+概要
第2次世界大戦末期に実用化され、イギリス陸軍の戦後最初のMBT(主力戦車)となったセンチュリオン中戦車シリーズの量産が順調に推移し、続いて、ヨーロッパ製の西側戦車として初めて120mm戦車砲を導入したFV214コンカラー重戦車の開発がスタートした1951年に、イギリス戦争省はセンチュリオン中戦車の後継となる新型MBTに関する検討を開始した。
その背景には、当時ソ連がT-34-85中戦車の後継として開発を進めていた新型MBT(後に「T-54中戦車」の呼称が判明したが、当時はまだ詳細は不明であった)に対しては、大戦型のMBTであるセンチュリオン中戦車では対抗することが難しいであろうという判断があった。
戦争省はイギリス陸軍の新型MBTを、ソ連の新型MBTに対抗できる性能を持つ高性能なタイプと、性能的には劣るがより製造コストの安い廉価型の2本立てで開発することを構想していた。
ソ連を頂点とするWTO(ワルシャワ条約機構)軍は、NATO(北大西洋条約機構)軍を圧倒的に上回る機甲戦力を有していると推測されており、この数的劣勢を補うにはコストの安い戦闘車両も必要であると考えたのである。
これはイギリスだけでなくNATO同盟国の西ドイツも同様のプランを構想しており、後にレオパルト1戦車を補完する存在としてKJPz.4-5駆逐戦車を実戦化している。
イギリス陸軍の新型MBTの内、主力となる高性能型には「2式中型砲戦車」(No.2 Medium Gun Tank)の呼称が与えられた。
この2式中型砲戦車には「FV4201」の開発番号が与えられ、後にチーフテン戦車として具現することになる。
一方、2式中型砲戦車を補完する廉価型の戦闘車両には「プロディガル」(Prodigal:放蕩息子)という呼称が与えられた。
プロディガル計画には「FV4401」の開発番号が与えられ、ロンドン西方のサリー州チョーバムにあるFVRDE(Fighting Vehicles
Research and Development Establishment:戦闘車両開発研究所)の手により少なくとも3種類の設計案が検討された。
FV4401の3種類の設計案の内、最初に検討された案の要求仕様は、輸送機による空輸が可能で小型かつ重装甲を施し、良好な機動性を有して路上航続距離は500マイル(805km)。
乗員は1〜2名で、重量27kgのHESH(粘着榴弾)を砲口初速600m/秒で射撃可能な液体装薬式の160mm無反動砲を備えるというものであった。
その計画の第一段階として、まず試験車両が1両製作された。
この車両は、イギリス陸軍から退役したクロムウェル巡航戦車とコメット巡航戦車のコンポーネントを流用して製作され、車内に砲架を設けて限定旋回式に66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲が搭載された。
足周りは片側4個の転輪、片側2個の上部支持輪、前方の誘導輪、後方の起動輪で構成されており、主砲には油圧駆動装置が組み込まれたが、それ以上のディテールは不明である。
また発想のみではあるが、前後に2両の装甲車両を結合するという案も検討された。
その後1962年末にアメリカで開かれた新型戦車設計協議会の勝者と同様の発想だが、アメリカの場合は曲がりなりにも模型が製作されたのに対し、イギリスでは図面すら公開されていない。
なおボーヴィントン戦車博物館の記録では、いずれの車両も「コンテンシャス」(Contentious:喧嘩好き)と呼ばれていたとしている。
FV4401の最後の案はそれ以上に奇抜なもので、基本概念図と模型が製作されている。
この第3案に対して要求された仕様は、敵戦車の撃破能力を備え良好な装甲を有すること。
乗員1名でダービーのロールズ・ロイス社製のエンジンを備えて車重の軽減に努め、生産に要するコストはコンカラー重戦車の1/4を上限とする。
武装は歩兵向けとして開発された120mm無反動砲BATを流用し、弾薬7発を収容する回転式の自動装填式弾倉を設け、中央に2基のペリスコープを備えたキューポラを装着する旋回式小型砲塔の左右に1門ずつ装備。
また主砲の内側には左側に12.7mm標定銃、右側に7.62mm同軸機関銃をそれぞれ備えて、照準装置はセンチュリオン中戦車から流用する。
油圧装置を用いる主砲の俯仰角は−7〜+10度で無線機を標準装備し、エンジンにはロールズ・ロイス社製のB81 直列8気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量6,516cc、出力185hp/3,750rpm)を用いるというものであった。
いかにも実現不可能な案のように感じるが、時を同じくしてアメリカで開発が進められたM50オントス自走無反動砲とコンセプト自体は似ているので、乗員数を増やすなど設計を変更すれば実用化に漕ぎ着けた可能性もある。
時期は不明だが、1955年以前に前述した20ポンド戦車砲搭載の試験車両を用いて行われた試験の結果から、FV4401は乗員1名ではあまりにも作業量が多過ぎて戦闘を行うことなどまず不可能だとの判断が下され、計画自体がキャンセルされてしまった。
残された試験車両は現在、ボーヴィントン戦車博物館の展示品として余生を送っている。
結局FV4401は、西ドイツのKJPz.4-5駆逐戦車やアメリカのM50オントス自走無反動砲のように実用化には至らずに終わってしまったが、本車の開発で得られたノウハウは並行して進められたチーフテン戦車の開発にフィードバックされているので、その意味では全く無駄ではなかったといっても良いであろう。
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