+概要
第1次世界大戦に敗れたドイツは、1919年6月に連合国との間で締結されたヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁止されてしまった。
しかしそれにも関わらずドイツ軍部は、世界の戦車開発の発展状況に目を光らせ秘密の戦車開発を続けた。
1920年代初めにドイツ技術で戦車を生産したのが、スウェーデンだった。
ドイツ最初の戦車となったA7V突撃戦車や、Kヴァーゲン超重戦車などの設計を手掛けたヨーゼフ・フォルマー技師とドイツ軍人のチームは、スウェーデン南端部のランツクルーナにドイツ資本で設立されたランツヴェルク社で、スウェーデン軍最初の戦車「Strv.m/21」(Stridsvagn
modell 21:21式戦車)の開発を行った。
Strv.m/21軽戦車はフォルマーが第1次大戦中にドイツ軍向けに設計したLK.II軽戦車の改良型であり、1922年に10両が生産され1930年代までスウェーデン軍で使用された。
1920年代半ば以降、ドイツ軍が結び付きを深めたのがソヴィエト連邦だった。
ソ連は第1次大戦末期にロシア・ロマノフ王朝を倒し、V.I.レーニン率いるボリシェヴィキ党による共産主義国家を建設し、その結果ドイツと同様に国際社会から爪弾きにされていたのである。
ドイツは1922年4月にソ連とラパッロ条約を結び、連合国の監視網の届かないロシアのはるか奥地に独ソ共同の軍事学校を開設し、ここで戦車の開発と試験を行うことを計画した。
適地として選ばれたのはモスクワの東、ヴォルガ河畔のカザンの広大で平坦な原野であった。
1926~29年にかけてドイツはヴェルサイユ条約を破り、幾つかの試作戦車を作り上げた。
これは世界の戦車の発展傾向に追従するためと、軍需産業に技術力を付けさせ将来の再軍備に備えたものだった。
最初は非常に初歩的なもので装軌式トラクターに剥き出しの砲を載せただけのものだったが、次第に本格的な戦車が作られることになった。
それが第1次大戦後初のドイツ戦車、「軽トラクター」(Leichtertraktor)と「重トラクター」(Großtraktor)である。
ちょっと分かり難い名称だが、これはいわゆる「軽戦車」と「重戦車」のことである。
ドイツ軍はヴェルサイユ条約に違反していることが発覚するのを恐れて、こうした秘匿名称を用いて戦車を農業用機械に偽装したのである。
1925年にドイツ陸軍兵器局は新型重戦車の開発を「重トラクター」の秘匿名称で、ベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社、デュッセルドルフのラインメタル社、エッセンのクルップ社の3社に対して要求した。
そして各社が提出した重トラクターの設計案を検討した上で、兵器局はそれぞれ2両ずつ軟鋼製の試作車を製作することを命じた。
ダイムラー・ベンツ社の試作車は「重トラクターI」、ラインメタル社の試作車は「重トラクターII」、クルップ社の試作車は「重トラクターIII」と呼ばれた。
重トラクターのスペックは戦闘重量15~20t、全長6~7m、全幅3m程度で7.5cm砲と機関銃装備、エンジンの出力は250~300hp、車体側面に装甲スカートを備えており、当時イギリス軍がヴィッカーズ・アームストロング社に開発を進めさせていたA6多砲塔中戦車(後の中戦車Mk.III)に類似した車両だった。
重トラクターの試作車の製作作業は、各社とも1926年頃から始められた。
ダイムラー・ベンツ社の重トラクターIは鬼才フェルディナント・ポルシェ工学博士の設計によるものであったが、多くの欠陥を抱えていたため製作が遅れ試作第1号車の引き渡しは1929年、第2号車は1930年になってしまった。
重トラクターIは第1次大戦時のイギリス軍の菱形戦車シリーズのように、前端が突き出した大型の箱型車体に全体を取り巻くように履帯が巻き付き、その中央に全周旋回式の主砲塔が搭載されていた。
機関室は後方で、ダイムラー・ベンツ社製のM182-206 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力255hp)を搭載していた。
主武装は比較的砲身長の長い7.5cm戦車砲を主砲塔に装備しており、主砲塔の前右側と後方には副武装のラインメタル社製7.92mm空冷機関銃MG13を装備する副砲塔が1基ずつ設けられていた。
