IV号17cm自走加農砲グリレ17/IV号21cm自走臼砲グリレ21
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+開発
1942年1月23日にアドルフ・ヒトラー総統は、それまで前線部隊から要求され続けていた自走砲に関する要求に回答すべく、砲兵用の新型自走砲開発の指示を出した。
この新型自走砲は、弾片や小口径火器に対する防御力を備えれば可とされ、可能な限り既存の車両を(当時開発中であったティーガーI重戦車を含めて)用いることが当初から求められていた。
この要求に従って、各社で様々な新型自走砲が開発、実戦化されることになるが、その中でも最大のものが、17cm加農砲を搭載する超重自走砲「ゲレート809」(809兵器機材)と、同じ車体に後方装填式の21cm臼砲を搭載する「ゲレート810」(810兵器機材)であった。
17cm加農砲と21cm臼砲の自走化が決定されたのは、1942年6月に開かれた総統会議においてである。
ゲレート809/810の開発はエッセンのクルップ社が担当することになったが、ドイツ陸軍から提示されたゲレート809の要求仕様では、同軍の牽引型加農砲としては最も成功作といえる、45口径17cm加農砲K18を車載型としたK72(Sf)を主砲に用い、汎用性を高めるために、主砲は車体から降ろして射撃を行うことも可能なように着脱式とすることが求められていた。
また主砲は、従来の自走砲のような限定旋回式ではなく、全周旋回が可能であることも要求されていた。
ゲレート809の主砲に採用された17cm加農砲K72(Sf)は、砲尾までの全長8.53m、重量17.5tと極めて大型・大重量であり、従来の車両では搭載することは不可能であった。
このためにクルップ社は本車の開発に際して、当時最大級の戦車であったティーガーI重戦車の車体を流用することとし、砲架の下に旋回式の台座を設けることで主砲の全周射撃を可能とした。
さらに、車体の後部からウィンチを用いて主砲を後方に引き出し、車体外に置かれた旋回式台座に載せることで、通常の火砲としての運用を行えるよう考慮した。
鉄道輸送に際しては、ティーガーI重戦車の運搬に用いる貨車が使われることになっていたが、この場合最大幅を抑えるために、戦闘室側面装甲板は内側への傾斜角が与えられていた。
1943年1月には、ゲレート809/810の車体にティーガーI重戦車ではなく、その後継として開発が進められていたティーガーII重戦車を用いることが決まり、1943年秋頃の実戦化を予定していたが、4月には戦車生産の方に重点を置くため、このティーガーII重戦車の車体をベースとした超重自走砲開発計画を棚上げすることがヒトラーから告げられた。
さらに7月に入ると、全ての超重自走砲と重自走砲の開発を白紙に戻すことが通達されたが、ゲレート809/810の開発は例外とされ、早急に基本設計図を提示することを要求した。
しかし戦局の悪化に伴い、既存の戦闘車両の生産が優先されたため、ゲレート809/810の開発は遅々として進まず、1944年9月にようやく、完成した基本設計図とモックアップの完成写真がヒトラーの元に届けられた。
これを見たヒトラーは、製作に入っていたゲレート809の試作第1号車の完成を急がせると共に、少なくとも月産2両の割合で生産準備に着手するように命じた。
また時期は不明だがこれと前後して、車体後方から主砲を引き出して車外で射撃を行うという基本構想は中止され、単純な車体搭載専用型として開発が進められることに方針が変更されている。
ゲレート809/810の制式呼称はそれぞれ、「17cm加農砲K72(Sf)搭載IV号砲車(自走式)」、「21cm臼砲Mrs18/1搭載IV号砲車(自走式)」と定められ、車体と駆動系、足周りなどはティーガーII重戦車のものが用いられていたが、大口径砲搭載のために車体が延長されており、それに伴って転輪数もティーガーIIの片側9個から11個に増やされていた。
なお両車は、チェコ・プラハのBMM社(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik:ボヘミア・モラヴィア機械製作所)が、38(t)戦車の車体をベースに開発した自走重歩兵砲に与えられたのと同じ、「グリレ」(Grille:こおろぎ)という愛称でも呼ばれた。
複数の兵器に同じ愛称を与えるのは、現場の混乱を招くので好ましくないように思えるが、ゲレート809/810の場合は「グリレ」は正式な呼称ではなかった。
しかし開発現場ではゲレート809は「グリレ17」、ゲレート810は「グリレ21」と呼ばれていたようである。
グリレ17/21の車体は、ティーガーII重戦車のものを流用したといっても実際には新たに設計されており、ティーガーIIでは車体後部に置かれていた機関系は車体中央部に移され、車体後部にオープントップ式の固定戦闘室を設けて、主砲を限定旋回式に搭載した。
