(現コンティネンタル航空宇宙技術)製の、AVDS-1790-2A
V型12気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力750hp)の採用が決定された。
また変速・操向機も、従来のメリット・ブラウンZ51R手動変速・操向機から、アメリカのジェネラル・モーターズ社アリソン部門製の、CD-850-6流体トルク変換機付きクロスドライブ式自動変速・操向機(前進2段/後進1段)に換装されることになった。
このパワーパックは、同時期に導入されていたアメリカ製のM48A5戦車やM60戦車と共通のもので、野戦整備がやり易い上、燃料、部品の補給面でも圧倒的に有利であった。
また性能面でも、路上最大速度が45km/hに向上した他、変速・操向機が手動式から自動式に替わったことに伴い、操縦装置もレバー式からハンドル式に改められ、操縦が容易となって、乗員の疲労の軽減と訓練の単純化に繋がった。
併せて油冷式ブレーキの搭載も図られ、坂道走行の安全性が向上したため、厳しい暑熱の条件下でもセンチュリオン戦車本来の良好な登坂力と、荒地踏破性能が発揮されるようになった。
なお新しいアメリカ製のパワーパックは、従来のイギリス製パワーパックよりもサイズが大きかったため、そのままセンチュリオン戦車の機関室に収めることはできなかった。
このため機関室の容積を拡張し、さらにエンジンをやや傾けて搭載することで何とか収めることができた。
またパワーパックの換装と共に燃料搭載量も増やされ、新しい消火システムも搭載された。
これらの改良により改修型センチュリオン戦車の路上航続距離は、センチュリオンMk.3戦車の約5倍の500kmに大きく向上した。
なお主砲を105mm戦車砲に換装し、新型パワーパックを搭載した改修型センチュリオン戦車には、「ショット・カル」(Sho't Kal:Kalはエンジンメーカーであるコンティネンタル(Continental)社の略語)の呼称が与えられた。
ショット・カル戦車は、1967年の第3次中東戦争(6日戦争)前後までには385両が配備され、開戦後主にゴラン高原方面で大活躍して、シリア陸軍のT-54中戦車やT-34-85中戦車を圧倒した他、シナイ半島でもエジプト陸軍第4機甲師団(T-55中戦車で編制)を壊滅させている。
この6日戦争において勝利の立役者となったショット・カル戦車は、イスラエル建国時の指導者の1人で、パレスチナ地区ユダヤ協議会議長だったダヴィド・ベン=グリオンに因んで、非公式に「ベン=グリオン」(Ben-Gurion)と称されるようになり、その後も余裕ある車内容積を用いてエアコンの搭載、弾道コンピューターや風向センサー等を備えたエルビット/エロップ社製の、「マタドール」(Matador:闘牛士)FCSの導入等が図られてきた。
特にイギリス本国に先駆けて、105mm戦車砲用のAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)も開発され、装甲貫徹力を大幅に向上させ(射距離2,000mで400mm厚程度)、今日でも一流の攻撃力を維持し続けている。
ベン=グリオン戦車の一番近年の実戦参加は、1982年のレバノン侵攻作戦(ガリラヤの平和作戦)であるが、この時には、世界初の実用ERA(爆発反応装甲)である「ブレイザー」(Blazer:ブレザーコート)装甲パッケージを、車体と砲塔の各所に取り付けて投入されている。
これは、PLO(Palestine Liberation Organization:パレスチナ解放機構)ゲリラ部隊が多用した、ソ連製のRPG携帯式対戦車無反動砲から発射される成形炸薬弾に対抗するために、ラファエル社とIMI社(Israel
Military Industries:イスラエル軍事工業)が共同開発したもので、その後、ブレイザーを模倣したERAパッケージがソ連等各国で開発されて、戦車に取り付けられるようになった。
ベン=グリオン戦車は現在も、派生型を含め約1,100両がイスラエル陸軍に在籍している。
現在、イスラエル陸軍に所属する全てのベン=グリオン戦車には、ブレイザー装甲パッケージが装着されている。
また大部分のベン=グリオン戦車は、砲塔の左右側面にIMI社製のCL-3030ボックス式6連装発煙弾発射機を装備している。
さらに一部のベン=グリオン戦車は、主砲防盾上に対地攻撃用と主砲の標定銃を兼ねる、アメリカのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2を1挺固定装備している。
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ショット・カル/ベン=グリオン戦車
全長: 9.854m
車体長: 7.823m
全幅: 3.39m
全高: 3.009m
全備重量: 53.82t
乗員: 4名
エンジン: コンティネンタル AVDS-1790-2A 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 750hp/2,400rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 500km
武装: 51口径105mmライフル砲L7A1×1 (72発)
7.62mm機関銃FN-MAG×2 (5,600発)
装甲厚: 17〜152mm
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参考文献
・「パンツァー2013年9月号 苦心の末、過酷な中東の戦場に適合させたイスラエルのセンチュリオン」 吉田直也
著 アルゴノート社
・「パンツァー2007年4月号 センチュリオンの発展とショトへの変身」 竹内修/白石光 共著 アルゴノート社
・「パンツァー2000年8月号 センチュリオン戦車の開発・構造・発展」 古是三春 著 アルゴノート社
・「パンツァー2011年12月号 各国で使われたセンチュリオン戦車」 城島健二 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 ゴラン高原のセンチュリオン」 松井史衛 著 アルゴノート社
・「ウォーマシン・レポート18 メルカバとイスラエルMBT」 アルゴノート社
・「世界AFV年鑑 2005〜2006」 アルゴノート社
・「グランドパワー2006年8月号 センチュリオン戦車(2) 改修過程と各型の特徴」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2015年2月号 センチュリオン戦車シリーズ」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2005年6月号 シリーズ:中東戦争(3)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(2)
第2次世界大戦後〜現代編」 デルタ出版
・「世界の戦車イラストレイテッド26 メルカバ主力戦車 MKs I/II/III」 サム・カッツ 著 大日本絵画
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「戦車名鑑
1946〜2002 現用編」 コーエー
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