また主砲の同軸機関銃として、7.92mm空冷機関銃MG13を1挺装備していた。
この武装配置は、イギリスのA3E1軽戦車やフランスの2C重戦車に似ている。
主砲塔の戦車砲で敵戦車や陣地を攻撃し、副砲塔の機関銃で群がる敵歩兵を追い払おうというものであるが、基本的に古臭い発想であった。
足周りは小直径の転輪が多数並べられたものだが、サスペンションの詳細は不明である。
誘導輪は前部、起動輪は後部に配置されており、上部には支持輪が片側3個取り付けられていた。
走行装置の側面には装甲スカートが取り付けられていたが、このスカートは走行装置をすっぽり覆う大型のもので途中には泥落とし用の溝が設けられていた。
驚くことにポルシェ博士は当初、重トラクターIを水陸両用タイプとして設計していたが、手間が掛かり過ぎるとして途中で水陸両用機構は廃止された。
また重トラクターIはダイムラー・ベンツ社の生産設備の関係で、各部分があちこちのメーカーで分散して製作され、何と競争相手のラインメタル社の子会社であるウンテルラス社でも組み立てられたとされており、クルップ社の重トラクターIIIも同様だったとする説もある。
一方ラインメタル社の重トラクターIIは、ダイムラー・ベンツ社の重トラクターIよりは順調に製作が進み試作第1号車は1928年、第2号車は1929年に引き渡された。
重トラクターIIのデザインは、重トラクターIに基本的に類似したものである。
大型の箱型車体でそれを取り巻くように履帯が巻き付き、その中央に全周旋回式の主砲塔が搭載されていた。
機関室は後方で、ミュンヘンのBMW社(Bayerische Motoren Werke:バイエルン発動機製作所)製のVa V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力250hp)を搭載していた。
路上最大速度40km/h、路上航続距離150kmと機動性能はまずまずであった。
主武装は、主砲塔に後のIV号戦車と同じく短砲身の24口径7.5cm戦車砲を装備していた。
副武装の7.92mm空冷機関銃MG13は、主砲と同軸および車体後部の副砲塔に各1挺ずつ装備されていた。
主砲塔の前方左右には操縦手と無線手用の円筒形キューポラが設けられていたが、ここには武装は装備されていなかった(前方右の無線手用キューポラに7.92mm空冷機関銃MG13を装備していたともいわれる)。
足周りはやはり小直径の転輪が多数並べられたもので、サスペンションの詳細は不明だが重トラクターIより旧式なものだったという。
このため、不整地走行能力は重トラクターIより劣っていた。
転輪は片側16個で誘導輪は前部、起動輪は後部に配置されていた。
上部には、支持輪が片側3個取り付けられていた。
この走行装置の側面は装甲スカートで覆われていたが、スカート中央には脱出用ハッチが設けられていた。
なお重トラクターIIについても、試作第2号車は水陸両用タイプとして製作されたという話が伝えられている。
クルップ社の重トラクターIIIは、ラインメタル社の重トラクターIIと同様試作第1号車は1928年、第2号車は1929年に引き渡された。
重トラクターIIIのデザインはやはり菱形戦車と同様の古臭いもので、基本デザインは重トラクターI/IIと同じであった。
足周りは小直径の転輪が多数並べられたものだがサスペンションの詳細は分かっておらず、性能等についても不明である。
各社が製作した重トラクターの試作車は、ソ連のカザン試験場に船で送られて実用試験が行われた。
その後ドイツ本国に戻され、実際に部隊に配属されたようである。
1935年8月の演習時にドイツ陸軍第1機甲師団は、戦車中隊内に重トラクターを配備していた。
少なくとも教育用には役立ったようだが1929年にドイツ経済が大恐慌に襲われたため、資金的な問題から重トラクターの生産型の発注は行われなかった。
また重トラクターが古臭いコンセプトで設計されており、第2機甲師団長ハインツ・グデーリアンが提唱したドイツ戦車部隊の運用構想に適合しなかったことも、量産されなかった理由の1つといわれている。
残された重トラクターの試作車は、各戦車連隊の司令部(駐屯地)に記念碑として1両ずつ展示されたという。
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