戦車とは違って最前線で戦うという車両ではないため、車体の装甲厚は前面で30mm、側面で16mmとされ、その結果戦闘重量はグリレ17で58tと、ティーガーII重戦車よりも10tほど軽量にまとめられた。
グリレ17/21の乗員は車長と砲手、操縦手、無線手兼機関銃手に加えて、装填手4名の合計8名となっていたが、車体長10mを超える大柄な車両ながら、さすがに巨大な17cm、21cm弾薬は手に余ったようで、主砲弾薬の搭載数はグリレ17で5発、グリレ21で3発に過ぎなかった。
このため、もし両車が実戦化したならば、専用の弾薬運搬車の必要が生じたことは間違いないだろう。
1945年2~3月頃にはグリレ17自走加農砲の試作第1号車がほぼ完成して、パーダーボルン近郊のハウステンベックに置かれたゼンネ演習場に運ばれたが、アメリカ軍が侵攻した際に発見された試作車にはまだ履帯が装着されておらず、もちろん主砲も搭載していなかったので、走行試験などの試験を行うこと無く敗戦を迎えたものと思われる。
アメリカ軍が接収したグリレ17の試作第1号車は、その後イギリス軍に引き渡され、イギリス軍は本国のボーヴィントン戦車試験場に持ち帰って試験を行うことを計画していた。
グリレ17の試作車は、イギリス軍の60t級牽引トレイラーに載せられて、イギリスに運ばれるのを待っている様子が写真に収められているが、以後の写真は公表されておらず、実際にイギリスに海上輸送されたとか、本国での試験などの報告書も発見されていないので、イギリスに運ばれないままスクラップにされた可能性も高い。
なお、グリレ17への搭載が予定された17cm加農砲K72(Sf)は開発が大幅に遅れたため、ドイツ陸軍はこれに代わる武装を検討しなければならなくなった。
当時、ドイツ陸軍が使用していた火力支援用の大口径火砲として、チェコ・プルゼニのシュコダ製作所が1909年に開発した10口径30.5cm臼砲M11が存在したため、一時この砲を搭載することが検討されたが、この砲は破壊力は大きいものの短砲身の旧式砲であるため、射程が非常に短かった。
そこでドイツ陸軍は1945年1月にシュコダ社に対して、グリレ17の代替砲として、翼安定式砲弾を発射する新型の30.5cm臼砲を早急に開発するよう命令した。
シュコダ社はこれに応じて、わずか20日間で新型30.5cm臼砲の設計を完了し、1945年4月に試作砲を1門完成させたが、結局グリレ17の車体には搭載されずに終わっている。
なお、この新型30.5cm臼砲をグリレ17の車体に搭載した車両は「グリレ30」と呼ばれることが多い。
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+構造
グリレ17/21は、他の自走砲と外観こそ異なるものの、機関室を車体中央部に置き、その後方を主砲を搭載する戦闘区画とした車内レイアウトは、第2次世界大戦半ば以降の自走砲の多くに共通するもので、本車の場合、原型となったティーガーII重戦車と同様に車体最前部左側に操縦手席、右側に無線手兼機関銃手席が設けられていたのが相違点となっている。
操縦手席の前面にはヴァイザーが設けられており、アメリカ軍に鹵獲された車両では、この部分にあたる上面装甲板が取り付けられていなかったので断定はできないが、操縦手席の直上にあたる部分には旋回式ペリスコープが備えられていたと思われる。
反対側の無線手席の前面にはボールマウント式銃架を介して、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が装備されており、この部分はティーガーII重戦車を彷彿させるものがある。
前面上部装甲板の中央には、主砲のトラヴェリング・クランプを装着する基部が溶接されていたが、主砲が搭載されていなかったのでクランプも未装備となっていた。
機関室最後部の上面左右には円形の吸気用グリルが設けられ、その前方には角形の排気用グリルが装着されていたが、これらはティーガーII重戦車から流用されたものであろう。
前述のように、グリレ17/21の機関系はティーガーII重戦車のものが踏襲されており、エンジンはフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL230P30
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力650hp)、変速機はZF社(フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製の「オルファー」(Olvar)OG401216B半自動変速機(前進8段/後進4段)、操向機はカッセルのヘンシェル社製のL801操向機がそれぞれ用いられた。
グリレ17/21の戦闘室は上面と後面がオープンとなっており、戦闘室を構成する各装甲板は溶接ではなくボルトで結合され、容易に取り外すことが可能だった。
また、戦闘室前面装甲板の上部左右は前方に開くパネルとされ、左側パネル中央には照準機の視界を確保するために、もう1枚前方に開く小パネルが装着されていた。
グリレ17の主砲である45口径17cm加農砲K72(Sf)は、旧式化した43口径15cm加農砲K16の後継としてクルップ社が開発し、1941年から部隊配備が始められた牽引型の45口径17cm加農砲K18を車載型としたものである。
大戦末期にアメリカ軍がグリレ17の試作車を鹵獲した際、17cm加農砲K72(Sf)も1門の完成品が別の場所で発見されている。
17cm加農砲K72(Sf)は射撃時の反動を抑えるために、原型のK18には無かった多孔式の砲口制退機が砲口に装着されていた。
なお以前はこの砲は、E-100超重戦車の主砲として開発された17cm戦車砲であると推測されていたが、後にグリレ17の主砲であったことが判明している。
17cm加農砲K72(Sf)は榴弾を射撃した場合、最大装薬であるチャージ4を用いて砲口初速925m/秒、29,600mの最大射程を有していた。
また対装甲目標用のPz.Gr.73徹甲弾を射撃した場合、チャージ3装薬を用いて射距離1,000mで255mm厚(傾斜角30度)のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹可能であり、対戦車自走砲としての運用も充分可能だった。
一方、グリレ21の主砲である29口径21cm臼砲Mrs18/1は、やはり旧式化した13口径21cm臼砲Mrs16の後継としてクルップ社が開発し、1939年から部隊配備が始められたものであり、17cm加農砲K18とは砲架と脚が共通化されていたため問題なく車載化できた。
榴弾を射撃した場合、チャージ6装薬を用いて最大射程16,700mと、17cm加農砲よりもやや射程が劣ったが、その破壊力はさらに大口径ということで、17cm加農砲を大きく上回っていた。
グリレ17とグリレ21は主砲以外は同一の車両であったが、17cm加農砲の方が21cm臼砲より重かったため、戦闘重量はグリレ17が58tだったのに対し、グリレ21は52.7tとやや軽かった。
なお、原型となったティーガーII重戦車ですら思うように生産できなかったことからも分かるように、グリレ17/21は試作車が完成していたとしても前線で必要とする数など生産できるはずもなく、ドイツの戦車開発史上に名を残すだけの存在に終わった。
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<IV号17cm自走加農砲グリレ17>
全長: 13.00m
全幅: 3.27m
全高: 3.15m
全備重量: 58.0t
乗員: 8名
エンジン: マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 650hp/3,000rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 250km
武装: 45口径17cm加農砲K72(Sf)×1 (5発)
7.92mm機関銃MG34×1
装甲厚: 16~30mm
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<IV号21cm自走臼砲グリレ21>
全長: 11.00m
全幅: 3.59m
全高: 3.15m
全備重量: 52.7t
乗員: 8名
エンジン: マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 650hp/3,000rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 250km
武装: 29口径21cm臼砲Mrs18/1×1 (3発)
7.92mm機関銃MG34×1
装甲厚: 16~30mm
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兵器諸元(IV号17cm自走加農砲グリレ17)
兵器諸元(IV号21cm自走臼砲グリレ21)
兵器諸元(IV号30.5cm自走臼砲グリレ30)
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<参考文献>
・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.4 突撃砲/駆逐戦車/自走砲」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版 ・「ドイツ試作/計画戦闘車輌」 箙浩一/後藤仁 共著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年8月号 超重戦車マウス/E100」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画
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